第10話 狂気という文字そのもの
目に輝きはく、心がここにあるのかすら分からない。それほどに空虚な、まるで──人形。まさにそれだと思った。
「こっちには行っちゃダメって……言われてましたよね?」
下を向いたまま、呟いた。
独り言かと疑うほど小さな、消え入るような声だった。無機質で、それでいて冷たい。機械にでも喋らせているのように。
今気づいた。ここに踏み入るべきではなかったんだ。どうしてだろう? 自分よりも幼い少女に恐怖を感じるのは。
僕は下を向いて立ち尽くす彼女の変化を見逃さないようにしつつ、少しずつ、少しずつ、距離をとる。
今この状況で一つだけ分かることがある。
それは、この得体の知れない存在から逃げなくてはならないということだ。
彼女は動かない。
唾を飲む。
背中と額から吹き出た汗が、まるで氷のようにツゥーと肌を冷たく撫でていく。さっきから心臓の音がいやにうるさい。
距離を離す。
少しずつ、少しずつ。草を踏みしめる音さえも立てないようにゆっくりと。
動かない。エミリーさんはピクリとも動いていない。まるで電池が切れた機械のように。
なぜ動かない? 何が起きて──
「!」
その時、彼女がゆっくりと顔を上げた。
クレヨンでぐちゃぐちゃに描いたかのような笑顔で笑っている。
そして……その目が僕を、捉えた。
同時に僕は走り出した。
恐怖で緊張した筋肉では、うまく走れない。それでも走るしかない。
「間に合った! やっと! これで! ついに! ああ嬉しい!」
まるでお花畑でもスキップしているかのような軽やかなステップに張り付いた歪な笑顔で追いかけてくる。
狂気という文字そのものが僕を後ろから追いかけて来ているのではないかと錯覚しそうになる。それぐらいまともじゃない。
夢の中を走っているように体がうまく動かせない。それでも走る。前だけを見て。
「外に出るなって!」
声がさっきよりも近付いている。距離が詰まってきているらしい。
だがまだ可能性はある。
どうやらこの人にとって柵の外に出られることは都合が良くないらしい。つまり、外に出れば助かるかもしれないということだ。
「見えた! いける!」
闇雲に走っているうちに柵が見えてきた。
勢いよく柵を飛び越えるために足を上げ──
「が……」
な、ぜ、だ? おかしい。身体が進まない。それに胸の辺りが痛い。
僕は首をゆっくりと下に向け、痛みがする箇所を見た。
…………。
僕の胸には赤く染まったナイフが根元までピッタリと埋まっていた。赤色が広がっていく。
「これで、終わり」
後ろにいたはずの存在が目の前にいる。
……なるほど、僕は刺されたのか。
勢いそのままに、みっともなく柵に足を引っ掛け、うつ伏せで倒れ込んだ。
柵を境目にして膝から上は柵の外側で、下は柵の内側にある。
ははは、シーソーみたいだ。
自分の体じゃないみたいに意識も感覚も消えていく。存在も。何もかも。
僕は死んだ。




