廻る世界に祝福を 3
カモメの声がしない、潮の匂いがしない。
久々の王都の空気を胸一杯に吸い込んで、カーティスはそれを思い切り吐き出した。
大都市独特の慌しさがあるのはリフィティでも変わらないが、王都の活気はそれとは違う、どこか統制された規律の正しさを感じさせる。
それは街を行く貴族が一応「仕事をしている」人間であるせいもあるだろうし、騎士や兵士の数が他の都市よりずっと多いせいもあるだろう。
見上げた空の色も心なしか薄い。敬礼を返してくる門番に歩み寄り、馬から降りる。国王の一の騎士の『片腕』と称されている近衛騎士の顔を知らない武官は、この城にはいない。それでも一応剣に戴いているロードライト・ガーネットと国章を相手に見せ、仕事を終えて帰ってきた旨を記した報告書を渡す。きびきびした動作でそれを受け取ると、若い門番は確かに、と頷いて門を開くように指示を出す。仰々しい正門を開こうとするので、カーティスは少し慌ててそれを制した。
「通用口でいいから」
「……ですが」
「人ひとりを通すのに、いちいち兵士を使って正門を開け閉めするんじゃない。この時期は外の人間が城の中にも多くいらっしゃっていて警護の体制も混乱しがちだから、できるだけ正門は開かない方がいいんだ」
指示が行ってないのかと付け加えると、若い門番はさっと両頬を紅潮させて頭を下げた。咎めたわけじゃないと苦笑して、カーティスは若い兵の肩を叩いた。
「ミランダ様は、今どちらにいらっしゃるのかな」
「外宮の宿舎にいらっしゃいます」
「分かった。ありがとう」
外宮。この時間に騎士たちが城で寝泊りするための宿舎にいるということは、食事か何かだろうか。案外夜遅くまで国王の仕事に付き合わされて、今は仮眠中なのかもしれない。
秋。畑で育つ作物は収穫期を迎え、西部から北部に集中する鉱山で働く労働者達は、雪が深くなる冬の間は山を降りる。国の中が豊かな収穫を得て華やぐその季節、王都は一年で最も忙しくなる。ともすれば家臣の裏をかいてとんでもないことをやらかす国王も(もっとも、即位して世継ぎまで生まれた現在は、さすがにいくらかおちついてはいるようだが)この時期だけは大人しく城の執務室にこもり、仕事を黙々と片付けている。
門番に馬を預けて、小さな通用門から城の中に入る。葉を鮮やかに色づかせた木々が、冷たくなり始めた風に揺られてその装飾を羽のように舞わせている。
(厄介ごとを抱えてさえいなければ、なあ……)
白亜の城に色とりどりの葉が彩りを添える光景の優美さは、クラルテでも一、二を争う景観の一つだと言われている。それを楽しむ余裕さえない自分の境遇を恨めしく思いながら、カーティスは騎士たちが寝泊りしている宿舎に足を向けた。厄介事を抱えていても仕事は仕事、まずは報告を終えなくてはいけない。
すっかりなじみになってしまい、目をつむっていてもたどり着ける自信さえあるミランダの部屋は、数年前までは彼女の父親が使っていたものだ。国王が代替わりし、一の騎士の居室も父親から娘に引き渡された。とはいえその部屋はやはりクラルテという国の大きさには釣りあっていない粗末なもので、所用を抱えていると思しき騎士達が、今も扉の前を慌しく行き来している。時間のかかる仕事は家でするからここでは身軽でいたい、という主張もまた、彼女の父親の代から変わっていないらしい。
扉の向こうに、懐かしい、愛しい女性がいる。
手を一瞬だけ胸元でさ迷わせてから、カーティスは木製の扉をおもむろに叩いた。
乾いた音が二回。そう間を置かずに、はぁいという耳に心地よい声が届く。
足音は聞こえなかったが、内開きの扉はすぐに開かれた。練絹色の頭が、ひょこんとのぞく。別れた一月前と変わらない、後ろでさっぱりとまとめられた髪。首の後ろで結ばれた大きなリボンが揺れ、前髪の下から透き通った茶色の瞳がのぞいた。
「あ……」
なつかしさと、うれしさと。自分が抱え込んでいた問題すべてをつかの間忘れて、言葉もなく立ち尽くしたカーティスを、ミランダは屈託のない笑顔で迎えた。
「長い間お疲れ様。丁度よかった、お茶の用意が出来てるから、入って」
勤務時間中に、ミランダが「恋人」としての顔をカーティスに見せることはない。長い間離れていた恋人に対するにはあまりにもあっさりした態度だったが、彼女の声がわずかに弾んでいたことだけで、カーティスは胸がいっぱいになった。
「……はい」
姪のことも姉のことも放り出し、小さな恋人を思い切り抱きしめてこのまま寝台に直行したいという欲求を飲み下して、カーティスは上司の後に続いた。
報告はそう時間をかけずに終わった。要人を離れた場所に送り届けるだけで、交渉も何もない用事だったのだから、長々と報告しなくてはいけないほどの物事など、もとからありはしない。ミランダに頼まれた『他の用事』も、差し当たって急を要するものではなく、カーティスが東部に行くならばそのついでにお願いしたい、という程度のものだった。あっさり報告が終わると、ミランダは書類をまとめて、それを呼びつけた騎士に渡した。
「陛下にお願い。急ぎの用事じゃないから、ご就寝前にでも確認されてサインをお願いしますって言っておいて」
「かしこまりました」
まだ城に上がって間もないのであろう若い騎士は、空いた手できっと敬礼するときびきびと部屋を出て行く。
「あんまり急がなくていいからねー?」
背中を追いかけるミランダの声は、しかし少しばかり遅かったらしい。扉を開いて部屋を飛び出すなり、若い騎士は廊下を歩いていた別の騎士とぶつかりそうになって情けない声を上げた。体勢が多少崩れはしたものの、書類はしっかり胸に抱え込まれていて、散らばるということはなかった。若い騎士は謝りながらその場を書け去っていく。思わず腰を浮かしてしまったミランダとカーティスは、思わず顔を見合わせて互いに苦笑した。
「……どこの従騎士ですかね、あれは」
「ジェラルド殿の従弟殿だね。そそっかしいのが玉に瑕だって、おっしゃってたけど」
肩をすくめて苦笑する様子に、あざけりの色はない。思い出すのは自分が一人前の騎士の下につき、従騎士として働いていた時代のことだ。ああいうそそっかしさも、あと一年もすればなりを潜め、彼は一人前の騎士として、立派にその任を果たせるようになるだろう。
椅子に座りなおして互いに紅茶を口に運び、ほっと息をつく。心地よい沈黙の後に、ミランダがおもむろに口を開いた。
「この後、どうする? 家のほうに一回帰る?」
「あ、ええ、と」
できることなら帰りたくない。とにかく報告が先だからと、姪を実家に放り込んでそのまま来てしまったのだ。ヘンリエッタの言うことが真に受けられているにしろいないにしろ、今ごろバーナード家は大騒ぎになっていることだろう。
帰りを遅らせれば遅らせるだけ事態が悪化するであろうことは分かっていた。しかしそれが分かるだけに、この毛布の中にくるまっているような穏やかで温かな空間から出て行きたくないとも思ってしまうわけで――。
逡巡するカーティスの額に、ふいに温かなものがあてがわれた。はっとカーティスが視線を上げると、気遣わしげな透き通った茶色の瞳と、まともに目があった。
「……熱、はないみたいだけど……具合悪い?」
額に当てられていた手が離れていく。乗り出していた身はそのままに、ミランダはカーティスの顔を覗き込んでくる。顔色を細かに観察する視線にはただ気遣いだけがこもっていて、それがまた温かくてくすぐったい。
ああもうほんとに離れたくないどうしよう。
やるせない思いをため息と共に吐き出す。仕事の場に私情を持ち込むのは、と話すのをためらっていたが、もう男としての矜持も何もかもかなぐり捨てて、今この場で自分の身に降りかかった厄介ごとをぶちまけてしまいたくなる。ぶちまけた上でミランダを抱えてどこかに高飛びでも出来たら言うことはないのだが、多分この人は陛下を置いての高飛びについてきてはくれないだろう。
様々な思いが胸の中でぐるぐると渦巻く。ただ心配そうにしているミランダを見て、カーティスは再びため息をついた。
「カーティス?」
「……あの、ミランダ様」
いずれにせよ、数日はヘンリエッタをどうにかするために走り回らなくてはいけない。恋人らしいあれやこれやはまだ当分お預けだし、この騒動は遅かれ早かれミランダの耳に届いてしまうだろう。だったら自分からあらかじめ全てを説明してしまった方がいい。情けないことこの上ないけれどと思いながら、カーティスが重い口を開いた、まさにその時だった。
ばん、と音を立てて、ミランダの部屋の扉が開かれた。ノックもなしに開かれたそれに、すわ緊急事態かとミランダとカーティスは同時に椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
しかし、扉の向こうから現れたのは。
「……そんなに怖い顔で睨まないでくださいませんこと?」
「カレン?」
にっこりと極上の笑みを浮かべた地星宮の若い主と、その後ろで引きつった笑いを浮かべている、ミランダのもう一方の片腕だった。
「あ、ジグお帰り」
「はあ、ただ今戻りました……」
やや場違いな挨拶を交わしながら、ジグはちらりと自分の隣、ドアに隠れてここからは見えない方をうかがい見る。わずかにはみ出たドレスの生地が見覚えのあるものであることに気付き、カーティスはぎょっとして後ずさった。
「どうしたの、カレン。何かあった?」
それに気付いているのかいないのか、ミランダは真剣な顔になってカレンに駆け寄る。カレンは端正な顔にこれ以上ないというほど極上の笑みを浮かべ、悠々と腕を組んだ。
「ミランダが心配しているようなことは何も起こってはいませんわ。……正門前で、カーティス様のお客人と言う方にお会いしましたので、ついでにご案内させていただきましたの」
極上の笑みは揺らぐことがない。が、その視線は氷よりも冷たく、カーティスをぐさりと射た。背筋がすさまじい勢いで冷えるのを自覚しながら、カーティスはさらに一歩後ずさる。
「カーティス?」
客人を案内してきただけだというにはノックもせずに扉を開けたカレンの態度はおかしいし、カーティスの様子はそれに輪をかけておかしい。ミランダは首をかしげて後ろを振り返る。脂汗がだらだらと額を伝っていくのを感じながら、カーティスはもう一歩後ろに退いた。
「あ、の」
「カーティス兄様!」
甲高い声が部屋に響き渡り、赤い塊がばっと部屋の中に駆け込んできた。
「いっ、ヘンリエッタちょっと待てー!!」
青くなって叫んだ声も空しく、紅色のドレスを身にまとった赤毛の乙女が、カーティスの首にかじりついた。まさか突き飛ばすわけにもいかず、カーティスの腕は年若い乙女を抱きとめる格好になってしまった。勿論その手はすぐにヘンリエッタの肩にかけられ、彼女を引き剥がそうとじたばたもがき始める。
「ひどいですわ、いきなり置いていってしまわれるなんて! エッタは王都は初めてで右も左も分からなくて、とても心細かったといいますのに!!」
「だからきちんと家までは送り届けただろうが! 散策をしたいなら父上にでも頼んで適当な共を見繕えばいいだろう! というかお前、どうやってこの城に入ったんだ!!」
「婚約者が夫の職場を見に来ましたと言ったら、そちらの方が口添えしてくださったんですの」
そちらの方、と指されたカレンが、すっと目をすがめる。
「……ただの妄言かと思いましたけれども、きちんとした紹介状もお持ちでしたので、ご案内させていただきましたの。どーうやら、身に覚えがないことではないようですわね」
部屋の温度が一気に下がる。ぶるり、とジグが身を震わせ、ふと後ろを振り返る。
「あー、お前ら。見世物じゃねえから。とりあえず散ってろ」
さっさっと手を払われると、なにごとかと部屋を囲んでいた騎士達が、それぞれに顔を見合わせてぽつぽつと散っていく。散りきるのを待たずに扉の外に出て、ジグは取っ手に手をかけた。
「えーと。じゃあ、俺はこれで失礼します。ミランダ様、報告はまた後でいいですか?」
「あ、うん、後で私がそっちに行……ったほうがいいよね、これ」
ひたすらまばたきを繰り返しながら、ミランダが返事をする。では、という言葉と一礼を残して、部屋の扉が閉められる。
重苦しい沈黙が、部屋に落ちる。首にかじりついていたヘンリエッタを引き剥がして、カーティスは肩で息をした。
「ええっと……、どなた?」
「姪ですただの姪! それ以上でもそれ以下でもありません!!」
ミランダの問いを遮るようにして、カーティスがまくし立てる。腕組みをして扉の前に悠然と立っている大司祭の凍えるような視線も痛かったが、それ以上に事態を把握できずにぽかんとしているミランダの表情の方が、カーティスにははるかにこたえた。こういう衝撃を与えたくなかったから、できるだけ穏便に済ませようとあれこれ考えていたのに、その努力が一気に水泡に帰してしまったではないか。
「姪……?」
「はい。ミランダ様。お初におめもじつかまつります。私はカーティス兄様の姉、エミリアの娘、ヘンリエッタと申します」
先ほどの規格外れすぎる行動とはうってかわり、ヘンリエッタはドレスのすそをつまんで、それはそれは優雅に礼をして見せた。肩に落ちた巻き毛が、白い肌の上を滑る。どこか挑戦的にゆがめられた唇にはなんとも言えない色香が宿っている。
「――夫となる方の上司に、一度ご挨拶をしておこうと思いましたの。本当にお可愛らしくて凛々しい方ですのね。こんな方におつかえできる私の婚約者は、本当に幸せものですわ」
ころころと、鈴の鳴るような笑い声が部屋に落ちる。
ミランダはただひたすらまばたきを繰り返す。しかしその顔色は、次の瞬間、怒りの赤ではなく驚愕の青に変わっていた。
「うわーカレン待って! 火炎石は駄目ー!!」
「安心なさいなミランダ。吹き飛ばすのはそこの朴念仁と生意気な小娘だけですわ」
カレンの拳の上に載っているのは、チョコレートボンボン一個ほどの大きさの火炎石だった。人間二人だけを吹き飛ばすには大きすぎる代物だ。
「その大きさの火炎石を爆発させたら城がまるごと消えちゃうよ! ちょ、誰かー!!」
ミランダの求めに応じて、ドアの外で聞き耳を立てていたと思しき騎士達が、どやどやと部屋の中になだれ込んでくる。暴走を止めようと友人に駆け寄ったミランダと、ヘンリエッタに片腕をつかまれて身動きが取れなくなっていたカーティスは、結局話らしい話も出来ないまま、大勢の男達によって引き離される羽目になった。




