番外編 春の苑、紅匂う 2
「ちょっと見せてくれるだけでいいんだってば。一回だけ、ねっ、一回でいいから」
「しつこい」
国王の懇願をにべもなく却下しながら、王妃がずんずん歩いてくる。茉莉の口調はそっけなく、ロードライトは年甲斐もなく茉莉にしつこく食い下がっている。
いつも通りに見えて、かなり珍しい光景だ。ミランダは思わず足を止め、二人の方に体を向けた。
「陛下、王妃様」
「ああ……」
生返事をして会釈をしながら、茉莉がロードライトの顔を片手でぐい、と向こうに押しやる。本当にしつこいと思っているらしい。いつもならば、ロードライトがちょっかいをかけてきても、特に迷惑そうにするでもなく、好きなようにさせているのだが。
自分から何かすることが滅多にないのは、彼女の故国の風潮らしい。公の場でいちゃつくのは、あちらでは恥ずべき行為に当たるのだそうだ。
……ロードライトの態度は、クラルテの常識に照らし合わせてみても、若干行き過ぎている節があるが。この国王の感情表現がやや大げさなのは、今に始まったことではない。
思い切り顔を押された格好のまま、ロードライトがミランダに片手を上げる。二人に向かって会釈を返してから、ミランダは茉莉に問いかけた。
「何をなさっているんですか?」
「大したことじゃない」
「ミランダ、知ってるかい。茉莉はとんでもない特技を、僕に隠していたんだよ! 夫婦になって、もう二年が経つっていうのにさ!」
茉莉の手首をつかんで顔を抑えていた彼女の手をさりげなく外し、ロードライトはミランダの方に身を一歩乗り出してきた。剣幕に押されて数歩後ろに下がりながら、ミランダは邪険にロードライトの手を払っている茉莉を見た。
「特技、ですか? どのような」
答えは茉莉ではなく、ロードライトから返ってきた。
「舞だよ! ミコトは東照でも一、二を争うくらいの舞い手だったって、大将軍殿がおっしゃってたんだ!」
「ああ」
合点が行って、ミランダは頷いた。
「お美しいですよね。正式なものを拝見したことはありませんけれど――」
ロードライトの目が大きく見開かれる。ミランダ殿、と咎める色で茉莉につぶやかれ、ミランダははっと口をつぐんだ。
……が、既に時遅しである。
「ミランダは見たことがあるのかい!?」
がしりと両手をつかみ、食われるのではないかという勢いで、ロードライトがミランダに尋ねてくる。
あまりの迫力に固まりながらミランダが首肯すると、ロードライトは首をぐるりと後ろに回した。
「茉莉!」
ごくまれに国王だけが口にするそれは、どうやら王妃を指す愛称のようなものらしい。東照にはいろいろな風習があるようだが、ミランダは今のところそれについて深く学ぶ時間を取れないでいる。
「ミランダも見たことがあるのに、僕が目にしたことがないなんて!」
この世の終わりが来たと言わんばかりの嘆きぶりで、ロードライトは大仰にうなだれる。あまりに悄然とした様子にミランダがおろおろすると、後ろから冷徹な声が飛んできた。
「ミランダ殿、ソレを甘やかすとどこまでもつけあがる。軽くあしらってくれ」
「奥さんの冷たい言葉が、政務で疲れた僕の心に突き刺さるよ……」
「よく言う。先ほどまであれほど楽しそうに大臣を追い詰めていたくせに」
「あんな無駄の多い予算を組んでくる方がどうかしてるんだよ。王は城の中でぬくぬくしてるから、工事の相場など知らないだろうっていう態度が裏に滲みまくってたから相応の仕返しをしただけじゃないか。僕の嫌味は虐げられてる民の言葉を代弁してるだけだよ。それとこれとは話が別だ。……ミランダ、僕の嘆き、君は分かってくれるよねぇ!?」
元気に反論してからまたうなだれたので、ロードライトがふざけ半分に嘆いているのがミランダにも分かった。
だが「見たい」という気持ちは本物なのだろう。自分より先に、妹が妻の知られざる特技を目にしていたこともショックだったに違いない。
実際、即位後のあれこれやが重なって、ロードライトはそれなりに政務に忙殺されてはいる。ご褒美がわりに見せてあげてもいいのでは――という気持ちになり、ミランダはそっと茉莉の方を伺ってみた。
義理の妹の思惑を正確に汲み取った茉莉は、不利を見て取ったのかぐっと詰まって後ろに下がった。
「……舞自体は、お好きでいらっしゃるんですよね?」
ミランダも、茉莉の舞を自分から請うて見た訳ではない。一人でこっそり舞を舞っていたところに、たまたま鉢合わせてしまったのだ。
ロードライトの嘆きを右から左に聞き流しながら、ミランダはその時の記憶を手繰り寄せた。
城のはずれにある小さな庭園。蒼麗から贈られた「モモ」という木が植えられているそこは、春の初めに可憐な薄紅色の花をつけるのだ。
この国では薔薇園に咲く花々のような、豪奢で色合いもはっきりしたものが好まれる傾向が強い。
だからこの庭園も、人から省みられることはあまりなかった。庭師の手入れさえ滅多に入ることがない、寂れた場所だった。けれど、夜闇に浮かび上がる雲のような花々が好きで、ミランダはその場所を密かに気に入っていた。
夜を徹しての作業の息抜きがしたくなって、そろそろあの花が咲いている時期であることを、ミランダはふと思い出したのだ。そしてその場所に足を向けて――
異国の歌を小さく口ずさみながら、木の下で舞っている女神を見つけたのだった。
「ええと……」
舞っていた理由も、それを人目につかないように、茉莉が極力気をつけていた理由も、その後茉莉本人の口から聞いた。理由を知っているから、「そのくらい、見せて差し上げればいいのに」と軽々しく口にすることも出来ない。
けれど、ここまでがっかりしている主を見続けるのもすっきりしない。おちゃらけた態度でごまかしてはいるが、ロードライトはどうやらそれなりにショックを受けている。態度のそこここから、本物の落胆がにじみ出ているのがなんとなく分かる。
迷った末に、ミランダは少しだけ、茉莉の背中を押してみることにした。多分、そんなに難しくはないはずだ。
「……東照国の女王陛下の舞いとは比べ物にならないから、人には見せたくないって、おっしゃってましたよね」
拗ねた子供の顔になって、茉莉はそっぽを向いてしまう。ロードライトははじかれたように、ミランダから茉莉の方に戻った。
「茉莉」
「……あれの舞いを見てみろ。型を守っているだけの古臭い私の舞いなど、二度と見られたものではなくなるぞ」
「ああもう、なんてことだ!」
頭をわしわしかき回して、ロードライトは地団太を踏んだ。
後ろで一つにまとめられていた金の髪が、威勢よく跳ねる。
「そんなくだらない理由で、この上なく大事な僕の奥さんの美しい秘密を見逃していたなんて!!」
「くだらないというがな、灯の舞いは本当に素晴らしいものだったんだぞ。あんなものを見せ付けられて、誰が人前で舞おうなどと思うものか。付き合わされたミランダ殿の方がいい迷惑だったはずだ」
実は茉莉の言の真相を、ミランダは知っている。
東照国の風習に馴染みがないミランダでさえ、茉莉の舞には素直に見ほれたのだ。いくらなんでも彼女の舞が「下手」に分類されるはずはないだろう。あまりに釈然としなかったので、後でこっそり将軍に理由を尋ねたところ、ほぼ予想通りの答えが返ってきた。
――要するに。茉莉の舞いは祭祀などに使われる伝統的なもので、東照国の女王の舞いは、風の歌や水の音色を自由自在に表す、ごく新しいものであるらしい。
舞い手としてはどちらも間違いなく一流なのだが、なまじ感覚が鋭い分、女王の舞いは、茉莉の目に慣れ親しんだ森や木々の命の流れにぴったり寄り添っているように見えるのだという。
茉莉の舞が儀礼を守った美しい「対話」なら、灯の舞はそこにあるものとの「同調」で、特に優劣の差はないのだと将軍は結んだ。
実際、自分のものとはまるで違う茉莉の舞いを、かの国の女王は大層愛していたらしい。
自分の考えから夫婦の口論に意識を戻し、将軍の言葉を伝えようかと、ミランダは口を開いた。
けれど声を発することなく、その口は閉じられる。
いつの間にか思い切り真面目な顔になったロードライトが、茉莉の両肩に手を置いて、腰をかがめている。
明らかに拗ねた様子の茉莉の額に唇を寄せて――多分、ここにミランダがいなかったら、キスは茉莉の唇の上に降りていたに違いない――抗議しようとした茉莉の唇を片手でふさいで、ロードライトは茉莉の耳元に唇を寄せた。
茉莉が真っ赤になって、両手でロードライトの胸を押す。自分を向こうに押しやろうとする手をすばやく絡めとり、流れるような所作でロードライトはその指先に唇を落とした。
腰をかがめたその体勢のまま、国王は上目遣いににやりと微笑んで。
茉莉がさっと下を向き、体を小さく震わせるのが見て取れた。
「ミコト様、惨敗ですね……」
ミランダは肩をすくめて苦笑する。
態度はいつも素っ気無いけれど、夫の「本気のお願い」に、この后が陥落されなかったことはないのだ。
しぶしぶ「期待するなよ」と了承の意を示した妻を、ロードライトは大喜びで抱きしめた。