夜が来る前に
夜は、いきなり来ない。
最初は、音が減るところから始まる。
夕方の街は、
まだ生きているふりが上手だ。
人の声も、車の音も、
ちゃんと存在感がある。
でも、どこか薄い。
彼女は駅前のベンチに腰掛けて、
紙カップの飲み物を両手で包んでいた。
温度はもう、ほとんど感じない。
今日一日を思い返そうとして、
やめた。
思い返すほどのことは、
何も起きていない。
それが一番、厄介だった。
「何もなかった」
そのはずなのに、
胸の奥がざわついている。
昼間の沈黙。
午後の影。
何度も見てしまった空の色。
全部、
大したことじゃないのに。
改札を抜ける人の流れを眺めながら、
彼女はゆっくり息を吐いた。
誰かに会いたいわけじゃない。
話したいことがあるわけでもない。
ただ、
一人でいるのが
少しだけ怖かった。
スマホを開く。
指が止まる。
連絡先の一覧を上から下まで見て、
結局、何も選ばずに閉じた。
誰に送っても、
同じ気がした。
「大丈夫?」って聞かれたら、
「大丈夫」って答えてしまう。
それが分かっているから。
空が少しずつ暗くなる。
街灯が一つ、また一つと点いていく。
夜が近づくと、
世界は優しくなるふりをする。
明るい色を足して、
怖さを隠してくれる。
でも彼女は知っている。
本当の夜は、
灯りの外側にあることを。
ベンチから立ち上がる。
帰らなきゃ、と思う。
理由はない。
ただ、帰る時間だから。
駅を出て、
住宅街の道を歩く。
夕飯の匂い。
テレビの音。
窓越しの笑い声。
全部、ちゃんとした日常で、
ちゃんと遠い。
足を止めて、
空を見上げる。
もう、ほとんど夜だった。
「……来ちゃうな」
誰に向けたでもない言葉が、
喉の奥で消える。
逃げる準備は、
もう終わっている。
あとは、
夜を迎えるだけ。
怖いままでいい。
不安なままでいい。
それでも、
朝よりも正直なこの時間を、
嫌いになりたくなかった。
彼女は一歩、
暗くなった道に踏み出す。
夜は、
もうすぐそこまで来ていた。




