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一切の光に恵まれない暗闇の中。
長い階段をやったこともない登山に近い感覚で下っている。
なにしろこの階段、進むにつれ酷く損傷していることが分かった。足を着地させようと伸ばした先に受け止める硬さがないこともしばしばで、一歩一歩に緊張感を持って挑まなければならない状況だ。
当然不測の事態も起こってしまうもので。
「わっ!?」
驚愕の声と同時、前のめりに体勢が崩れる。体は反射的に重心を後ろに持ってこようと動くが間に合わない。
すると細い棒のようなものが鎖骨にあてがわれた。それは倒れる胴に合わせてクッションのように宙に沈み、ある程度の衝撃を殺すと力強く体を押し返してくる。
押し返された勢いで倒れてしまわぬよう足腰の動きに意識を集中させていると、前方からくすくすと抑えた笑い声がした。
「三段続けて足場がなかった。なかなか引きがいいね」
黒一色の景色の中、落ち着いた少年の声が大きさも知れぬ空間内にやわらかに反響する。この短時間ですっかり聞き慣れてしまったテノールは、しかし日の下で見た幼げな彼の姿とはやはりずれたものを感じてしまう。
幼げといえば、彼はその見た目からは想像し難いが意外にも腕力がある。さっきも、倒れる体を肘から下の前腕部分で支えてくれた。自身の身長は高い方だと思っていたが、その重さを難なく受け止めてしまうのだからすごい。
「ごめん。さっきから助けてもらってばかりで」
「いいんだ。すんなり歩けたら意味がないから」
少し前に目にした大きな瞳の位置を探りながら言うと、先程よりも遠くから返答がある。慌てて後を追おうとすれば「その六段は左に寄って降りるといい」と丁寧に案内される。
こういったやり取りは階段を降り始めた当初から続いていた。馴れとは恐ろしいもので、最初こそ案内される度に「申し訳ない」と感じていた気持ちは今や無いに等しい。それでも短い謝罪が口を衝いてしまうのは、最早反射に近い感覚だった。
「階段はすんなり歩けた方がいいのでは?」
先を行く彼の歩みは無音。距離感が掴めないままだったが、気にせずに問いかける。
「ここは隠し通路なんだよ? 敵に侵入されては困るから明かりも無ければ歩きにくい構造になっている」
隣から返事があり小さく驚く。「その場に座って。足を伸ばして足場を探して」と指示があり、それに従って数段分下降する。
「なるほど。でも自分達が使う時に困らないの?」
「歩き慣れればいい。そうすれば敵にとってのみ困難な道となる。音も少しは反響するし、相手の位置も把握できて便利でしょ?」
「……”地下”が侵入や追手の心配をしなければいけない環境なのはよく分かった。でもそんなこと僕に教えて大丈夫なの?」
「大丈夫。だって君は絶対にイヌを買う。となると、恐らくここを使うことになるから。地上との行き来で使いながら慣れていくといい。その代わり、出入りを誰にも見られてはいけないよ。物には使い方があるからね」
「……買わないという選択肢は」
「もちろんあるよ、決めるのは君だもの。でも」
無限に思える闇の中、彼の気配がさらに近づいてくる。悪戯を仕掛ける悪魔のような楽しげな声が耳元でそっと嗤った。
「買わなかった時、君は一生後悔すると思うよ」
階段を降りきり、灯りのない道を導かれるまま何度も曲がった末に彼は漸く足を止めた。
「いいかい、ソロ」
自分の目線よりも低い位置から視線を感じつつ、ソロは彼の気配と真直ぐに向き合い一度瞬く。
それを認めてか、彼は一拍の間を置くと確かめるように言葉を紡ぎだした。
「この先に広がる場所は”地下”。君がいた所とは別世界だ。分かるね? 法はあるがないに等しい。”上”でも大して当てにならないが一応言うと警察もいない。戻るなら今だけど」
「イヌを買うって話は?」
「忘れて引き返すのもあり」
「でも後悔するって」
「後悔すると思うよ」
「ほら」
「だけど選択するのは君だとも言ったじゃないか」
「どんなイヌかも分からないのに? それに、冷静になって考えてみたら”地下”でイヌを買うっておかしくないかな? ”上”でイヌを買う人もいるのに。何より僕は寄付しようと思って――」
「ちょっと待って」
ソロが疑問を素直にぶつけると、眼前の彼の淡白な声色に怪訝そうな色が混じる。
「”地下”でイヌを買う。どういうことか分かるかい?」
幼子を相手にするような問い方。
ソロは数秒沈黙し首を傾げる。ここが日の下であれば、「分からないと何かまずかったかな」としっかり顔に書かれているのが誰の目からも明らかだったことだろう。
「なるほど、イヌ違いだったのか。道理で」
「どういうこと?」
一人納得した様子の彼に訊けば、「つまりね」と淀みのないテノールが冷めた暗所に美しく響き渡った。
「君に買ってほしいのはイヌ科イヌ属に分類される犬じゃないということだよ」
「『犬』じゃない……」
「そう。君に買ってほしいのは呪いに侵された卑しき『狗』――呪われ者だ」
呪われ者。
耳覚えのない音を胸中で反芻し、ソロは「ふうん、そうなんだ?」と曖昧に返した。
足元にあるという電子版を彼が操作すると、金属の軋む音と同時に頭上の帳に切込みが入った。
黒い壁にぽっかりと空いた穴。そこに星の群れを抱いた空を見た時、ソロはそれが外に通じる最後の扉であることに気付いた。外から吹き込む風に髪を掻き回されながらも、その視線がぶれることはない。
「星がこんなに」
信じられない光景に魅せられ、感嘆の息が零れる。すかさず隣から「ホログラムだよ。空は君たちの特権なんだから」と解説が入るもそんなことはどうでもいい。正体が何であれ美しいものは美しいと思ってしまう。
「ホログラムでもすごい。”上”でこんなの見たことないよ」
「だろうね。”上”で星が綺麗に見えるのはもうプラネタリウムくらいじゃないかな」
言うと彼は軽やかに跳躍し、小柄な身体で容易く扉を通り抜けてしまった。
一瞬の出来事にソロは驚きを隠せない。扉は腕を伸ばせばなんとか手が届く高さに位置しているが、自分でも苦戦しそうなものを低身長の彼が難なく超えてしまった。とても人間業とは思えなかった。
茫然としていると、丸く切り抜かれた夜空から腕が一本垂れてくる。
「ほら、引っ張ってあげるから掴まって」
ソロのいる闇よりも幾分か明るい世界から、青と金色のオッドアイが微笑んでいた。
彼に手を借りながら扉を抜けると、最初に目に入ったのは白い玉垣と鳥居。鳥居の正面に回り込んでみると、その奥には小さな祠がある。
隠し通路を通った身としては、この位置関係に明確な意図を感じざるを得ない。
「仮にも神様のお膝元に隠そうなんて無礼なのでは」
彼がまた何かで操作したのだろう。閉じていく扉を見下ろしながらソロは独り言ちた。
扉が完全に閉口すると、白いパーカーのフードを目深に被った彼の口角がそっと持ち上がる。
「何だろうと役割を与えられて居場所を得ているのだから充分さ。さて、行こうか」
風が強く吹き付ける中、彼は走り出しソロもそれに倣う。そうしながら、着慣れないフード付きのロングコートが思った以上に動きにくいことを改めて感じた。
先を行く白い背中は祠の対角にある円柱型のエレベーターの前で停止した。
「ここって屋上だったんだ」
壁に浮かび上がるように表示された階数を認めて場違いな感想を述べてしまう。
「星以外どうでもいいんだね」と言う彼と共にエレベーターに乗り込んだ。
ビルの屋上三十五階からエレベーターで一階へ。
次いで、人の行き交いで雑然とした街中を彼は間を縫うように進んでいった。時折足を止めて背後を振り返るのは、ソロが逸れていないかを確認しているのだろう。ありがたいことだ。
街だというのに、そこには”上”のような解放感ある賑わいはなかった。どこか暗澹とした空気の中を行く人々が、ソロには汚れた川底を泳ぐ魚のように見えてならない。
ソロにとって街とは、老若男女の活気が溢れる場所だ。若者は好奇心旺盛に新しさを求め、老人は確固たる自我を基に己の時間を満喫する。例え互いを認識せずとも、擦れ違えば僅かな情報をヒントにその人の人間性を垣間見ることのできる場所。それが街だと思っていた。
しかしここで擦れ違う人々の多くはくすんだ色合いの布を体に巻き付けている。個人の特長なんてものは邪魔なのか、限りなく殺されているような印象を受けた。歩く者は死んだように沈黙している一方で、店先で足を止める者は店員に媚びを売られて得意気にゲラゲラと笑っている。中には肩を晒した女の首に堂々と吸い付く者もいて、驚愕のあまり思考が消し飛んでしまいそうになった。
”上”と”地下”ってこんなに違うものなのか。
そんなことを考えていると唐突に、右肩に衝撃が走った。鈍い痛みを伴うその勢いのままに身体が倒れそうになる。
しかしそうはならない。いつの間に傍に来たのか、彼が後方に押しやられたソロの右腕を力強く前へと引っ張った。
ごめん、ありがとう。
礼を言おうと口を開くも、眼前に彼の姿がない。
自身の背後から「ぎゃあ!」と濁った叫び声がして、反射的にそちらに顔を向ける。
そこに彼はいた。
彼は彼よりもずっと体格のいい男の背中に馬乗りになり、呻く男と一言二言の言葉を交わすとすぐにソロの傍に戻って来る。小さく薄いソロの財布を手にして。
「油断するとこうなる」
「気づかなかった。さっきやられたんだ? すごいね」
「まさか盗られて感動してるの?」
受け取った財布をコート下に着るジャケットの内ポケットに仕舞う。念のため先程とは逆側にした。意味はあまりないだろうが。
「違うよ。君の早業に感動した。僕を起こしたと思ったらもう男を取り押さえてた。あっ、助けてくれてありがとう。あと『法がない』っていうの、今ので実感したかも」
ゆっくりと、しかし決して止まることのない人々の歩みは先程のことがあっても少しも乱れない。巻き込まれないようにと距離を取る者はちらほらいたようだが、ソロの財布を取り戻そうと動いた彼に加勢する者も、何事かと動揺する者もいなかった。ここではああいったことが日常茶飯事なのだと肌で感じる。
”上”とは本当に違うんだね。
言おうとして、できなかった。
彼の掌がソロの口元を瞬時に押さえつけたのだ。
彼は余った手でソロの右腕を掴まえると、引きずるようにして路地裏に入っていく。
「危機感のない君にちゃんと忠告しなかった僕が悪かったね、申し訳ない」
ソロを解放して彼が最初に言ったことがそれだった。なお、申し訳ないと言う割に相変わらず平らかな声をしている。
「感謝こそすれ、謝罪されるようなことは何もされてないと思うけど」
「”地下”ではあまり”上”の話題は出さない方がいい。”地下”にいる間は自分もまた”地下”の住人であるかのように振舞うんだ」
「え、どうして」
「基本的に”上”の人間は”地下”の存在を知らないからね。”上”で”地下”のことを知っているのは権限を持つ限られた人間かよっぽどの富裕層、もしくは諸々の悪人だけだ」
「そう、なの? え、だって僕」
「君がどうなのかは関係ないよ。周囲が君をどう見るかだ。場合によっては殺されかねないんだから気をつけて」
「殺される? 金銭を盗られるだけじゃなくて?」
富裕層と勘違いされて身包みを剥がれる程度の想像は難くないが、命まで獲られるとはどういった了見なのか。
「君は人間の悪意にもう少し興味を持った方がいいね」
ソロの純粋な疑問に、彼は色の異なる双眸を細めた。




