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<完結済み> やさしい記録のつくり方  作者: 第三ひよこ丸


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第08話 修正できない記録

 午後の光は、時間の経過をそのまま示すというよりも、どこかで分断されたものをつなぎ直そうとするように、細く途切れながら通りへ落ちていた。

 朝のように均一ではなく、建物の隙間や残された構造物の影を縫うようにして差し込むため、地面の上には明るさと暗さがまだらに並び、その境界もまた曖昧なまま揺れている。

 人がその上を歩くたびに、足元だけがわずかに沈んだり浮いたりして見え、同じ場所を進んでいるはずなのに、それぞれが少しずつ違う時間の上を歩いているような印象を残していく。その違いははっきりとしたものではないが、視線を向けている間、静かにそこにあり続けていた。


 

 机の上には、ノートとペンが置かれたままになっている。手を伸ばせばすぐに触れられる距離にあるのに、その距離が妙に遠く感じられ、実際に触れるまでにわずかなためらいが挟まる。そのためらいの理由ははっきりしないが、触れてしまえば何かが決まってしまうような感覚だけが先にあり、その感覚が動きを鈍らせている。


 書かなければならないことは分かっている。

 やるべきことも単純で、前に書いたものを見直し、必要なところを直していけばいいはずだった。

 けれど、ノートを開いても、その先に続くはずの手順がつながらない。視線は紙の上をなぞるのに、そこから先へ進むための判断がどこにも見つからず、同じ行を何度も追いかけるだけで時間が過ぎていく。


 改めて最初から読み直すと、そこに並んでいる文章は整っている。

 順番も崩れておらず、出来事の流れも無理なくつながっているため、どこを読んでも意味は通るし、記録として成立していることに疑いはない。

 それでも、最後まで読み終えたあとに残る感触だけが、どうしても軽く感じられる。もともとそこにあったはずの重さや引っかかりが、言葉に置き換えられた段階で少しだけ削がれてしまっているようで、その削られた部分がどこにあったのかを思い出そうとしても、具体的な箇所として浮かび上がってこないため、修正の手がかりとして掴むことができない。


 削りすぎたのではないかと考えてみても、意識して何かを削った覚えはなく、むしろ必要なものだけを残すように選んだはずで、その判断自体が誤っていたとは思えない。それでも、その“必要なもの”だけで構成された形が結果として何かを取りこぼしているように見える以上、問題は削ったかどうかではなく、残したものの組み合わせや並び方にあるのではないかという考えが浮かぶ。

 ただ、その組み合わせをどう変えればよいのかが分からないため、手を入れるべき場所を特定できないまま、考えだけが同じところを巡ることになる。


 ノートを閉じると、紙の上から視線は離れるが、違和感そのものは消えない。それどころか、書かれていない部分の存在だけが強く意識に残り、書かなかったものではなく、書いたはずのものの中に欠けがあるという感覚が静かに残り続ける。そのため、どこを直せばいいのかという問いそのものが成立しなくなり、修正という行為が前提を失ったまま宙に浮いた状態になる。


 

 入口のベルが鳴り、顔を上げると、昨日の男が立っていた。視線の動きも歩き方も変わらず、そのまま店の中に入り、前と同じ椅子に座る。その動きに迷いはなく、ここへ来ること自体はすでに決まっていたように見えた。


「書き直してもらえましたか?」


 前置きのない問いかけだったが、その声には急かすような強さはなく、ただ確認するための静かな調子があった。


「まだです。どこを直せばいいのかが分からなくて、手が止まったままになっています」


 そう答えると、男は小さくうなずき、少しだけ視線を落としてからゆっくりと顔を上げる。


「難しいですか? そうですよね。私も、どこが違うのか説明できるわけではないんです。ただ、アレではないということだけは分かる。それだけしか言えないのが申し訳ないんですが、それでも違うという感覚だけははっきりしていて、どうしてもそのままでは受け取れないんです」


 その言い方は穏やかだったが、迷いはない。


 ノートを開いて見せると、男は前と同じように静かに読み始める。途中で止まることなく最後まで目を通し、そのまましばらく視線を紙の上に置いたまま考え込む。


「やはり違う。間違っているわけではないんですが、こんなふうには考えていなかったはずなんです。順番もそうですし、まとまり方も違う気がする。実際には、ここまで綺麗に並んでいなかったと思うし、もっと断片的に浮かんできて、それをその場でつなぎ合わせていたような、そんな感覚だったと思います。ただ、そのままだと読めないと思うし、だからといって整えすぎると今みたいに違うものになる。その間にある形がどこなのかが、自分でもはっきりしないんです」


 整えれば違う。

 崩せば伝わらない。

 その両方が同時に存在している。


「もう一度、話してもらえますか? そのときに、思い出す順番のままで構いません」


 そう言うと、男はうなずき、同じ出来事を語り始める。内容自体は変わらないが、語られる順番は一定ではなく、結論に近い部分が先に出て、そのあとで経緯が補われる形になり、途中で別の場面へ移動したあと再び戻るという流れが何度も繰り返される。そのため、出来事そのものは同じでありながら、その認識のされ方が直線ではなかったことが、少しずつ見えてくる。


 僕はそれをそのまま書き取る。繋げようとはせず、意味も補わない。ただし、そのままでは読めなくなるため、完全に崩してしまわないようにだけ気を配りながら、読める形を保つぎりぎりの位置を探るようにして言葉を置いていく。


 書き進めるうちに、前とは違う感触が少しずつ現れてくる。整えられてはいないが、完全に崩れてもいない、その中間にある形が、断片の並びとしてゆっくりと浮かび上がってくる。


 書き終えたあと、そのまま清書に移る。順番を固定せず、断片を並べる。ただし、ばらばらになりすぎないようにだけ整える。その境界を崩さないように注意しながら、時間をかけて書き上げる。


 封筒に入れ、差し出す。


「確認してください」


 男はそれを受け取り、今度は前よりもゆっくりと読み進める。途中で視線が戻る。その動きがあるということは、前とは違うものになっているということでもある。


 最後まで読み終えたあと、少しだけ考える。


「前よりは近いです。ただ、まだ違う気がします。でも、少しだけ近づいたという感じはあるので、この方向なのかもしれません。はっきりとは言えませんが、少なくとも前よりは、自分が思い出していたときの感覚に近いところがあると思います」


 評価というより、確かめるような言い方だった。

 男は紙を封筒に戻し、静かに立ち上がる。


「もう少し考えてみます。また来ます」


 それだけ言って店を出ていく。


 扉が閉まると、机の上には何も残らない。ノートを開くと、異なる形の記録が二つ並んでいる。どちらも間違ってはいないが、どちらも決定的には一致していない。


 どこへ向かえばいいのかが分からないまま、ペンを持つ。書けば整う。整えれば、また違うと言われる。その繰り返しになることは分かっている。それでも、書かなければならない。


 そのとき、あの言葉が浮かぶ。


 

 ――それ、あんたが安心したいだけやろ。


 

 今は書いているときだけでなく、何もしていないときにも現れるようになっている。消えずに残り続け、ノートの上の文字と並んだまま離れない。


 外では通りが続いている。光はさらに傾き、影は長くなる。人の数は変わらない。

 それでも、どこかで確実にズレている。


 そのズレだけが、やわらかく、確かに残り続けていた。

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