番外編 その夜に
カーティス救済措置(笑)のお話です。
「か、カーティス、あの」
細くかすれた声が意味するものは、制止か、誘いか。本人の意向を確かめるつもりは、もはやカーティスにはなかった。練り絹色の髪をすく手が、みっともなく震えている。指の間を髪がさらさらと滑り落ちていく感触をかみしめながら、カーティスの手はミランダの耳に触れ、そこからそのまま彼女の輪郭を辿った。柔らかな頬の感触、桜貝のように薄く色づいた、小さな唇。
人差し指でゆっくりとその上をなぞると、ミランダの唇がわずかに開かれる。
「……」
言葉を紡ごうとしたのかもしれない。けれども目を細めて顔を近づけると、ミランダは観念したかのようにそっと目を伏せた。
カーティスの唇が、自然に笑みの形を作る。
互いの吐息がはっきり分かるほど顔が近づく。
ミランダが一瞬だけ、緊張して顔を引いた。彼女の顎に添えた手にわずかに力を込めて、カーティスがそれを許すまいとした、まさにその時だった。
「おーい、誰かいるのか? いないならランプをこっちに……」
ノックもなしにバタンと扉が開き、ジグが顔を出した。どったんばったんごんという音に目を丸くしてから、ジグはドアノブに手をかけたままの姿勢で固まった。
「……あ、ジグ……」
両手を思い切り前に突き出して、真っ赤になったミランダが、今更のようにジグの名を呼ぶ。その光景をぽかんと眺めてから、ジグは恐る恐る口を開いた。
「……なんでカーティスが倒れてるのか、お尋ねするのは野暮ってもんですかね、ミランダ様……」
「わああああ!? ごめんとっさに手が出ちゃった!! カーティス、大丈夫!?」
側頭部を派手に机に打ち付けたせいだろう。カーティスは小刻みに体を痙攣させながら、床にうずくまっていた。ミランダがおろおろとカーティスの前でしゃがみこんで、打った場所を探し始める。
どうやらものすごいタイミングで邪魔をしてしまったらしいことを察し、ジグは鼻の頭をぽりぽりと掻いた。眠っている同僚を起こすとまずいからと、足音を殺して来てしまったのが仇になったらしい。
「……失礼しました」
神妙な顔で謝罪すると、ジグは黙って扉を閉め、今度は足音を立てて部屋を後にした。
「ごめん、ほんとにごめんね」
半泣きになりながら、ミランダが濡らしたタオルをカーティスの側頭部に当てる。て、とカーティスが声を上げると、ミランダは目に涙を溜めておろおろとカーティスの背に手を置いた。
「頭、くらくらしたりしない? 大丈夫?」
「……ええ、平気です。こぶになるほどではなかったようですし」
タオルを押さえながら、カーティスは軽く頭を動かした。まだじんじんと痛みは続いているが、それもだいぶおさまってきてはいる。視線を上げると、涙を目に溜めたミランダの顔が、まともに視界に飛び込んできた。
「……すみません、鍵をかけておくべきでしたね……いつ誰が入ってきても不思議がない場所で、軽率でした……」
「……あ、うん、ごめんなさい」
「どうしてミランダ様が謝られるんですか」
苦笑すると、カーティスはタオルを頭から外した。しかられた子供のようにしゅんとしているミランダは、相変わらず警戒心が皆無で危機感がまったく感じられない。
氷色の、艶のある花びらのような生地が、ゆるやかにミランダの上半身を包んでいる。装飾というものがほとんどないドレスは、彼女の体の線を思ったより強調するのだ。しかも、ミランダは今、いつもは後ろで男性のようにまとめている髪を解いてしまっている。髪を下ろして女性らしさが増せば、本気で花園から城に迷い込んできた妖精のようにさえ見える。
自分から綺麗になろうと、彼女は努力していてくれたのだ。それも、他ならぬ自分のために。あまりのいじらしさに、カーティスの胸はいっぱいになった。あふれ出しそうなこの想いを、どうやって伝えたらいいのだろう。
「……嬉しいです」
小さな声だったが、静まりかえった部屋の中ではよく響いた。それを聞いて、ミランダはさっと頬を染めた。
「あの、でも」
「隣に並ばれたら、俺の方がかすんでしまいそうです。お綺麗ですよ」
朝露に濡れた薔薇の花のようだ、とか。きっと慣れた男達ならいくらでも美辞麗句を並べ立てられるのだろう。けれどその時のカーティスの頭には、子供でも思いつくような比喩さえ、全く思い浮かばなかった。
「……やり直しを、させていただいても?」
ミランダの手を取って、カーティスはその甲に口づける。ぴくりと震える感触を唇で楽しみながら、視線だけを上げる。ミランダはうるんだ瞳で彼を見下ろして、こくんと顎を引いた。
「そんなに固くならないでください。大丈夫ですよ」
なだめるように、カーティスはミランダの額に唇を落とした。ひゃ、と小さく叫んでミランダが体を縮める。キスでこれなら、この先まで行く時にはどうなることやら――と、カーティスはわずかに不安になった。色事方面のたしなみも一通り仕込まれたと言っていたが、その辺の耳年増な令嬢達よりよほどうぶな反応なのではないかとさえ思えてくる。カーティス自身が彼女達にお相手を願ったことはないので、はっきりとは断言できないが。
頬に、耳たぶに、まぶたに――。
触れるだけの口づけをいくつも落とし、ミランダの緊張がほぐれるのを待って、さあいよいよ――というときに、今度はミランダ自身ががカーティスの胸を軽く押した。
「……待って、カーティス」
「へ?」
肝心なところでまた寸止めを食らい、カーティスは目を白黒させた。
ミランダの目が細められ、視線が扉の向こうを射る。そう経たないうちに、どかどかどかどか、という派手な複数の足音が聞こえてきて、カーティスはぽかんとして扉を見やった。
「ミランダ様!! いい地酒を手に入れたんですが、一杯やりませんか!!」
ドンドンドン、と扉が叩かれる音、複数の男達の声。
「カーティス、開けろー。ここでミランダ様に手ぇ出そうなんざいい了見じゃねえかー」
わいわいぎゃあぎゃあという、独特の野次が聞こえてくる。これは。
「……酔っ払い?」
「おめでたいことがありましたから、飲んでいる連中もいるとは聞きましたが……」
ドンドンドン、というノックの音も、わいのわいのという野次も、静まる気配がない。放っておけば周囲の迷惑になりそうな勢いだ。ミランダは眉を八の字にすると、カーティスから離れて扉の方に歩いていった。
「すみません、すみません、本当に申し訳ない!! 酒を飲んだ連中と、帰りにばったり出くわして、問い詰められてしまって……」
ミランダに向かって平謝りをしているのは、ジグだ。すっかり宴会会場と化してしまった詰め所を見渡しながら、ミランダは苦笑してジグの前に置かれたジョッキに地酒を注いだ。
「ジグが悪いわけじゃないよ。こういう方面の人間は、酒が入ると暴走しがちだからね……」
大柄な男に肩をかかえられ、迷惑そうにしているカーティスを横目で見て、ミランダは少し寂しそうに瞳を伏せる。
カーティスに怒鳴られるよりはるかに深くぐさりと来るものを感じて、ジグは大柄な体を限界まで縮めた。
ミランダとて、気持ちを自覚していない訳ではない。感情を御する事がうますぎるせいで、彼女の気持ちがなかなか周囲には伝わらないだけの話なのだ。カーティスと二人きりでいるときのミランダの表情や雰囲気の違いに気がついていた人間は、カレンと自分、それにユーロパくらいのものではないだろうか。
もう少し彼女の感情表現が分かりやすければ、酔っ払っていても、邪魔をしようと思うものはいなかったのかもしれない。だが、大多数の人間から見れば、カーティスは未だにミランダに片想いをしている状態だ。
生真面目でお堅い騎士を、からかってやりたくなる気持ちは分からないでもない。しかし、多分今回はそうすべき時ではなかったのだ。
敬愛する上司を落胆させてしまったことに、ジグは少なからぬ罪悪感を覚えていた。
「だいたいよう、九年近くずっとお傍にいて、なーんも進んでないってのはありえねえよなあ! お前、ホントに男か?」
げらげらげらと、節度を外した笑い声があがる。酒臭い息を吹きかけられて、カーティスは露骨に顔をしかめた。逃げようとする彼の腕を掴んで、赤ら顔の男はさらにげらげら笑う。
「案外、あれだったりすんじゃねえか。腕が立つのは剣ばかりで、あっちの方はさっぱりーってな具合にー、とかよぅ!!」
どっと周囲が沸く。酔っ払いのたわごとだと割り切っているのか、カーティスは相手にしようとしない。はいはいそうですねと適当に相槌を打ったのが、男には気に入らなかったらしい。あん? と剣呑な声を出して、カーティスの腕に、男が手を伸ばした。
「……そこまでにしておいてね」
ぱし、と男の腕を止めたのは、彼の腕の三分の一程度しかない、ほっそりとした腕だった。男がきょとんと目を見開く。
「ミランダ様?」
「いくら非番でも、ここは王城の中だということを忘れないように。過ぎた深酒はいらない騒動を引き起こすものだよ。適当なところで切り上げなさい」
口調は穏やかだったが、その奥に有無を言わせない迫力があった。周囲の人間がぴたりと口をつぐむ。水を打ったように静まりかえった部屋を見渡して、ミランダはにっこり笑う。男の腕から自分の手を離すと、ミランダはカーティスの方に向き直った。椅子に座っているので、今、彼の頭はミランダよりも低い位置にある。
カーティスに笑いかけてから、ミランダは、カーティスをさんざんからかっていた男達に目を向けた。気圧されたように、男達が身じろぎをした。
「――それから」
ふわり、とミランダの練り絹色の髪が、軌跡を描いた。
「!?」
なんで伏せられたまぶたがすぐ目の前にあって、唇が温かいのだろう。カーティスがその答えに気づく頃には、柔らかな感触は既に遠ざかっていた。男たちがあっけに取られて、こちらを見ている。
「……私も今、機嫌悪いんだからね」
「み、らんだ、さま?」
「――邪魔、されるし。好きな人はもって行かれるし、目の前で悪口言われるし」
最後の方はさすがに恥ずかしかったのか、頬に朱が差している。それでもきっちり聞かせないと気がすまなかったのか、最後まで全員に聞こえる大きさで言い切って、ミランダはぎゅっとカーティスの手を握り締めた。
「だから……っ、わわっ!?」
ひょい、と抱えあげられ、ミランダは悲鳴を上げた。
「そういうわけですので、本日はこれ以上お付き合い出来ません。失礼します」
軽々とミランダの体を抱えあげて、カーティスはそう宣言するなり、周囲に向かってにっと微笑んだ。
「……怒らせればよかったんですね」
「な、何が!?」
「いや、怒れば、ミランダ様は素直になってくださるんだなと思いまして。あんまりやりたくないですけど」
今は、カーティスも城の宿舎の一角に、休憩用の個室を与えられている。ミランダの部屋の方が大きくて居心地はいいのだが、ここからは少し遠い。狭くて申し訳ないですがと言うと、ミランダは首をふるふると横に振った。
ミランダは、椅子の上でかちんこちんに固まって、膝の上でぎゅっと両手を握り締めている。借りてきた猫を思わせる風情に、カーティスは微笑ましい気分になった。むりにがっつかなくても、あの言葉を聞けただけで充分な気がする。今は、彼女を安心させてやる方が大事なのではないか――そう考えて、カーティスはミランダの肩に手を置いた。びくりと、大げさな位に彼女の肩が跳ね上がる。
「何もしませんよ、お疲れでしょう。今日はもうおやすみになられてはいかがですか?」
でないとここで手を出して、もう一度火がついたら間違いなく止まれなくなりそうだ。あの部屋と違って、こっちにはベッドがあるのだ、頭の痛いことに。
そういう思惑も含めて言ったのだったが、ミランダはどうしてだか、さらに不安そうな顔になった。ぱっと椅子から立ち上がって、カーティスの腕に手を添えると、唇をかんで、彼を見上げた。
「いや、だった? さっきの」
たった今打ち立てたばかりの決意が、がらがらと音を立てて崩れていく。ええと、と付け加えて、カーティスは視線を逸らした。
正視したら、間違いなくもたない。というか、今もかなり、やばい。
(色仕掛けは苦手って、絶対に、嘘だ……)
「そうではなく。ここは、寝台……が、あるので。……一度たがを外してしまうと、止まらなくなりそうなんです」
「あ」
かああ、とミランダの顔が赤くなる。つられてカーティスも赤くなり、二人はもじもじと押し黙った。
十代の子供じゃあるまいし、とは思うのだが、ミランダがここまで恥ずかしがると、どうしてもつられてしまう。場数を踏んでいない自分を、カーティスは初めて後悔した。
「な、なんだか、あれですね。……もうすこし円滑に事を進められれば、よかったんですが。すみません、修行不足なもので……」
「……変な言い方」
ぷっ、とミランダが小さく噴きだす。緊張がそれでほぐれたのか、ミランダはそのままくすくす笑い出した。空気が穏やかに緩んだのを感じ取って、カーティスも軽く声をあげて笑い出す。
抑えた声でひとしきり笑いあったあとで、ミランダとカーティスはどちらからともなく、額と額を軽くこつんと打ち付けた。
「――好きです」
「……うん」
気負いのない、ついばむような柔らかな口づけが、ミランダの唇に落とされる。
もう一回、とねだるように顔を寄せれば、それに応えて、熱は何度も彼女の上に舞い降りてきた。
――かくして。
翌日、欠伸をかみ殺しながら仕事に出たカーティスは、ロードライトとカレンから、すさまじく手の込んだ嫌がらせを食らう羽目になったのだった。




