第28話「ラスト・メッセージ―そして、その先へ―」
「稲城さん……」
揺れる灰色の水面を前に、男は唇を噛む。
東日本海軍の第二艦隊を指揮する長沼艦長は、佐渡近海で封緘命令を受けていた。
これは、指定時に指令書を開くもの。すなわち、指定時までに状況が改善すれば、指令書を開くことは無い。
つまり、状況は……想定された最悪へと向かいつつある。
そして、開封の条件は――稲城照道元帥の訃報だった。
命令書は――いや、遺書は、命令というよりかはまるで旧友に頼み事でもするかのように、手紙の調子で綴ってあった。
***
長沼君。
君にすべてを押し付けることになってしまった。
これを読んでいるということは、東は反米派に乗っ取られたということになる。東京に、君たちの仲間はいない。信じるものもない。あるのは、底なしの絶望だけだ。
だが同時に、東京が混乱に陥っていることは確かだ。反米派の奴らに、まともなプランは無い。長期的な指導力もない。おそらく、地方は手薄になっているはずだ。
私の友に、京極雅季という人間がいる。かつての、西日本政府の要人だ。今は京都にいて、『日本統一』以来の東日本支配に対する抵抗をしている。だが、知っての通り京都には東日本軍が駐屯し、政治弾圧を行った。
混乱している今なら、京都と言えど手薄なハズだ。
京極君を助けてあげて欲しい。
東京は味方ではない。
そうではない。
君たちが救うのは日本人であって、日本が君たちの味方だ。
東西の垣根を越えた日本臨時政府を樹立し、休戦の宣言まで出来れば上等。言うことはあるまい。
重要なのは、最後まで戦うことではない。自分が――民が死なないことだ。
守るべきは、本土ではない。守るべきは、プライドではない。
大切なのは、東日本ではない。日本が滅びないことだ。
東日本人としてではなく、日本人として……この国を守ってくれ。
京極君を西日本人とは思わず、日本人だと思い、寄り添ってくれ。
かつての国歌だ。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の
いわおとなりて こけのむすまで
この世に常なるものはない。だが、変わらないものがあると信じたいではないか。大東亜戦争の後、分断された日本。されど、私が――私たちが、日本人ではなかったことは無かったはずだ。
君はどうだ、長沼君?
***
「……」
長沼は怒りで打ち震えていた。強く拳を握り、見えない何かに向かって腕を振り上げる。
「だからって……、アンタが死ぬことないだろッ!」
老兵は去るのみ。
それが稲城の口癖だった。あまりにもうるさいので、長沼は思わず「くたばれ」と酒の席で言ったことがある。
「クソッ!」
長沼は、その場にへたれ込む。
「アンタはこれからの世界に必要な人なんだ。アンタのいない世界なんて……」
いっそ壊れてしまった方が……。
そんな考えが脳裏に浮かぶ。
でもそれは、稲城の意志を――想いを踏みにじる最低な行為だ。残してくれた世界を守るのが、長沼に与えられた最後の任務だ。
「……錨を」
***
第二艦隊の空母――旗艦・扶桑は抜錨した。
掲げるのは、旭日旗。さらに、Z旗。
「こちらは任せてください、稲城さん。そちらは、お任せします」
そして、遺書にはこう続きがあった。
――東京には、掃除屋を呼んだ。こちらは、暴れてくれそうだから安心してくれ。
***
「さて、これで東側に潜り込めたことだし……、まずは、柚姫と生駒の救出をしますかねぇ」
牢獄から出た渚は、伸びをすると、こんなことをしれっと言った。
「結果論だろ?」
俺は、ため息とともに吐き捨てる。
「いや? そーでもないよ」
「?」
「信じてたからね」
そう言って、渚は涼し気な笑みを浮かべる。神無はというと、上着であるセーラーを脱いで、Tシャツ姿になっていた。夏場で暑いということもあるのだろうが、それ以上に、渚側につくという意思表示だった。それにしたって、神無の肌はいつ見てもきれいだ。雪のような白さが、黒いTシャツで際立つ。
信じてた……か。
まったくもって、賭けじゃないか。
そこには、根拠もなければ、論理的合理性もない。どこにも確実性のない不可実なもの。どう考えても、杜撰な計画立案だ。
だが、歴史を動かしてきたのは、そういう人間臭さだ。
恐怖、絶望、希望、そして信頼。一人の人間が、歴史に与えられる影響は小さいが、それでも最後の最後で歴史を動かしたのは、人間の感情と、人間の決定だった。
「もしかしたら、間違っていたのは……俺の方なのかもな」
「? どういうこと?」
「いや、独り言だ。気にすんな」
俺は、稲城教授のもと政治学を科学的に理解しようとしてきた。数字や帰納的分析に基づく客観データによる理論化。実験と観測に基づいた実証。政治学も自然科学と同じように、立派な「科学」であると胸を張って言えるように努めて来たのだ。
――文系は遊んでいる。
――文系はいらない。
そう。こう言った奴を、この世から抹消するために。文系も理系に負けてないことを突き付けてやりたかったのだ。
だが、いくら客観的なデータを用いても、一般法則は見つけられなかった。
いつも。
いつも。
いつも、いつも、いつも、いつも、いつも!
人間が、人間の感情が! 人間の不合理な部分が――合理化できない部分が――卑劣で、猥雑で、醜悪なこの汚らわしい部分が、美しい一般法則を、ぶち壊したのだ。
だから、俺はこの世界にやってきた。
この目で世界を見つめ、今度こそ美しく、完全無欠の理論を構築してやると!
「そういえばさ、時弥には悪いことをしたね」
「?」
はにかむ渚。ごまかしながら、言葉を選ぶ。
「ほら、時弥って向こうの世界の人間じゃん。必要ないことに巻き込んじゃったなーって。……帰りたかったら言ってね! ここからは、私たちの問題だから」
そうじゃない!
そうじゃないんだ!
「最後まで付き合うよ。……いや、いさせてくれ。ことの顛末を、俺は見たい」
「……そっか。じゃあ、よろしくね」
今なら、わかる気がする。
政治学は、「科学」になれない。
いや、なってしまってはいけないのだ。だって、「科学」になった瞬間、どうしようもなく無機質で、輝きの無いものになってしまう。俺が求めて来た美しさは、今思えば灰色で空虚なものだ。
たしかに、完全な理論を前にすれば、人間的なものは醜く汚らわしい。だが、いや、だからこそ、人間の営みである政治を研究する学問である政治学は、清濁をあわせ持たなければならないのだ。
理系が求める美しさは、0と1だ。でも、文系はそれを真似してはいけないのだ。文系が求めるべき美しさとは、黒か白かという単純なものではない。複雑怪奇で、それでいて無限の彩り。
「科学(Wissenschaft)」を半分。そして、「芸術(Kunst)」を半分。
俺が求めるべきものは、混沌世界を色鮮やかに表現する叙述だったのだ。
その時、突き刺すような鋭い言葉が飛んだ。
「悪いが、お前らのたくらみもここまでだ」
よく知っている声。
途端に、俺たち三人の周囲に‶クリーガー〟が集結した。白い鋼の武者たちは、日本刀や銃を構える。数は、1、2……ざっと20以上はいそうだ。通路の両方にから現れたことで、俺たちは挟まれ、逃げ場はなかった。
だが、渚は余裕の表情を浮かべていた。神無は無表情だったが、全く動じてない。そして、かく言う俺もそれほど動揺していなかった。ヌイグルミの姿でなくとも、そうだっただろう。
「遅かったじゃん、トッキー。待ちくたびれたよ」
気が付いたことがある。
渚は、心を許した人間に対しては呼び捨てにするのだ。柚姫、神無、そして俺のこともつい先刻、「時弥」と呼ぶようになった。
呼ばれて、鋭い声を投げた男が‶クリーガー〟の陰から姿を現す。
高崎時弥。
「内海渚、それから、藤沢神無。第七特殊部隊隊長――いや、共和国国家主席である広尾昌平の命により、貴様らを処刑する」
「……」
不意に。
渚が吹き出した。
「え? あいつが国家主席? え? まぢ? 終わってんなー」
「それが、貴様の遺言でいいんだな?」
「いやいやいや、トッキーも大変だねぇ。いつまであんな奴の下についてんの? もうやめなって」
渚は呆れ顔で肩をすくめる。
それを見て、時弥は顔を顰める。
相変わらず無表情な神無。
だが、そんな神無でさえも、哀れみを持ったのか、口を開いた。
「可哀想な人」
たった一言。呟く程度の言葉。
それが、時弥には突き刺さった。
そして、ついに俺と時弥の目が合う。俺は、こんなヌイグルミの姿だったが、時弥は直感で気がついた。剣を抜き、俺に刃を突き付けた。
「田端蒼汰――いや、高崎時弥! 今度こそ、この手で!」
言い終わるやいなや、時弥は地面を蹴った。‶クリーガー〟もまた、それを合図とし、俺たち三人に襲い掛かる。
行き場の無い憎悪。
それが、痛いほどに伝わってくる。
以前の俺なら、獣のような奴の目に怯え、恐怖したことだろう。しかし、今度という今度は、その目の奥に、やるせなさと悲壮感を見ていた。
今にも押しつぶされそうな心。
逆らいたい。
自分に正直になりたい。
でも、その自由がなくて、かといって、逃げ場がなくて、どうしようもなくて……でも、これが仕事だから、義務だから、やるべきことだから、命令だから――
そう。
――〈鎖〉だから。
「ふっ」
気が付くと、俺は鼻で笑っていた。
「俺も思うよ。――可哀想な奴だな」




