番外編 雨音とまどろみ
雨の雫が、頬を伝って流れていく。濡れた服が、べたりと肌に張り付く。
肌に温められてわずかに温くなった、水を含んだ布。髪から落ちる雫。着ていた服は屋敷を出る前に脱いで、処分してしまった。だから、この服には血はついていない。
だというのに、血の匂いはどこまでもまとわりついて、離れない。打たれるような雨の雫も、それを洗い流すことはない。
優しい、温かい使用人たちが待つ家に、こんなものを持ち込んではいけない、と思う。
浅く息を吐いて、ミランダはシャツの胸元をぎゅっと握り締めた。
――寝台の上で、膨らんでもいない胸をまさぐられた感触が、脳裏に蘇る。
中年の男の、ソーセージのようなぶよぶよとした芯のない指。その持ち主は、既にこの世のものではないはずだ。とどめを確かに刺した事を、ミランダ自身が確認したのだから。
感心できない趣味を持っている男に近づくのは容易だった。
娼館では決して満たせぬ欲求、見繕えない伽の相手。それをあの男は、貧民街で『調達』していたのだ。成長期にあって、人一倍腹をすかしている子供の前に、温かな食べ物と、わずかばかりの金銭をちらつかせて。それを、逆に利用した。あの屋敷の使用人を取り込み、ミランダを貧民街の子供と偽って寝台に送り込んだのだ。
寝首をかくのは、容易だった。十にもなっていない子供にそんな力があるなどと、普通は思わないだろう。抵抗される事を考えてだろう、ミランダに与えられた食事には、体の動きを麻痺させる弱い毒が盛られていた。しかし、それは『国王となるものの妹』であるミランダには、全く効かなかった。
浅い呼吸が、喉から漏れる。
……帰れない。帰りたくない。
それらしく見せる為に、ミランダは数週間の間、食べ物らしい食べ物を、ほとんど口にしていなかった。男の館で見苦しくない程度に体を清められはしたが、髪はばさばさで頬はこけ、腕は笑えるくらいに肉が落ちている。染めた髪は暗い茶色で、汚れて見えるように、泥や汚物をこすりつけさえした。
家のものには、しばらく旅行に行くと偽っている。その間、ミランダは実際には、同じ王都の情報屋の下で、「本物の」貧民街の子供に「指導」を受けていた。道を行く誰も、彼女を「一の騎士」の養女だとは思わないだろう。
水滴を髪から落としながら、ミランダは天を仰いだ。昼間はこういう子供がうろつくことに比較的寛容な娼館も、客を引き込まなくてはいけない夜には冷たくなる。街中を行けば、嫌悪と侮蔑の混じった表情を向けられるか、透明な無関心で、無視をされるか、だ。ごくまれに、慈悲のこもった視線を向け、銀貨を握らせてくれるご夫人や、あからさまな悪意を持って、腹いせに力のない子供を虐げようとする男が絡んでくることもあったが。
格好が違うだけで、世間とはこれほど様相を変えるものなのか。
諦めにも、感慨にも似た奇妙な感情を胸に抱きながら、ミランダは路地裏に体を滑り込ませた。
ドレーク子爵が殺されたことは、既に伝わっているはずだ。下手人が貧民街の子供であろうということも。雨の音に混じって、遠く警笛の音が聞こえてくる。ちろちろと燃え盛る油石の灯りが脳裏にちらつく。ミランダは背中を壁におしつけ、ずるずると丸まった。
動かなければ。裏口を通って情報屋に滑り込めば、あとはユーロパが事をうまく運んでくれるはずだ。一刻も早く、報告を……。
踏み出しかけたところで、景色がぐらりと傾いだ。
「……」
ばしゃんと水飛沫を上げ、膝から地面に倒れこむ。壁に手をついて、ミランダは何とか自分の体を支えた。食事らしい食事をほとんど取っておらず、人を殺した直後であることに加え、この雨だ。いかに強靭な体を持つ身だと言っても、自分がまだ十にも満たぬ子供なのだということを思い知らされる。
目印になっていた娼館の看板を探そうと顔をあげると、また景色がかすんだ。
こんなところで、倒れるわけには。
ふいに目の前が明るくなった。
「!」
裏口が開いたのだと悟り、ミランダは体を硬くした。ここにいるのが見つかれば、どんな仕打ちを受けるか分からない。早く、移動しなくては――。
「……失礼します!!」
ダン、と激しい音を立てて、裏口の扉が閉められる。若い男が飛び出してくる気配がした。声変わりしたばかりといった風情だから、まだ少年かもしれない。そんなことをぼんやり考えながら、ミランダは、体を壁に押し付けた。娼館の客ならば、路地裏に倒れている子供に気を取られたりはしないだろう。死にかけた風情でも装ってぐったりとしていれば、一瞥するだけで見捨ててくれる。黙ってやり過ごすのが一番だ。
ミランダは下を向いて息をつめ、男が通り過ぎるのを待った。
だが。
「……子供、か? どうしたんだ、こんな所で」
降ってきたのは、いぶかしむような声だった。悪意の欠片もないそれは、不思議とミランダの心を落ち着かせる。泣きたいような心地になって、ミランダは慌てて歯を食いしばった。
存外に強い力で肩をつかまれる。泥水の中にためらいもなく膝をつき、油石の入ったランプをこちらに向けて来る男を、ミランダはあっけに取られて見返した。
あどけなさを残していながらも、既に精悍さが垣間見える顔立ち、さっぱりと切られた黒い髪。娼館で遊べるくらいなのだから、格好はやはりいいところの坊ちゃんと言った印象を受ける。
意志の強そうな鳶色の瞳が、自分の罪を断罪しているかのようだ。この人に血の匂いを悟られたくない。そう思って、ミランダは身をよじって男の手から逃れようとした。
だが、彼女の希望に反し、男はますます顔を険しくして、大きな手を肩に回してくる。
雨粒がぼたぼたと体を打っている。男はそれに気づいて、外套を脱いで、ミランダの頭の上に乗せてくる。乾いた布の匂いがミランダを包む。その思いがけない温かさにはっとして、ミランダは目を大きく見開いた。
雨粒が地面を叩く音に混ざって、警笛の音が聞こえてくる。
(まずい)
逃げなくては。男を突き飛ばす。不意をつかれたせいだろう。よろめいた男の隙をつき、ミランダは笑っている膝を無理矢理動かして、きびすを返した。
「おい?」
がしりと手首を掴まれる。その力強さがいまいましかった。こちらにはもう、それを振り切れるほどの力は残っていない。
「離せよ!!」
粗野な言葉を使って怒鳴りつける。例え大声で騒いでも、雨音はそれをかき消してくれるだろう。被せられた外套を目深に被り、顔を覚えられないように気をつけながら、ミランダは体をむちゃくちゃに振り回した。
警笛の音が、近づいてくる。ナイフで切りつけてひるませてでも逃げてやろうか、とミランダが懐に手を伸ばした時、がばりと大きな体に抱え込まれた。
「……こっちだ」
え、と思う間もなく担ぎ上げられ、路地裏の奥まった箇所に向かって走り出される。片手でミランダを担ぎ上げ、空いた手に油石の頼りない灯りを持って、男は軽々と夜の街を駆けていった。
ただでさえ本調子でなかったところに、上下に激しく揺さぶられ、ミランダは胸がむかむかするのを感じた。薬入りの食事が、胃液と共に逆流してきそうだ。建物の裏でえづいていると、大きな手で背中をさすられた。
「大丈夫か?」
大丈夫なものか、といいたかったが、言葉にならない。下を向いて何度も咳き込むと、ちょっと待ってろと言い残して、男は建物の窓枠に手をかけた。ガコン、と音がして、窓が開く。
男が窓の中から建物の中に入って少したったころ、今度はすぐ傍にあった扉がキィ、と音を立てて開かれた。
「汚すと、夜中に抜け出したのがばれて叱られる。これを体に巻きつけるんだ」
差し出されたのは、真っ白なシーツだった。
古めかしく重厚で、決して華美ではないものの、どこか厳粛さと規律正しさを感じさせる、がらんとした建物。宮廷学校の寮だと気づいて、ミランダは息を呑んだ。火星宮の神殿章がホールにかかげられているから、こちらには、将来騎士になる者達が暮らしているのだろう。
「相部屋なんだけど、今は長期休暇中だから、相方は故郷に帰ってる。楽にしてていいぞ」
部屋をきょろきょろと見渡しているミランダの様子に頓着せずに、男はタイを緩め、ずぶ濡れになった上着に手をかけた。着替えるつもりなのだと悟って、ミランダは視線をさ迷わせた。
「おまえも脱げ。一晩干しておけば乾くだろ」
……男と勘違いされている。まあ、女だとばれたところで、娼館にいたような男ならば、自分に危害を加えはするまいが。逡巡したあとで、ミランダはずぶ濡れになって張り付いたシャツに手をかけた。下着を残して上着を脱ぎ、シーツを体に巻きつける。窓を開いてシャツとズボンを絞っていると、上から男の大きな手が伸びてきた。
「そら」
ぎゅっ、と男が服をねじる。水滴がぼたぼたと落ちて、夜闇に姿を溶かしていく。それを勢いよく一回広げると、彼はにこりと笑った。そのままハンガーに上着をかけて、窓枠に引っ掛けてしまう。
歯をむき出すような開けっぴろげな笑い方ではなく、ある程度抑えた笑みだ。やはりこの男はお坊ちゃんだ、とミランダは思った。
髪を乱暴に拭かれ、カップに入った水を差し出される。
「何か食えそうか?」という問いには、首を弱く左右に振ることで答えた。胸のむかつきはおさまっていない。確かに空腹だったが、胃は当分食べ物を受け付けそうになかった。
「……なんで」
「ん?」
湿気がうっとおしかったのだろう。男は上半身には何も身につけていない。むき出しにされた体はよく鍛えられていて、ところどころに生傷や打撲の跡が見受けられた。
「なんで助けたんだ」
「なんでと言われても……追われていただろう、お前」
ミランダが座っている寝台の反対側にある寝台にどかりと腰を下ろし、男はがりがりと頭をかいた。
ミランダはそっと瞳を伏せて、息をついた。忍ばせた短剣は、シーツの下で確かな存在感を主張している。
「子供が追われているから、情けをかけたのか? 一生面倒を見てくれるわけでもないくせに、余計なお節介だ。貧しいものを助けてやって、自分は高尚な精神を持つ聖者だとでも思いたかったのか?」
助けてやった子供にかみつかれるとは思っていなかったのだろう。虚を突かれた様子で、男はミランダを見た。いらいらして、ミランダは息を吐いた。恩知らずな発言だと思われるかもしれないが、これはある側面では正しい意見だ。継続的に施せない恩ならば、かけないほうがましなことだってある。自分は「本当の貧民街の子供」ではないから、まだいいかもしれない。だが、もしここにいたのが自分でなかったなら、その子供はきっと、明日から戻る、自分の惨めな住みかや暮らしを思わずにはいられなくなるに違いないのだ。
半端な慈悲は、時に明確な悪意よりよほど人を傷つける。甘い蜜の味を知らずにいれば、それに必要以上に思い焦がれることもないのだ。
だが、実際にその味を知ってしまえば。
ひとりで人を殺めたのは、初めてだった。そのせいで平常心が失われていると、ミランダは自分でも自覚していた。だがそれを完全に御しきれるほど、彼女の精神は成熟してはいない。
まっすぐな、穢れを知らない、健康そうな男。自分とは対極の位置にいる彼を直視できずに、ミランダは顔を伏せた。
「……考えなしに助けたわけじゃ、ないんだけどな」
「……?」
怪訝に思って顔をあげると、男はあごの下を片手で撫でてから、窓枠にひっかけているミランダのシャツを指差した。
「言っちゃ悪いが、お前が身にまとうものにしては、あれは質が良すぎるだろう? ほころびがないし、縫製も比較的しっかりしてる。普通、貧民街にいるものが身につけるのは、もっとよれっとした、平民が着古したような服だ。ズボンにもつぎが見当たらないしな。それに……」
あっけに取られているミランダを、気まずそうに見やってから、男は首もとを軽く示して見せた。つられるように自分の首に手をやって、ミランダは先ほど子爵にされたことを思い出した。かっと頬が熱くなる。
「少し……だけど、男物の香水の匂いがした。で、首もとのそれだ。……返事はしなくていいが……逃げてきたんじゃないのか、お前。その、貴族の中には、そういう趣味を持つものもいる、というし。……けしからん風習だ、とは、思うが」
一旦そこで言葉を切って、男はいまいましげに息を吐いた。
「俺だって、貧民街の子供をすべて救えると思いこむほど傲慢ではないし、普段は無関心でいるさ。キリがないからな。だけど、……お前がもし捕まったら、その先どうなるかは見えている。殺されるか、薬か何かで滅茶苦茶にされるか、だ。それはさすがに、放っておけない」
「……」
「まあ、これも縁だ。お前、もし良かったら、このままうちの実家に来ないか。厩番が、年だからそろそろ隠居したいと言い出していてな。人手が足りていないんだ。楽な仕事じゃないが、食事と寝床は確保できるぞ。……このまま、あそこには戻れないだろ」
体から力が抜けていく。正義感にかられるだけの、おめでたい騎士の卵ではないのだなと悟って、ミランダは泣きたいような、安堵したような心地になった。全身が、ひどくだるい。まぶたが重い。
「おい!?」
焦ったような男の声を最後に、ミランダの視界は暗転した。
窓の外が、うっすらと明るくなっている。どれ程の間、眠っていたのだろう。がばりと体を起こすと、頭がくらくらした。小さくうめいて体を丸める。腹に当たる短剣の感触に、ミランダははっきり意識を引き戻された。
「……」
慌てて左右を見回す。寝台の上には自分の他には誰もいなかった。横の寝台の上で眠っている男の姿を認め、ミランダはとっさに息を詰めて気配を殺した。
頭はまだくらくらするが、気分はだいぶ良くなっている。これならば、何とか情報屋のところには戻れるだろう。
男を起こさないように気をつけて寝台から降りようとしたところで、何かが膝の上から落ちた。
「?」
なんだろうと思って摘み上げると、それは水に浸したタオルだった。どうやら自分の額にのせられていたらしい。温かな心遣いに、鼻の奥が痛くなった。
まだ湿っているシャツを身にまとい、ズボンのベルトを締める。靴の具合を確かめ、手櫛で髪を整える。この時間ならば、屋敷の小姓たちが起きだして、用を済ませに街中を走り回り始めている。この格好でも浮くことはないだろう。
万一見つかっても、今の状態ならば反撃くらいはできる。
部屋を出る前に、ミランダはそっと男の方に近寄ってみた。窓から入る光を避けるように、男は寝返りを打って顔を背けてしまう。
「……あなたは、いい騎士になります」
彼はきっと、次代の王から、比類なき信頼を寄せられるだろう。真っ直ぐな気質も、現状を見つめる冷静さも、人を惹き付けてやまない性質だ。たくさんの部下から慕われ、主に一心に忠誠をささげ、主からも愛される騎士になるだろう。その様が目に見えるようで、ミランダは無意識のうちに柔らかく微笑んでいた。
闇の部分は、自分達が背負えばいい。
ありがとうとつぶやいて、ミランダはそっとその部屋を後にした。
「ミランダ」
「はい」
「紹介しよう、この春に宮廷学校を出て、しばらく私の従騎士を務めてもらうことになった。カーティスだ」
養父の後ろから現れた人物に、ミランダは瞬間息を呑んで足を止めた。
「カーティス、これが私の娘だ。ミランダという。男の格好をしているが、れっきとした女の子だ。それなりの扱いを頼むよ」
はい、と頷き、若い男性はミランダの前に膝をついた。一人前の女性にするように、ミランダの片手を取って、その甲に恭しく唇を寄せる。ふりだけで本当に触れないのは、ミランダがまだ子供だということを配慮してのことだろう。
あの雨の日から、一年と少しの月日が経過している。成長期にある子供の体格は驚くほど変わるものだし、ミランダの髪は完全な練り絹色に戻っている。対するカーティスの方も、あれからさらに背が伸び、顔つきも精悍になっている。だが、それは間違いなく、あの日、娼館の裏から自分を助けてくれたあの男だった。
「――よろしくお願いいたします。ミランダ様」
カーティスの方は、自分に全く気づいた様子がない。こちらを敬う、他人行儀な態度を少々残念に思いながら、ミランダは腰を折ってその礼に応えたのだった。
雨音が、子守唄のようだ。
ミランダの意識が、水面に浮かび上がる時のようにはっきりと覚醒する。体に鈍い痛みが残っていた。
子供のような、あどけない顔で眠るカーティスがまず視界に飛び込んでくる。ミランダはふわりと微笑んだ。
あの夢を見たのは、本当に久しぶりだった。その時と同じように、ミランダはカーティスと同じ部屋にいる。違うのは、彼が自分の隣、同じ寝台で眠っていることだ。
それと。
「……うう」
肌に散らされた跡を見やって、ミランダは小さくうなった。少しくらい、加減してくれても良さそうなものを。「体が資本」の騎士に相応しい昨夜の出来事を思い出し、ミランダは一人で赤くなった。翻弄されるばかりで、わけが分からないうちに終わってしまった、というのが、正直な感想だった。思い出して蘇ってくるのが、陶酔感と熱ばかりだということが、自分の感情のありようを如実に物語ってはいたが。
「雨、ですか……。ミランダ様、お加減は?」
もぞもぞと身動きをする気配がして、起こしていた上半身を抱き寄せられる。抵抗らしい抵抗をせずにぽすんと彼の胸に頭を預け、ミランダは頬をカーティスに押し付けた。温かな鼓動が、耳に心地よい。
「ん、平気。まだちょっと眠いけど……」
うつらうつらしながら返事をすると、カーティスはミランダの背中に回した腕に、力を込めた。逃がすものかと言う意志を感じ取って、ミランダは首をかしげた。
「どうしたの」
「……こういう雨の日に、逃げられたことがありまして」
「女の人に?」
くすくす笑いながら尋ねると、カーティスはとんでもないと大仰に否定した。
「子供ですよ。貴族の屋敷で、人の道に外れた事をやらされていたんでしょう。逃げてきたところに出くわしたので、匿ってやったことがあるんです」
痛みをこらえるような顔をして、カーティスは深く息を吐いた。
「あれほどやせ細っていたのに、俺が目を覚ますと、もう、いなくなっていて。……そうですね、生きていれば、ミランダ様と同じくらいか、それより少し下、といったところでしょう。もっとも彼は男でしたから、今は俺と同じくらいの背格好になっているかもしれませんが。時々、どうしているんだろうと思うことが、ありまして……」
プライドを傷つけるような、傲慢な事を言ってしまったんです。それも謝っていなかったのにとぽつりと漏らされた言葉を、ミランダは黙って聞いていた。
……もう、時効かもしれない。
「そうかな、私はあれで納得したけど」
「……えっ?」
「厩番の代わり、ちゃんと見つかった? ごめんね、お礼を言ってから行けばよかったのかもしれないけど、出来るだけ早く報告に戻りたかったし、あまり人目につく時間に出歩きたくなかったから……」
がばりと体が離される。貧相な自分の体が窓から差し込んでくる光に照らされることに気づいて、ミランダは慌ててシーツを手繰り寄せた。
「み」
「うん」
「ミランダ様、だったんですか!?」
「……うん、一人での初仕事。前に殿下……陛下がおっしゃってたでしょ、ドレークにはあまり感心できない趣味があったようだから、って。髪染めて、一ヶ月くらい前から準備して……」
「そ、そういえばドレーク子爵が亡くなったのは、丁度あの頃……」
ミランダと、逃げてきた子供が、カーティスの中ではさっぱり結びつかなかったらしい。それはそれで何だか複雑だと思いながら、ミランダはカーティスの混乱が落ち着くのを待った。
「ちょっと待ってください、じゃあ俺、ミランダ様にとんでもないことばかり……同じ部屋で服脱がせたりとか、失礼な口聞いたりとか、うわあああ」
九年近く前のことなのに、はっきりと覚えているようだ。ミランダは、真っ赤になって頭を抱えるカーティスを下からのぞきこんだ。
「気にしてないし、もう時効だと思うけど……」
「時効とかそういう問題じゃありませんよ。うわあ、俺、なんてことを、うわー」
床の上でごろごろ転がり出しそうなカーティスに、ミランダはなんと声をかけていいものかどうか分からなくなった。仕方がないのでただ黙って待っていると、カーティスはふと言葉を切って、ミランダの方に真顔で向き直った。
「……ミランダ様」
「うん」
「どっちでしたっけ」
「どっち?」
「首です、首!! あの変態子爵、よりにもよって、ミランダ様の首もとに……!!」
墓を暴いて首を斬ってやると言わんばかりの勢いで掴みかかられ、ミランダはたじろいで目を白黒させた。
「お、覚えてないよ。もう九年も前のことだよ!? 上脱がされてまさぐられたところで切ったし、大したことにはなってないって」
「ぬが……」
それきり絶句したカーティスの顔色が蒼白になる。
ミランダは己の失言を悟った。全身から血の気が引く。
なんだか、やばい。本能が逃げろと告げている気がする。
「……ミランダ様」
「は、はいっ!?」
ぽすんという軽い音と共に、視界がくるりと回る。覗き込んでくるカーティスの向こうに、天井が見える。
カーティスの目が、完全に据わっている気がする。気のせいであって欲しいと、ミランダは心の底から思った。
「消毒させていただいても?」
「消毒!? いやそれならさっき充分……」
「あれはあれ、それはそれです」
「待って待って、それはそれってな、ひゃあっ!!」
返事を待たずに素肌の上に落とされた口づけに、ミランダは裏返った声で悲鳴をあげた。
じたばた暴れる力も、しかしやがて弱くなり。
ミランダは結局、朝っぱらから思い切り疲れる羽目になったのだった。