番外編 春の苑、紅匂う
本編終了後。ミランダと茉莉のお話。
「……よしっ、と」
羽ペンをインク壺に戻し、積み上げた書類の上に文鎮を置いて、ミランダは椅子の背もたれに背中を投げ出した。
国史書五冊程度の厚みがある束が、目の前にそびえている。これでもまだ持ち帰った仕事の一割にも満たない。
一応切りのいいところまで片付いたから、今日はこれで休んでも構わないだろう。
城の一角にある、一の騎士の居室。街中にある自分の屋敷に、ミランダはここ一月ほど全く帰れずにいた。王の即位から数年は、近衛騎士の顔ぶれが一番変わる時期だ。必然的に、警備の最高責任者である一の騎士、ミランダの仕事量は桁違いに跳ね上がる。
時計は、と見れば、既に夜半を過ぎている。お茶でも飲んで休みたいけれど、既に使用人たちは眠っているだろう。起こしてしまうのも忍びない。
とりあえずこもってしまっている空気を入れ替えようと、ミランダは席を立った。肩を軽く回しながら窓に近づく。窓枠に手をかけて外に開くと、柔らかな空気が部屋の中に忍び込んできた。
夜気が随分温かくなったことに、ミランダは少しだけ驚いた。
(春が近づいてるんだ……)
仕事に追い立てられてばかりで、季節の移ろいに気を払う余裕さえなかった。いつの間に冬は旅立ちの用意を始めていたのだろう。
しばらく感慨に浸った後で、ふとミランダはあることを思い出した。
「もう、咲いてるかな」
全てのものが密やかに眠りについている夜の空には、満月がぽかりと浮かんでいる。まぶしいほどの月明かり。夜目が利くミランダには充分すぎるほどの明るさだ。これならばランプを持って歩く必要もないだろう。
少しうきうきしながら、ミランダは開いたばかりの窓を閉めて、上着を羽織った。
薔薇園やホールに面した大庭園などは、庭師が抜かりなく手を入れ世話をし、どの季節でも必ず何かしらの花が咲いて、ため息が出るほど美しい様相を呈している。
けれども、そういった手入れがあまり入らない庭も、実は少なからず存在したりする。
クラルテの王宮は、国の規模に相応しい広さがある。
少々派手好きだった数代前の王が作らせたまま、ひっそりと忘れられた庭が、内宮のはずれにはいくつもあるのだ。
取り壊す費用も勿体無いからと放置されたそれらの庭のひとつが、ミランダお気に入りの場所だった。
桃、という木だけが植えられた庭は、春の初めのほんの少しの間だけ、紅色や薄紅色の花に彩られる。
クラルテでは、薔薇の花のような派手ではっきりした色合いを持つ花が好まれる傾向が強い。蒼麗から入ってくる植物で人気があるのも、牡丹や芍薬と言った豪奢な花である。
この庭が人々から忘れられるのが早かったのも、無理からぬことではあった。桃の花は一つ一つがとても小さく、色合いもお世辞にも派手とは言いがたい。けれど、夜闇の中に雲のように浮かび上がる花々は、ミランダの心には不思議と染み入るものがあった。
カーティスやロードライトも知らない、お気に入りの場所。確かめている暇もなかったが、この温かさなら既に咲いているかもしれない。
月明かりに照らされて白く浮かび上がっている石畳を、ミランダは心持ち早足で進んでいった。
紅色の雲が、木立の向こうに見える。
(咲いてる)
既に城の建物は遠い。足音を立てても迷惑にならないだろうと判断し、ミランダは駆け足になった。軽い足音が夜の道に響き――
小さな歌声が耳に届いたのは、その時だった。
「!」
とっさに足音を殺し、ミランダは木の幹に身を添わせた。いつもの癖で気配まで絶ってしまってから、ミランダは自分の行動に苦笑した。いくらなんでも、この声の主が狼藉者であるはずがない。ないけれど。
(何をなさっているんだろう?)
彼女の夫君は、多分まだ政務に終われているはずだ。遠目に見える執務室には明かりがついている。彼より先に休むのは気がとがめて、散歩にでも出られているのだろうか。
「条件反射」のおかげで、ミランダが来ていることには気づかれていないようだ。
耳に届く旋律は不思議と心地よく、中断させてしまうのは惜しい気がする。
好奇心を抑えながら、ミランダはそっと木の幹から顔を出して小さな庭園を伺ってみた。
予想通り、そこには先客がいた。
黒い艶やかな髪、しなやかな指先、すっきりとした飾り気のない、異国の服。
口ずさんでいる歌は聴いたことがない類のものだ。東照語なのだろう。その意味までは分からないけれど、明るいものである事がなんとなく察せられた。
薄い衣に月の光が寄り添う。はらはらとまい散る花びらが、彼女の髪に止まり、肌に止まり、着物を撫でては宙に軌跡を描いていく。
袖を抑えて、中腰になって膝を曲げる。ゆるりと旋回する扇の色は、花と同じ、桃色だ。
王宮で献上された蒼麗の舞を、ミランダは思い出した。あれより動きはずっと制限されていて、歌も静かなものだったけれど。
月光の下で穏やかに笑みの形を作っている唇。半ばまで伏せられたまぶたの縁をいろどるまつげが、淡く影を落としている。
雪のような欠片がいくつもいくつも降り注ぐ中での静かな舞は、なんだかこの世のものではないように思えた。
舞を終えて緊張を解いた茉莉の耳に、唐突な拍手の音が飛び込んできた。
「誰だ?」
少し慌てて辺りを見渡し、茉莉はすぐに桃の木の下で気まずそうに体を縮めている義妹の姿を認めた。
「ミランダ殿……」
「すみません、あの、覗くつもりじゃ、なかったんです、けど……」
肩から力を抜いて、茉莉は苦く笑った。開いていた扇を音もなく閉じ、ミランダを手招きする。夫の一の騎士は恐縮した様子のまま、庭園に進み出てきた。
「その扇は、ひょっとして……」
「ああ、結婚祝いだといって東照国女王が送って寄越したものだ」
閉じた扇をひらひらと振ると、藍色の組紐が揺れた。花の形の結び目も、扇の骨の透かし彫りも見事な一品だ。よく見なければ手が込んでいることも分からないが、そういった装身具の方が、この衣装には合っている。
似合うことが分かっていたから、灯はこれをあえて、『茉莉に』と指名して送って寄越したのだろう。
……舞に使う為の、扇を。
物思いに沈んだ様子の王妃の横顔を、ミランダは黙って見つめた。
「……ん?」
ミランダの方に顔を向けて、穏やかに笑んで見せる茉莉の表情は、月光の下で不思議と柔らかく感じられた。つられて微笑み返し、ミランダは軽く首を傾けた。
「ミコト様が舞の上手でいらっしゃったなんて、存じませんでした」
「よしてくれ」
今度こそはっきりわかる形で苦笑して、茉莉は扇を懐に仕舞った。
「下手の横好きだ。ミランダ殿に見られたのは不覚だったな。……ここを、気に入っていたのか?」
茉莉は、照れ隠しのように、舞い落ちてくる花びらを人差し指と親指で捕まえ、くるくるともてあそぶ。ミランダはええ、と頷いた。
「この花は、色がきつくないですし、雲のようで綺麗でしょう? なんだか落ちつくんです。ミコト様は?」
「東照で咲く花に良く似ていたのでな。懐かしくなって――つい」
「似た、花」
「ああ。故国ではその花の下で食事をしたり、舞を舞ったりして、春を祝うんだ。色はこの花より、さらに薄くてな……」
茉莉の視線の先、薄紅色に息づく花の雲を、ミランダは見上げた。その向こうに茉莉が見ているであろう風景。それはどんなものなのだろう。
「……あの」
「うん?」
はらはらと、光の欠片が落ちてくる。
「もう一度、舞っていただけないでしょうか。その……」
とても綺麗だったので。そう続けると、茉莉は瞬きを何度も繰り返した。
「もう一度言うが、下手の横好きだぞ」
「私には舞の良し悪しは分かりません。……ですけど、ミコト様の舞はとても気に入りました。もう一度見せていただけませんか?」
義妹の珍しい「おねだり」に、茉莉は少しだけ戸惑った風に視線を揺らした。
暖かな風が、さやさやと枝や葉を触れ合わせていく。
「……では、もう一曲だけ。観客がいてくれるのは、下手な舞い手でも嬉しいしな」
「こちらこそ教養のない観客で申し訳ないです」
生真面目なミランダの返事に、茉莉が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
どちらからともなくくすくす笑いあってから、東照の媛君は静かに扇を開いた。
春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女 -- 大伴家持




