廻る世界に祝福を 6
さすがにこの状況でキスの雨を降らせて寝台になだれ込むほど、カーティスはけじめのない人間ではなかった。理性を総動員させてミランダから体を離す。ミランダの指先が戸惑うように揺れてから、ゆっくりと離れる。それを両手で包んで、胸の前にもって来る。小さい両手を慈しむように包み込んでから、カーティスはミランダの瞳をのぞきこんだ。
「……説明をしなくてはと思っていたんです。いいわけ以外の何物でもないんですけど。……ヘンリエッタがついてきたのは俺の意思じゃなくて」
「あ、うん。それは見てたら分かった。ごめんね、いきなりカレンにあんなことされて、うやむやのうちにいろいろなし崩しになっちゃって……陛下がさらに追い討ちをかけてくださったみたいだし」
明日ちゃんと話を通すからと続け、ミランダは嘆息した。
「私情で部下に理不尽な処置を与えないでくださいって、念を押しておかなきゃ……。規律を引っかきまわされると困るんだけどなあ……」
「私が陛下でも、同じことをしたと思います。……あの、邪推するような事を言うのは心苦しいのですが、ミランダ様、本当に俺の気持ちが変わってないって思ってくださってるんですか?」
「それに関しては疑ってないよ?」
てっきり「心変わりしても仕方ないと思った」とでも言われるものだとばかり思っていたから、ミランダの言葉は意外だった。大きく目を見開くと、ミランダは控えめに微笑んで、曇りのない瞳でカーティスを見上げた。
「だってカーティス、二人の女の人を同時に好きになれるほど、器用じゃないでしょ。ヘンリエッタ嬢と自分の意志でお付き合いするなら、まず何を置いても私に事情を説明して別れ話を切り出すはずだし……。私との関係を終わらせてから、改めて彼女を迎えに行くって言うなら、話は分かるけど、こんな風に中途半端な行動をする人じゃないよ。違う?」
小動物のように小首をかしげ、ミランダはカーティスを見上げた。予想外の返事に虚をつかれる。カーティスは「はあ」と生返事をしてから、まだわずかにあどけなさを残しているミランダの顔をまじまじと見返した。
そういえばこの人は、長年自分の上司をやっていたのだ。九年という長い年月の中でカーティスという人間の性格を客観的に知り尽くしていても、全く不思議はなかった。言われるまで考えもしなかったが、もし自分が他の女性と、自分の意志で付き合うのなら、確かにまず何を置いてもミランダと話をつけようとするだろう。深く納得して、カーティスは首を縦に振った。
「ええ、そうする……と、思います。……ありえませんので考えもしませんでしたけど」
「それに、ええっと」
口の中でもごもごと言葉に出来ない言葉をつぶやいて、ミランダはふっとカーティスから視線を逸らした。
「ミランダ様?」
「……ても、いいかなって」
「え? 申し訳ございません、聞こえなかったです」
背をかがめて、小柄なミランダに目線を合わせる。ミランダの頬が心なしか紅潮している。きゅっと口を引き結んで、ミランダはカーティスの方を横目でうかがう。今度は聞き逃すまいと、カーティスは全神経をミランダの方に集中させる。
繰り返された言葉はとてもとても小さかったが、今度はそれをはっきり聞き取ることができた。
「自惚れても、いいかなあって、思ったから。カーティスに……好きでいてもらえてるって」
声はどんどん小さくなり、言い終わるなり、ミランダは耳まで真っ赤になって俯いてしまった。
言葉の意味をかみ下して呆けてから、カーティスはばっとミランダから体を離した。
このまま触れていたら火傷してしまいそうな気がした。
片手で口元を覆って、たまらず視線を彼方に飛ばす。
頬や耳たぶが熱くなっているのがはっきり分かる。
(どうしよう、どうしよう)
嬉しい、という言葉を探し当てるのに苦労するほど、押し寄せてきた感情の波は大きかった。
「だ、だってその、出かける前はその、……だったし。それに帰ってきた時もすごく嬉しそうに笑ってくれたし、あの、私がそうだといいなって思ったからそう見えただけかもしれないけどでも」
恥ずかしくなったのか、早口で理由をまくし立て、ミランダは唐突に言葉を切った。ひゅ、と息を吸い込む音が、静かな室内に響いた。
「びっくりはしたけど、疑えなかったから」
強く目を閉じてから、カーティスはミランダを乱暴に抱き寄せた。よろけて体勢を崩しかけた小さな女性を、力任せに腕の中に閉じ込める。
「嬉しすぎで死にそうになることってあるんですね……」
「えっどうしたの、どこか具合悪い!?」
「このまま死ねたら本望です」
「えええっ」
顔を青くして、ミランダは腕を伸ばそうとじたばたもがいている。肩に額を押し付けて息をつき、カーティスは強烈な名残惜しさを感じながらミランダから体を遠ざけた。
先ほど力任せに引き寄せたせいで、ミランダの髪がほつれている。それがわずかに目をうるませて上気した頬にかかっていて、たまらなくなった。こんなに強烈にそそられるのは、やっぱりこの女性だけだ。
「こんな状況じゃなければ、キスとかキスとかそれ以上の事とかしたいんですけど」
タガを外したまま、考えてる事を素直に漏らす。ミランダはまた真っ赤になったが、すぐに肩の力を抜いて苦笑した。
「そんなけじめのないこと、できない?」
「……はい」
ミランダが言うとおり、自分はどこまでも「くそ真面目」なのだ。体の欲求より先に、理性がどうしても働いてしまう。多分ここで手を出すのをミランダは許してくれるだろうが、なし崩しにそうしてしまうと、多分明日の朝、自分はすごく後悔するだろう。何もしなくても後悔はするだろうが。
「カーティスらしいね」
「自分で自分が嫌になります……」
はあ、と息をついて、カーティスは言葉を切った。ミランダが少しだけ眉を下げて目尻を下げる。
「……いいのに」
「お願いですから誘わないで下さい……」
はあ、と溜め息をついて、カーティスは目の前に立つ人を見下ろした。とりあえず事情を説明するだけはしなくては。気持ちを切り替えて表情を引き締める。あの、と口を開こうとしたところで、ミランダの人差し指がカーティスの唇を押さえた。
「?」
口を開けずにきょとんとしているカーティスを見上げて、ミランダも真剣な顔になる。
「あの、ええとね。カーティスの気持ちは疑ってないんだけど……でもね」
でも、の声にカーティスの背筋が冷えた。ミランダの瞳が、ふっと曇る。嫌な予感がカーティスの胸に湧き上がる。今から言われる事を、とても聞きたくない気がする。
ミランダの小さな桜色の唇が、小さくわなないた。
「……でも、本当に私が相手でいいのか、この機会によく考えてみるのも、いいと思うんだ」
思いも寄らない事を言われてぽかんとしているカーティスの唇を、温かで柔らかなものが、羽根のようにかすめていく。
親愛の印をカーティスに残しておきながら、ミランダは痛いのをこらえるような顔をしている。
「ど、うして、そんな事を」
事情説明も何もかもが吹っ飛んだ。白くなった思考の中で、やっとそれだけ尋ねると、ミランダの顔がくしゃりと歪んだ。
「分からない?」
「分からないって、何がですか?」
「……」
無言で首を左右に振り、ミランダはもう一度カーティスに口づける。カーティスが焦ってミランダを捕まえようと腕を伸ばす。しかしミランダはそれをするりとかわすと、後ろ手で窓を音もなく開いた。
澄んだ冷たい風が、甘い空気の余韻を押し流した。
高い空から金の光が静かに降り注いでいる。それを背に受け、泣きそうな顔で微笑んでいるミランダは、一幅の絵のように儚げで美しかった。
思わずその光景に見ほれて動きを止めたカーティスを一瞥して、ミランダはもう一度首を左右に振った。
「よく考えて、分かったら、答えを教えて。……それまでは、会わないから」
静かに言葉を残し、ミランダは闇の中にその姿を溶かした。
唇に残った余韻が、あっという間に外気に奪われていく。
「一体何がどうなってるんだ……」
小さな呟きを聞き取って答えを教えてくれるものは、ここにはもういなかった。話が全く分からない。自分の気持ちは疑っていないとミランダは言ってくれた。それなのにどうして、「もう一度考え直して」に話が繋がるのだろう。
混乱したまま、カーティスはいつまでもその場に立ち尽くしていた。




