廻る世界に祝福を 10
宰相の邸宅には、和やかな空気が満ちていた。色づいた木々が贅を凝らした明かりで照らし出され、庭園に彩りをそえている。澄んだ秋の夜空に浮かぶ月は、柔らかでまろやかな光をたたえていた。
奏でられる音楽の中を縫うようにして、貴族達があちらこちらへと行き来している。
「お誕生日おめでとうございます、閣下……と」
豊かではあるが白くなってしまっている髪をきちんと整えている宰相には、人の背筋を自然と伸ばさせるような気品があった。パートナーを「儀礼どおり」に伴って言祝ぎの口上を口にしようとしたカーティスは、しかし途中で言葉を止める羽目になった。
「……チェスター様!?」
「久しいな、カーティス。変わりはないか?」
明るい色の髪は、クラルテにいた頃と違い、短く切られてしまっている。国王と懇意にしていた宰相の息子にして、現デリフェル国女王の夫。
革命からまだ数年しか経っておらず、国を離れる事さえろくに出来なかった彼が、当たり前のような顔をしてそこにいる。面食らって口をぱくぱくさせた後で、カーティスは表情を崩した。
「こちらこそ、お久しぶりです! お元気そうで何よりです。デリフェルの方は、もう落ち着かれたんですか?」
鷹揚にうなずいてから、チェスターは腕を組んだ。
「とりあえずひと段落はついたところだ。……これからまた忙しくなるし、葬式に駆けつけられる保障はないから、今のうちに顔を見ておこうかと」
「たわけが。そう簡単にくたばるか。かの国にこんな未熟者を支援の筆頭として送り込んで、もしものことがあったら申し訳が立たぬわ。クラルテの問題だけでも心労が絶えんというのに」
言葉は荒いが、険しい顔にはどこか取り繕っているような、照れを隠しているような色がある。チェスターが軽く肩をすくめて苦笑する。
つられて微笑んだカーティスを見て、チェスターは首をかしげた。
「ところで今日は違う女性をエスコートしているようだが……」
ミランダ殿はどうしたんだ、と言外に尋ねられ、カーティスは顔を引きつらせた。
「……姪が、リフィティから初めて都に来ましたので」
エスコートを押し付けられました、とはさすがに言えず、語尾を濁す。本気で泣き落としにかかられては、わがままを聞かないわけにはいかなかったのだ。
チェスターは人間関係に聡い。それだけで事情を察した様子でうなずき、デリフェルの宰相はヘンリエッタの方に歩み寄った。
「リフィティには半年ほど滞在した事があります。港から帆船が出航していく様がとても美しかったことを、今でも覚えていますよ。活気のある、素晴らしい場所ですね」
「ありがとう存じます」
ヘンリエッタがカーティスの腕から手を離し、その場で優雅に一礼する。チェスターが儀礼どおりに手を差し出した。女性がその上に手を乗せ、男性がその上にふりだけ唇を寄せる。なんということはない、普通の挨拶だ。
ヘンリエッタはしかし、チェスターの手の上でほんの一瞬だけ指をさ迷わせた。
(……ん?)
その動作にわずかに引っかかるものを覚え、カーティスは目を細くした。
「……エッタ」
もしかしてお前、と続けようとして、しかしカーティスはそれを思いとどまった。それこそ、今この場で口にすべきことではない。
チェスターが優雅に笑んで、姪の手のひらに唇を寄せる。実際にその手に唇をつけられるのは、親兄弟や恋人を除けば、女性に忠誠を誓った騎士や家臣だけだ。故にヘンリエッタの手にチェスターの唇が触れることはまずありえない。しかしヘンリエッタは、何かをこらえるように強く唇を引き結んだ。
カーティスの中で、疑問が確信になる。眉根に皺が寄る。体を姪の方にわずかに傾けたところで、背後から抑えた歓声があがった。
「? なんだ?」
チェスターが顔を上げる。間髪をおかずに、ヘンリエッタはさっと自分の手を胸元に寄せてしまった。
「遅れて申し訳ない。準備に少しばかり手間取ってしまって」
涼やかな声が、人垣を割った。歓声が潮が引くようにさぁっと静まり返っていく。
「……!?」
人垣の向こうに現れた人物姿を認め、カーティスは息を呑んだ。
「ほう、これはこれは」
静まり返った会場の硬直を解いたのは、宰相の心底感嘆した風な一言だった。
手にしていたワイングラスを侍女に渡すと、宰相はゆっくりと来客の方に歩みよった。宰相が公務の時に身に付ける、金糸で縁取りと刺繍が施された白衣がさらさらと床の上を流れていく。声の主の前に立ったところで、宰相は表情を崩した。
「……貴婦人に対するご挨拶でよろしかったでしょうかな」
「私は今、一応男役だから、こちらをお願いしようか」
差し出された手は、握手を求める形のものだ。喉の奥でくつくつと笑い声を立てて、宰相は皺だらけの固い手で、すべらかな細い手を包み込んだ。
「――ようこそお越しくださいました。ご足労、痛み入ります。陛下の具合は」
「今はもう落ち着いている。明日には公務に戻れるだろうから、国王からの言祝ぎはその時に受け取ってやってくれ」
「かしこまりました。それにしても……逆ならばありえますが、まさかこう来られるとは」
愉快そうなつぶやきを聞きつけ、女性は子供の顔で微笑んで、体を軽く揺らした。
「宰相殿はこういう趣向や悪戯がお好きだとうかがったのでな。お気に召されただろうか?」
その服はまぎれもない異国のものだ。この女性は普段から公の場には故国の盛装で出てくるから、それ自体は珍しい事ではない。
ただ、今回はその服の形が大幅に違っていた。
藍色に銀糸で鮮やかな刺繍が施されたそれは、クラルテ人の目にも男物であるということが明らかな代物だった。 普段は惜しげもなく垂らされ、漆黒の流れを誇る艶やかな髪が、今はすっきりと上にまとめられている。布で出来た冠がまとめた髪を覆い隠し、白い首筋を際立たせていた。
靴は皮をなめしたもので、つま先からかかとにかけて、びっしりと色鮮やかな文様が刻まれている。帯刀こそしていないが、武官のものだとすぐ見当がつく、無駄なもののない衣装。控えめな化粧は彼女の凛々しさを際立たせる程度に抑えられていて、それが普段から彼女が漂わせている涼やかな空気を、一層引き立てていた。
そして。
「今回はこちらが『女性役』だ。本来は私がお連れする予定ではなかったのだが、どこぞのアホがへまをやらかしたらしくてな。夫があんな状態で、私一人では心許なかったこともあって、エスコート役を引き受けさせていただいた」
言いながら女性――クラルテ国王の妃が一歩横にずれる。後ろからゆっくりと歩み出てきたもう一人の女性を見て、宰相は目を細めた。
「桜――ですかな」
「ご存知なのか」
「貴女様の故国で最も愛されている花だと聞き及んでおります」
「そうだ。この色がなかなか出なくて染色匠達が苦戦していたのだが、上手く染める方法が見つかったらしくてな。是非にと送ってよこされた。私よりは彼女に似合うだろうと思ったので、特別に頼んで作らせてもらった。どうだ?」
「王妃陛下の審美眼は確かでいらっしゃるかと」
「だろう」
得意げに言い放ってから、茉莉は女性の背中に手を回し、優しく前の方に押し出した。
周囲の視線が集中する。『彼女』は居心地悪そうに身を萎縮させた。
「桜は、夜の闇に浮かび上がるようにして咲いている光景が特に美しいと言われている」
「とすると……さしずめ今夜は、王妃陛下が夜闇で、一の騎士殿が花でいらっしゃるということですかな?」
「ああ。今宵私は、闇で花を引き立て、同時に星明りで守る番人といったところだな。……桜は散りやすい花だ。傷つけないように、慎重な扱いを頼むぞ」
冗談混じりに言いながら、茉莉は折り畳んだ扇を口許にやる。ほう、とうなずいてから、宰相はまるで硝子細工でも扱うかのような慎重さで、女性の手を取った。
「初めてドレス姿でいらっしゃった時も、妖精と称されるにふさわしいと思いましたが……これはまた、違った趣がありますな」
女性がわずかに体をかがめる。
横の髪を掬い上げて小さく結われた場所に、細かな銀の鎖と、本物と見まごうばかりの繊細さで仕上げられた、珊瑚で出来た花飾りがいくつも揺れていた。左右ひと房ずつ垂らされた髪には、薄紅色の紐が美しい華の形に結ばれている。練り絹色の髪に、その銀と薄紅色はしとやかに彩りを添えていた。
きめの細かい肌を、首元まである襟が優しく包み込んでいる。
クラルテでは、普段ならば胸元を誇示するようなドレスが常とされる。だからこの装飾は、ともすれば禁欲的に過ぎると揶揄されそうなものだった。しかしその潔癖なまでの隠され方が、この娘には逆によく似合っていた。
もっとも、布地はごく薄いもので、傍にいればその肌の色が透けて見えることがすぐにわかる。その布の上を、萌黄色の細い紐が唐草模様を描きながら複雑に走り、首を覆うレースをぐるりと取り囲んでいる。胸元に髪飾りと同じ意匠の花結びが彩りを添え、東照風のあわせの着物が、肩のラインを絶妙に露出させた形のまま、胸元の大ぶりの帯に繋ぎとめられていた。
萌黄のあざやかな飾り帯の結び目には、薄紅のシフォンでかたどられた花が咲いている。重ねられた花びらのような布は、わずかに二枚。上に重ねられたわずかに紅色の濃い布は花弁の形に大胆に切り取られ、その端から繊細なレースが伸びていた。
下半身を覆う着物の生地は、前が大きく開いている。そこから見えるのはシフォンが幾重にも重ねられてふくらみを出されたスカートだ。
足首とふくらはぎまでがわずかに見えていてもなお、なまめかしさよりは清純さが先に立っている。
布で出来た靴には高いヒールがなく、足首に結ばれた浅緑の紐の先についている銀の鈴が、彼女が足を進めるたびにちりちりと澄んだ音を立てていた。
伏せられていたまぶたがわずかに震え、隠されていた茶色の瞳が現れる。
「戦場でいくつも武勲を立てた戦女神だとは、とても思えぬお姿ですな。その強い眼差しがなければ、の話ですが。一の騎士殿」
「――光栄です」
ふわりと着物を持ち上げ、ミランダはその場で優雅に一礼する。差し出された手を恭しく取ると、宰相はそこに今度こそ唇を寄せた。
「さあ、素晴らしい来客に華麗な舞いを拝見させていただこう!」
チェスターが声を上げて指を鳴らす。指揮者がそれを見て一つうなずくと、指揮棒を高く掲げた。ワルツが始まる合図だと見て取ったカップルが、ホールに移動を始める。
「……ミコト様、男性のリードは?」
小声でささやくミランダに、茉莉はにっと微笑んで応える。
「コツは掴んだから、どうということはないだろう。身長が足りないので若干型は外すかもしれないが、まあなんとかする」
さあと手を差し出された義姉の手を、ミランダが遠慮がちに取る。ぐい、と強引に手を引かれ、わずかによろけながら、彼女がはホールにまろび出た。
離れたところでその様子を見ていたチェスターが、小さく口笛を吹いた。わっと沸いた歓声でほとんどの者には届かなかったが、カーティスはそれをしっかり聞きつけることができた。
「見事な男ぶりだ。やるなぁ、王妃陛下」
ホールの中央に進み出て、茉莉はミランダになにごとかをささやきかける。戸惑った風にしているミランダをその場に残し、自分は一歩退いて軽く膝を曲げる。腕を組み、踊り出す準備を完了させているカップルが、ちらちらと二人に視線を投げかけている。
前奏が始まる。軽快なテンポのワルツだ。踊り出す前独特の緊張感と期待感があたりに漂う。
楽器の音が大きくなり、ぴんと張り詰めた糸が切れたその瞬間に、茉莉がにっと笑って手にしていた扇を勢いよく広げた。
「えっ!?」
驚いた声を出したのは、ミランダだったのか他の貴婦人だったのか。
光の粉がぱっとミランダの周囲に散ったかと思うと、それがみるみるうちに薄紅の花びらに変化し、ふわりと温かな風を巻き起こした。
間髪おかずに茉莉は手首を返して扇でもうひとあおぎして風を起こす。何もないところに手を滑らせ、何かをつまむような動作をする。
風の中から掬い上げたかのように、そこに一枚の薄くて長いショールが出現する。
驚いて周囲を見渡していたミランダの左手をつかむと、茉莉は彼女をくるりと一回転させ、その両腕に器用にショールを巻きつけてしまう。
周囲がどっと沸き、拍手が巻き起こる。驚いた顔をしているミランダに笑顔で声をかけ、茉莉はミランダを見事にリードし始める。驚いたままでもステップについていけていたのは、ミランダの運動神経が元々いいせいだろう。
最初はやや引っ張られている感が否めなかったミランダも、やがてはにかみを含んだ控えめな笑みを顔に乗せ、茉莉のリードに落ち着いて身を任せ始めた。
「これはまた……」
いつの間にか息子の所まで戻ってきていた宰相が、腹を大きく揺らして手を叩いた。
「今宵は違う女性を伴われていたのでどうしたのかと思いましたが、こんな企みを企てていらっしゃったか。いや、見事にしてやられましたぞ」
「い、いえ」
俺はあれには関わってませんと口の中でつぶやき、カーティスは食い入るようにミランダを見つめた。
元気そうで良かったと安心する反面、胸がちりちりと焼かれるような気がする。
――いつの間に、あんなに綺麗になっていたのだろう。
手放したくない、諦められないという声が、心の中でどんどん大きくなる。うずくような痛みを必死で抑えていたのに、今にも爆発しそうなほどにその欲求がふくれあがってきた。
女性でさらに愛する夫を持ち子までなしている茉莉にさえ嫉妬を覚えている自分に気付き、カーティスはたまらなくなる。
このままあの場に乱入して、彼女を連れ去れたらどれほどいいだろう。
これ以上あんな姿を誰にも見せていたくない。照れたような控えめな笑みや、物慣れない動作が、生き生きとした表情がどれほど男を惹きつけるか、あの人はまるで自覚していないのだ。
ミランダを楽しげに軽やかにエスコートしながら、茉莉がふと観客の方に視線を投げかけた。涼しい視線がまっすぐに一点を射る。
「!」
意地の悪い笑みが、カーティスを捕らえた。
ばかものが、という口の動きが嫌にはっきり『視えた』。
カッとカーティスの頭に血がのぼる。その頃にはもう、茉莉は何事もなかったかのようにミランダの腰に手を回し、彼女をくるりと舞わせていた。




