第2話 唐辛子の仕掛け
安斎が倒れた事件から数日後、茶寮「紅椿茶寮」は普段通りの静けさを取り戻していた。雨の降る日も、晴れた日も、志乃は変わらず茶を点て、訪れる客の動きを静かに観察している。
「いやあ、あの日は驚いたなあ……」
カウンターに座る常連たちが、安斎の出来事を話題にしている。
「毒かと思ったけど、どうやら違ったみたいですね」
小説家の友人の声に、志乃はゆっくりと茶を差し出した。
「正体は、唐辛子粉。茶碗の縁にごく薄く塗ってあったのよ」
客たちは一斉に目を見開く。唐辛子? それだけであんなに咳き込むのか、と誰もが驚いた。
志乃は茶碗を手に取り、カウンターの上で軽く傾けて見せる。
「ほら、縁に沿ってわずかに光っているでしょ? 米の糊で薄く固定されていたから、飲むまで気づかないの」
「でも、どうしてそんなことを……」
若い男性客が小声で呟く。
「安斎さんが普段、毒や中毒を題材に小説を書いているのを知ってる人が、皮肉を込めて仕掛けたのね」
志乃の目は、冷静に、そして少しだけ楽しげに輝いていた。
「熱い茶を注ぐと、蒸気で唐辛子粉が溶けて、飲んだ瞬間に舌や喉を焼くような刺激になる。毒に見えるけれど、実際には命を奪わない」
常連たちは、なるほどと頷きながらも、どこか興奮気味だった。
「なるほど……まるで小説の中のトリックみたいだな」
別の客が感心したように言う。
「そう、現実でもできる、けれど気づきにくいトリック。これを考えた犯人は、残念ながら人の評判を落とすことしか考えていなかった。でも、茶寮にとっては小さな事件にすぎないわ」
志乃は茶を点て直し、客たちに差し出す。
「さあ、みんなで落ち着いてお茶を飲みましょう。唐辛子粉はもう除去済みだから、安心して」
その日の午後、茶寮には再び静かな時間が流れた。
雨の匂いと茶の香りが混ざる中、志乃は心の中で思う。
“本当に危ない毒は、静かに人を狙うもの。騒ぎを起こす毒なんて、所詮は小さなトリックにすぎないのよね――”
カウンター越しに、客たちは安堵の表情を浮かべて茶を啜った。
小さな茶寮で起きた、ちょっと不思議な事件は、こうして静かに幕を下ろしたのだった。




