第十八話 おやすみ
金曜日の夕方。
優は佳乃のベッドの上で、小さなバッグへ荷物を詰めていた。
「充電器どこいった」
「知らない」
佳乃は机へ向かったまま答える。
「昨日ここで使った」
「じゃあ、ここにあるんじゃない」
「ない」
「ちゃんと探した?」
「探した」
「どうせ見えてないだけでしょ」
「ひど」
優はベッドから降りると、床へしゃがみ込み、詰めたばかりの荷物をまた全部出した。
Tシャツ、下着、化粧ポーチ、財布、イヤホン、歯ブラシ。
一通り見ても、やっぱりない。
「ない」
「机の横は?」
言われたまま佳乃の机の脇を覗き込んだ優の動きが止まる。
「あった」
「ほら」
「何でお姉ちゃんの机にあるの」
「私に聞かないでよ」
「使った?」
「使ってない」
優は充電器と佳乃を交互に見て、数秒考えた。
「じゃ私だ」
「でしょうね」
佳乃が呆れたように笑う。
優は充電器を雑に丸め、バッグへ放り込んだ。
佳乃の机には、すでにウィッグが置かれている。
午前中に筆記を確認し、昼からは実技。途中で何度か休憩を挟みながら、今は三回目になる。
優が後ろからウィッグを覗き込んだ。
「今日ずっとやってんの?」
「ずっとではないよ」
「何時から?」
「昼くらい」
優が壁の時計を見る。
「今六時だけど」
「途中休んだって」
「何回?」
毛束を取っていた佳乃の指が止まった。
「……二回?」
語尾が上がった。
優の眉も上がる。
「短かった?」
「普通」
「何分?」
「何で尋問されてんの」
佳乃がようやく振り返ると、優は少しだけ笑った。
「別に」
佳乃はまたウィッグへ向き直る。
毛束を取りながら鏡を見ると、優はまだ後ろに立っていた。
「行かないの?」
「行くよ」
「美緒待ってるんじゃない?」
「まだ大丈夫」
そう答えた優はベッドへ戻り、バッグのファスナーを閉めた。
それでも立ち上がらない。
佳乃は数本巻いてから、鏡越しにちらりと優を見る。
「何」
「何も」
「見てるじゃん」
「見てない」
「見てた」
「気のせい」
佳乃の口元が少し緩んだ。
「楽しんできなよ」
「うん」
「飲まないでね」
「私飲まないよ」
「美緒は?」
「知らない。また飲むんじゃない?」
「止めなよ」
「何で私が」
「前酔ってたんでしょ」
優は閉じたバッグの持ち手を弄りながら、何でもないように言った。
「亮介いるし」
佳乃のコームが、毛束の途中でほんの一瞬止まる。
「……亮介も来るの?」
「最初だけ。ご飯食べたら帰るって」
「ふーん」
声は平らだった。
優が鏡越しに佳乃を見る。
「何さ」
「別に」
今度は佳乃が言った。
優は何か言いかけたように口を開き、結局そのままバッグを肩へかけた。
「じゃ行ってくる」
「うん」
部屋を出る。
廊下を数歩進んだところで、足音が止まった。
また顔だけ出す。
「お姉ちゃん」
「何?」
「今日帰んないからね」
佳乃がようやく振り返った。
「知ってる」
「ほんとに?」
「何回言うの」
「忘れてそう」
「忘れないよ」
「夜中に私の部屋入って、『いない』とかならない?」
「ならない」
「絶対?」
「早く行きなよ」
追い払うように手を振られて、優が楽しそうに笑った。
「じゃ、おやすみ先に言っとく」
「早すぎでしょ」
「どうせ私の方が先寝るし」
「知らないよ」
「寝てね」
「お母さん?」
「お姉ちゃんにだけは言われたくない」
佳乃が露骨に眉を寄せる。
それを見た優は、なぜか少し満足そうだった。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
今度こそ足音が階段を下り、少しして玄関のドアが閉まった。
途端に、家の中から一つ音が減った。
佳乃は鏡を見る。
ウィッグと、自分。
その後ろにはもう誰もいない。
少しだけ静かだと思った。
でも、それだけだった。
「……よし」
コームを持ち直す。
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実際、一人きりの家は集中しやすかった。
テレビもついていない。廊下を歩く音もなければ、突然ドアが開いて「お姉ちゃん」と呼ばれることもない。
佳乃は黙々と手を動かした。
一本。
次。
毛束を取り、巻き、また次へ進む。
最後まで終えると、すぐ時計を止める。
表示された数字を見た佳乃の目が大きくなった。
「……え」
前回より速い。
しかも、かなり。
驚いたままウィッグへ向き直り、右、左、後ろと角度を変えて確認する。
急いだせいで雑になったところはないか。
一本だけ、少し気になる。
けれど全体を見ると、悪くない。
むしろ、今までで一番いいかもしれない。
思った瞬間、
「ゆう、これ見て」
と口から出た。
佳乃自身が、その声に一拍遅れて反応した。
ドアを見る。
当然、返事はない。
「あ」
今日はいない。
可笑しくなって、小さく笑った。
スマートフォンを取り、ウィッグと時計が一緒に映るように写真を撮る。
優とのトークを開いた。
『今日速かった』
そこまで打って、送信ボタンの上で指が止まる。
優に見せても、技術の良し悪しなんて分からない。
何が揃っているとか、どの一本が甘いとか。
分かるのは、時間が速くなったということくらいだ。
「……まあいいか」
送った。
既読はつかない。
佳乃はスマートフォンを机へ伏せ、もう一度ウィッグを見る。
そして、さっき見つけた一本をほどいた。
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七時半。
佳乃は一度練習を切り上げ、キッチンへ下りた。
冷蔵庫を開く。
昨日の残り物、卵、豆腐、飲み物。
奥にプリンが二つ並んでいる。
一つ手に取って、
「これ、ゆう食べるかな」
そこまで口にしてから、手が止まった。
「あ、いないんだった」
プリンを元の場所へ戻す。
夕食は一人分だけ適当に済ませた。
洗い物も少ない。
食べ終えると、そのまま風呂へ入り、髪を乾かしながらスマートフォンを見る。
優から返信が来ていた。
『はや』
その下に、
『すごい?』
佳乃の頬が少し緩んだ。
『結構』
送る。
しばらくすると、
『じゃすごいじゃん』
とだけ返ってきた。
技術のことなんて何も分かっていない返事だった。
それなのに佳乃は、さっき自分でタイムを確認したときより、少しだけ嬉しくなった。
優が理解したからではない。
ただ、自分が今日うまくできたことを優が知った。
その事実だけで、さっきより少し「本当にできた」ような気がした。
ドライヤーを持ったまま、画面へ向かって小さく言った。
「……分かってないくせに」
声には、ほんの少し笑いが混じっていた。
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九時。
佳乃はまた机へ戻っていた。
今度は実技ではなく、照明の続き。
前に途中まで読んだ記事を開く。
色温度、光の方向、レフ板。
知らない言葉が出るたび別のページへ飛び、意味が分かるとノートへ書く。
一つ分かれば、その説明の中にまた知らない言葉がある。
少しずつページが増えていった。
十一時前。
佳乃はようやく椅子から立ち、水を取りに部屋を出た。
優の部屋の前を通り過ぎる。
二歩。
そこで足が止まる。
スマートフォンには、さっき休憩中に見つけた犬の動画が保存されていた。
自分の尻尾を追いかけて、延々と同じ場所を回り続ける犬。
優に見せようと思って保存した。
佳乃は振り返って、優の部屋のドアを見る。
「あ」
またやった。
一瞬ドアノブへ伸びかけた手を引っ込める。
「……何やってんだろ」
自分でも可笑しくなって、少し笑った。
何か見せたいものがあると、考えるより先に足がこっちへ向くらしい。
佳乃はスマートフォンを見下ろした。
「あとで送ればいいか」
キッチンで水を飲み、部屋へ戻る。
動画はあとで送ればいい。そう思っていたはずなのに、椅子へ座る頃にはもう照明の続きへ意識が戻っていた。
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十一時半。
優から何枚か写真が送られてきた。
一枚目。
美緒と、知らない女の子が二人。
真ん中に優。
床に座り、コンビニのお菓子を広げている。
美緒は頬が少し赤い。
『飲んでる?』
佳乃が送る。
『一本だけ』
『美緒が?』
『うん』
『あんたは?』
『コーラ』
それを見て、佳乃は少しだけ安心した。
次の写真へ指を滑らせる。
今度は、テーブルの真ん中に鍋がある。
美緒とさっきの女の子たち。
それから男が一人。
黒髪短髪、優よりかなり背が高い。Tシャツに短パンという、家からそのまま出てきたような格好で、鍋を取り分けながら笑っている。写真を撮られていることには気づいていないらしい。
派手な顔ではない。
笑っている横顔は、少なくとも話しかけにくそうには見えなかった。
多分、これが亮介。
佳乃は親指と人差し指で画面を少し広げた。
顔を見る。
すぐに元へ戻す。
それにしても、六月に鍋。
季節感どうなってるんだろう。
『真ん中のが亮介?』
送る。
『うん』
『ふーん』
すぐ、
『なに』
と返ってきた。
佳乃の指が止まる。
別に。
どんな顔なのか知りたかっただけだ。
新歓の日から何度か名前を聞いている。顔くらい気になっても普通だろう。
多分。
でも、そのままそう返すのは何となく嫌だった。
『はーれむじゃん』
送信する。
少しして、
『本人ずっと帰りたそうだけどね』
佳乃は思わず吹き出した。
『なんで来たの』
『鍋につられた』
『六月に?』
『美緒に言って』
『意味わかんない』
『私も』
肩の力が抜けるように、佳乃が小さく笑う。
まだ画面には、鍋を囲んだ写真が残っている。
もう一度だけ亮介を見る。
それから、今度こそ写真を閉じた。
『もう寝る?』
『多分まだ』
『じゃあ寝るとき連絡して』
送った直後、佳乃は画面を見たまま少し止まった。
何でそんなことを言ったんだろう。
別に、連絡がなくても困らない。
優は子どもでもないし、美緒の家にいることも分かっている。さっきまで写真だって送られてきていた。
それでも、送信を取り消す気にはならなかった。
『はーい』
すぐにいつもの軽い返事。
佳乃はそれを見て、スマートフォンを机へ置いた。
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十二時を少し過ぎた頃。
佳乃は二枚の写真を並べていた。
どちらも以前、家で撮った優。
メイクも髪も同じ。
違うのは、光だけだった。
カーテンを開けて撮ったものと、少し閉じて撮ったもの。
画面を左右へ動かす。
頬の陰影。
目元。
唇。
「……こっちかな」
右。
一度左を見る。
やっぱり右。
佳乃は右の方が好きだった。
唇の色が綺麗に見えるし、輪郭も柔らかい。
そう思っていた。
なのに、スマートフォンを手に取る。
優とのトークへ二枚を送った。
『これどっち好き?』
少し待つ。
既読はつかない。
まだ美緒たちと話しているのだろう。
佳乃はまた写真へ戻る。
右。
左。
やっぱり右。
多分。
「……多分?」
思わず眉を寄せる。
ついさっきまで、右だと思っていた。
優へ聞くまでは。
左も悪くない。
むしろ、優なら左を選ぶかもしれない。
佳乃は画面を拡大した。
唇。
目。
髪。
光。
何が違う。
色温度だけか。
角度。
背景。
カーテンからの反射。
考えているうちにノートを開く。
『本人が好きな見え方?』
その下へ、
『自分の好みと違う場合』
と書いた。
矢印を伸ばす。
また新しい検索を始めた。
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十二時四十七分。
スマートフォンが震えた。
優。
『右』
佳乃の指が止まる。
右。
最初に自分が選んだ方だった。
「……でしょ」
声が勝手に出る。
続けて、
『なんかこっち好き』
それだけ届いた。
佳乃は二枚をもう一度並べた。
ついさっきまで何度も往復していたのに、今見ると不思議なくらい右の方がよく見えた。
唇の色も。
輪郭も。
最初に自分が感じた通りだった気がする。
「ほら」
誰に言うでもなく呟いて、少し笑う。
『だよね』
送る。
『うん』
すぐ返事が来た。
さらに、
『ねむい』
佳乃が笑った。
『寝なよ』
『ねる』
少しして。
『おやすみー』
その文字を見て、佳乃の指が少し止まった。
『おやすみ』
送る。
すぐ既読がついた。
そこで会話は終わった。
スマートフォンの画面が静かになる。
佳乃はそれを机へ置き、少しだけ椅子の背へもたれた。
部屋も静かだった。
廊下も。
隣の部屋も。
いつもなら、この時間でも優が起きている気配がある。
何かを落とす音。
ドアを開ける音。
水を取りに行く足音。
ときどき、用もないのに突然入ってくる。
今日は、何も聞こえない。
優はもう寝た。
それが分かると、少しだけ家が広くなったように感じた。
佳乃は一度だけドアを見て、それからノートへ向き直る。
右の写真を見る。
どうして右だったのか。
まだ少し気になる。
「……あとこれだけ」
ペンを持った。
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一時二十分。
時計を見て、佳乃は少し目を見開いた。
「もう一時か」
思っていたより遅い。
でも、まだ眠くはなかった。
さっきまで分からなかったことが、ようやく繋がり始めている。
光の角度と色。
肌。
その上に乗せるメイク。
そして、優がどんな見え方を好きなのか。
別々だったものが頭の中で少しずつ重なっていく。
ノートへ書き、矢印を伸ばし、分からない言葉を検索する。
「これか」
小さく声が漏れた。
一つ理解すると、さっきまで読めなかった説明まで急に意味を持つ。
面白い。
もっと知りたい。
その感覚の方が、眠気より少しだけ強かった。
これを読んだら寝よう。
そう決めて、一つ読む。
ところが、その説明の中にまた知らない言葉がある。
そこだけ。
意味を確認する。
分かった。
すると今度は、前に見た写真との繋がりが見える。
「あ……」
佳乃の身体が自然に机へ近づく。
ノートへまた一行増えた。
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次に時計を見たのは、二時二十八分だった。
佳乃は数秒、数字を見たまま動かなかった。
「……え」
スマートフォンを見る。
二時二十八分。
もう一度、壁の時計。
針はすぐに一分進んだ。
二時二十九分。
「嘘」
佳乃は背もたれへ身体を預けた。
その瞬間、忘れていた身体の疲れがまとめて戻ってくる。
肩が重い。
目も乾いている。
長く座っていたせいで腰まで少し固い。
「……やば」
それでも、声には少し笑いが混じった。
こんな時間までやるつもりはなかった。
一時二十分に時計を見たことは覚えている。
そこから少しだけ。
本当に、そのつもりだった。
佳乃は開いていた記事を閉じる。
今度は、次のリンクを押さなかった。
ノートも閉じた。
今日は、ここまで。
立ち上がると、長く座っていた脚が少し強張っている。
背中を反らし、両腕を上げて伸びをした。
電気を消す前に、スマートフォンを見る。
優とのトーク。
最後は、
『おやすみー』
その下に、自分の、
『おやすみ』
がある。
佳乃は少しだけその画面を眺めた。
優はもう寝ている。
今日あったことも話した。
速くできたことも知っている。
それだけで、何となく一日がちゃんと終わったような気がした。
スマートフォンを伏せる。
廊下へ出ると、優の部屋は暗かった。
当たり前だと分かっているのに、無意識に一度だけそちらを見る。
自分の部屋へ戻る。
ベッドへ入り、アラームをかけた。
目を閉じる。
今日やったことが、まだ頭の中に残っている。
実技。
照明。
写真。
右。
明日になったら、もう一度確認したいこともある。
佳乃は布団を肩まで引き上げる。
いつもより静かな家の中で、少ししてそのまま眠った。




