朝になれなかった人へ
朝は、突然やってくるものじゃない。
ゆっくり、気づかれないように、
夜の肩に手を置くみたいに始まる。
彼女が瞬きをした、その一瞬で、
空の色はほんの少しだけ現実寄りになった。
さっきまで曖昧だった輪郭が、
「形」として主張し始める。
それが、どうしようもなく怖い。
世界はいつも、
こちらの準備なんて待ってくれない。
遠くで足音がした。
規則正しくもなく、急ぐわけでもない、
ただ「そこに人がいる」と分かる音。
彼女は振り返らない。
振り返ったら、今の自分が崩れそうだった。
それでも足音は止まらず、
同じ空気を共有する距離まで近づいてくる。
「……起きてたんだ」
低くて、朝に似合わない声。
眠りの名残を引きずった、少しだけ不器用な音。
返事をするべきか迷って、
結局、彼女は小さく頷いた。
それだけで十分だと、
なぜか相手も分かってしまったらしい。
二人の間に、沈黙が落ちる。
でもそれは、気まずさじゃない。
夜が残した最後の余韻みたいな、
触れたら壊れそうな静けさ。
「……朝、嫌い?」
唐突な質問。
優しさとも無神経とも言えない、
ただの正直。
彼女は少し考えてから、首を横に振る。
「嫌いじゃない。
ただ……得意じゃないだけ」
言葉にした途端、
胸の奥で何かがほどけた気がした。
得意じゃない。
それだけでいいのに、
今まで言えなかった。
相手は小さく笑う。
安心したような、
でも踏み込みすぎない距離感で。
「そっか。
俺も、朝になる前の方が好き」
その一言が、
夜を肯定されたみたいで、
彼女はほんの少しだけ救われる。
空はもう、完全に暁色だ。
逃げ場のない明るさ。
でも隣に立つ影は、
まだちゃんと夜の温度を覚えている。
「行く?」
そう聞かれて、
彼女は初めて相手を見る。
その表情は、待っているけれど、
引っ張らない顔だった。
選択を、預けてくる顔。
彼女は一度、深く息を吸う。
朝の空気は冷たくて、
でも肺の奥まで届く。
「……もう少しだけ」
そう答えると、
相手は何も言わずに頷いた。
二人並んで、
完全な朝になる直前の世界を見る。
夜になれなかった人たちのための、
ほんの短い時間。
彼女はまだ歩き出さない。
でも、独りでもない。
それだけで今日は、
少しだけ前に進めた気がした。




