第八章 守護者の約定 2
王女殿下、の呼び名に含まれたものに、ミランダはすぐに気づいた。眉根に皺を刻み、突きつけた切っ先に力を込める。肌に剣の先がく、と沈み込んだ。皮一枚を、切るか切らないかの微妙な力加減で、剣は静止している。
「……追放処分を受けた者が、どうやってこの城に入った。父と同じように、処刑台の露と消えたいのか、マイルズ」
男は両手を上げて、抵抗の意志を一切示していない。その容姿は父親のものとはあまり似ていなかった。公爵もいかついという形容詞からはおよそ遠い容姿をしていたが、この男にはそれとは別種の柔らかさがある。母親似なのだろう。優美と言って差し支えない顔立ちをしてはいるが、瞳にはどこか狡猾なものを感じさせる剣呑な光を宿している。本来ならば公爵位を継ぎ、西部を治める領主となっていた可能性が最も高かった人物だ。それなりに野心もあったのだろう。
そのような男がミランダを王女殿下と呼ぶ。
彼が善意を持ってミランダに接触を図ったのではないことは、それだけで明らかだった。
喉元に食い込んだ剣のことにまるでこだわらない様子で、マイルズはにこりと笑顔を作った。
「ここではモーリス、で通しております。ミランダ様。爵位などなくとも、城に入る方法などいくらでもあるのですよ。この国は大きく、城もその規模にふさわしい荘厳さと広さがあります。私の顔を知っているものの方が珍しいくらいでしょう」
爵位を持たないものが城に上がる方法は、確かにいくらでもある。城で働いている者の大半は、爵位を持っていない平民だ。もちろん、王宮に上がって働くものは、それなりの教養を身につけた、出自のしっかりしているものに限られる。
だが、そういった審査をくぐりぬけて、もっと簡単に城に入る方法がある。処刑された公爵の息子が密かに城に上がるとしたら、ある方法が一番手っ取り早い。
険しい表情のまま、ミランダは声を低めた。
「……誰の従者として、城に上がった?」
モーリスの名を持つ男の口が、奇妙に歪む。
「志を同じくするものの協力によって。王家の血筋を守る為に、我々は王女殿下、貴女を必要としているのです。おいでいただけませんか、我々のところへ」
ミランダの返答は、動いた剣だった。喉を切り裂こうとした剣の刃を、モーリスは素手で掴んだ。手に刃が食い込み、鮮血が刀身を伝って、赤い珠を結んで地面に滴り落ちる。
「!」
ほんの一瞬だけミランダに出来た隙を見逃さずに、マイルズはミランダの左腕を掴んで、体を自分の方へ引き寄せた。唇同士が触れ合うか否かと言う場所まで顔が近づき、湿った吐息がミランダの唇を撫でた。
「……呪いが解かれるようなことになれば、貴女は用なしの一の騎士になられる。ロードライト殿下は貴女よりも、あの異国の女を選ばれたのです。それでもなお、あの王子に忠誠を誓われるのですか」
透き通った茶色の瞳が揺れる。
剣に込められた力が抜けた。それを感じ取ったのか、マイルズは妖艶な笑みを顔に浮かべた。
その闇に、正面から向き合ってはいけない。
どこかで強く警鐘が鳴り続けている。
執務を続けている王子の横顔を、ミランダはいつになく真剣に見詰めていた。すっと通った鼻梁、どんな美姫も青くなるような、長く、淡い金のまつ毛。その下にある、二つの青い宝石のような瞳。
真剣な顔さえしていれば、優しい顔立ちも人の背筋を伸ばさせるような凛々しさを漂わせる。その性格も、為政者として全く申し分がない事を、ミランダは知っている。
過ごした時間は、まだお世辞にも長いとはいえないだろう。だがその器が王にふさわしくなってゆく様を、物心がついたときから、ずっと見守ってきた。
(……この方の代わりなんて、誰にも務まるはずがないのに)
「そんなに見つめられると焦げちゃいそうだなあ」
ペンをインク壺に戻して、ロードライトがミランダの方を向いて小さくおどけて見せた。我に帰って、ミランダは赤くなって体を萎縮させた。
「申し訳ございません」
「いや、別に構いはしないんだけどね」
頭を律儀に下げるミランダに片手を上げて応えて、ロードライトは背もたれにゆったり背中を預けて、膝の上で両手を組んだ。
「ミランダ。……呪いが解けたら、君はどうしたい?」
「え」
ぽかんとしたミランダを見やって、ロードライトはトントン、と人差し指を動かした。
「僕は君をそのまま一の騎士に留めおいて、これまで通り仕事をこなしてもらって構わないと思っていたんだけどね。だけど、呪いがなくなれば、別にミランダを無理に騎士に留め置く必要もなくなるんだよなあ、と思って。元々、特別な力を持った王弟や妹を王の家臣に確実に縛りつけておく制度だからね、一の騎士っていうのは」
「……殿下は、私をどうするべきだとお考えなのでしょう」
背中がすっと冷えた。這い上がってくる震えを必死に押さえながら尋ねると、ロードライトは呑気にうーんと声を上げた。
「うん、だからたとえばね、冗談でなく本当に、ミランダを王女だと発表して、王家の一員として扱う、とか。これはユーロパやロイドもまとめてやってしまってもいいと思うんだけど」
「必要ありません。私も養父も、そのような地位は望んでおりませんから」
弱く言って、ミランダは首を左右に振った。
「……ミランダ?」
様子がおかしいことに気づいたのだろう。ロードライトがミランダの方に体を向けた。顔色を仔細に観察しようとする視線を振り払うように、ミランダは笑顔を作った。
「一の騎士は、殿下の意志で自由に解任することが出来ます。他に然るべき者がいるのであれば、どうか私情に惑わされることなく、その者に役目をお与えくださいますように」
一度深く頭を下げてから、ミランダはさっときびすを返した。
「ミランダ!?」
「申し訳ありません、急用を思い出しました。代わりのものをすぐによこしますので、それまでは決してこの部屋から出られませんように」
席を立って何かを言おうとしたロードライトを、ミランダは強い口調で続けることで押し留めた。
「王宮は! ……今、とても不安定な状態になっています。殿下に何かあれば、ミコト様のお立場が危うくなり、東照との関係が悪化する可能性も充分に考えられます。軽率な行動は慎まれてください」
何も言えずに立ちすくんだロードライトを振り返ることなく、ミランダは扉をすり抜けるようにして、執務室を後にした。
ノックもなしに扉を開いて駆け込んできた騎士は、全身に殺気を漲らせていた。しかし、ロードライトの方はその反応を逆にありがたいと思った。部屋から出ることも出来ず、まんじりとしていたが、彼ならば恐らく、望む答えを得られるはずだ。
「――ミランダは」
「どの口でそんな事をおっしゃいますか」
「ミランダはどうしたんだと聞いている! 答えろ!」
カーティスを真っ向から睨み返し、ロードライトは声を荒らげた。胸倉をつかまんばかりの勢いで言われ、カーティスはぐっと口を引き結んで、一歩だけ後ろに退いた。
部屋の入り口に控えていた騎士達が、どうしたことかとこちらを伺っている。
「何でもない」
片手を挙げて扉を閉めるように指示する。扉が音もなく閉じられるのを待って、ロードライトはカーティスとにらみあった。
騒ぎになってはまずいと、双方が察したせいだろう。カーティスは先ほどよりは幾分か落ち着いた様子になって、失礼しましたと頭を下げた。非礼を咎める事をせずに、ロードライトは顎を少しだけ上げた。
「……僕の問いに答えろ、カーティス。ミランダはどうした?」
「それを聞きたいのはこちらの方です。殿下、ミランダ様に何をおっしゃったんですか」
「何を……?」
非難の色がこもった視線が、ロードライトに向けられた。思い当たる節がなく、突然のミランダの行動にさえついていけていなかったロードライトは、ただうろたえて、カーティスを見返した。それにさらにいらついたらしく、カーティスは眉をしかめて目を細めた。
ぎゅっと拳を握り締め、大きく肩を震わせてから、カーティスは言葉を吐いた。
「――泣いて、いらっしゃいました。どんな怪我を負っても、謂れのない中傷を受けても、涙一つ見せたことがなかったあの方が。……殿下。あの方に、何をおっしゃったんですか」
問いが繰り返される。
ロードライトはただ呆然として、扉の向こうを見つめた。
――そなたを私の一の騎士に任命する。何があっても、どんな時でも、常に私の側にあり、共に国を支える礎となるように。
そう言われて、王子と同じ名を持つ貴石を下げ渡されたのは、まだ彼女が学校にも上がっていなかった頃だった。それでもその時のことを、ミランダは今でもはっきりと思い出せる。
あの言葉が、その後のミランダの人生を決定付けた。貴石を守るのだと教えられ、ただそれに漠然と従っていた時間は、あの時点で終わりを告げたのだ。
貴石の傍にあり、貴石を――ロードライトを支える礎となれと命じられた時、胸にこの上もない幸福が満ちた。この人を守るために自分は生まれてきたのだ。それを自覚した瞬間に、ミランダは自分の進むべき道をはっきりと見定めた。それは決して揺らぐことはないと思っていた。自分の心臓が鼓動を止める、その日まで。
不自由な束縛だと、そう思って歴代の王は心を痛めてきたのだという。ロードライトもきっとその一人なのだ。
けれど、歴代の一の騎士たちは確かな誇りを持って役目を務めてきたのだ。それがどれ程幸福なことか。
きっとどの王も、一の騎士の心情を推察するという、その点においてだけは完全ではありえなかったのだ。
実際には、ミランダはまだ泣いてはいなかった。カーティスに指示を出し、城に用意された自室に駆け込んだところで、彼女はようやく嗚咽の声を上げ、扉に背中を預けてその場に崩れ落ちた。
「……ふ……っ、く」
体を折り曲げて、声をこらえるために口許に手のひらを押し付ける。それでも涙だけはとめどなくあふれ出て、視界を歪めていく。
――呪いの力さえなくなれば、自分はやはり、一の騎士である理由はなくなるのだ。
分かっていたくせに、どうして王子の口からそれを告げられたことが、ひどく大きな衝撃になっているのだろう。
思いやりだと、ロードライトらしい配慮なのだと分かっている。けれど他意なく出た言葉であっただけに、それが余計にミランダの胸に痛みをもたらした。
守る存在でありたかった。
守護者の名を頂くものとして、迷うことなく一生をまっとうできれば、どれほどよかっただろう。
――今の、自分は。
強く頭を左右に振っても、認めたくない現実は消えてはくれない。子供のように何度も頭を振って、ミランダはその場にうずくまった。
その日の晩。
ロードライトの呼び出しに応えることなく、ミランダは城から姿を消した。
目を離すのではなかった。あの状態のミランダに、従うべきではなかったのだ。
怒りに任せて短絡的な行動した自分に歯噛みをしながら、カーティスは街中を駆けていた。
城の中にも、彼女の家にも、ミランダはいなかった。ロードライトも、ユーロパでさえも、彼女の消息を掴んでいなかった。
公には、一の騎士は訓練中に落馬し、邸で静養中だという知らせが出ている。彼女をおおっぴらに探すことは来ない。
「ミランダ様……」
じりじりとした焦燥感に、体が焼き尽くされそうだった。
冬の高い空は、何事もなかったかのように晴れ渡っている。色の薄い青を、カーティスは唇を噛んで見上げた。
今、どこにいて、何をしているのだろう。無事なのだろうか。
最後に見た彼女の姿が、まなうらにありありと浮かんでくる。うつむいて、「殿下の所に行って」と言うなり走って行ってしまった頼りない後姿、小刻みに震えていた肩、声。
ミランダが消息を絶ったという知らせを聞いても、彼女の養父であるユーロパは驚くほどに冷静だった。そうか、と言ったきり沈黙を守り、しばらくしてからおもむろにロードライトの私室に足を向けた。
そして祈るようにテーブルの上で両手を組んでいたロードライトを見下ろすなり、静かに告げたのだ。
「あれを切り捨てる覚悟をなさっていてください」
と――。
どうして、と尋ねたのは、ロードライトではなくカーティスだった。
「どうして、いきなりそこまで話が飛ぶんですか!! ユーロパ様!!」
激昂したカーティスを諭すように、ユーロパは彼に厳しい視線をやる。若造の反論など寄せ付けもしないといわんばかりの冷徹な態度に、カーティスはひるんで、思わず一歩後ろに退いた。
「カーティス。お前はミランダに万一のことがあった場合、その代理を務めるはずだったな? ミランダの仕事を全て引き継ぎなさい。お前で不足する分はしばらく私が補佐につく。殿下、よろしいですね?」
「……」
ユーロパを見上げ、ロードライトは力なくうなずいた。
「表向きにはミランダは事故により静養を余儀なくされたということにしておきます。いつまで持つかは分かりませんが、そのように振舞われますように。よろしいですね」
「捜索は行わないのですか!? そんな――」
抗議の声をあげて食って掛かったカーティスを、ユーロパはさっと一瞥するなり、窓の外に目を向けた。
「ミランダは、自分の意志で姿を消したのだろう。だとすれば、普通の捜索では見つからんよ。あれもそれを望んではいないはずだ」
「ユーロパ様!」
「ミランダは」
喉の奥から、絞り出すような声を出したのは、それまで悄然としていた王子だった。
「何を考えて、姿を消したのか。お前には分かるのか……ユーロパ」
分かっているから、そんなに落ち着いているのか。そう問いかけられて、ユーロパは顎に手をやった。
「――私も、国王陛下の『一の騎士』です。呪いが解かれる……いや、解ける、と言いなおした方がよろしゅうございますかな。そうなった時に、一番恐ろしいことはなにか、くらいは予測がつきます。特に、ミランダは……揺さぶりをかけられていたようですからな」
黙って問いかけてくる視線に、ユーロパは静かにこたえた。
「殿下を害しようとするもの達の、旗印にされることですよ。守護をするどころか、貴石を害する立場に立たされかねない。それは、我々にとっては――何よりも、忌まわしいことなのです」
「だから、生かしておくよりは、いっそ殺せと言うのか。それがミランダの幸せだと……っ!!」
ドン、と壁に拳が打ち付けられる。そのまま壁に背中を預け、ロードライトは左手で顔を覆った。彼の傍らに立って、茉莉はただ静かに、ロードライトの肩に手を置いた。ミランダが姿を消してから三日。彼女の足取りは、依然として全くつかめていないままだ。
「茉莉は……気づいていたんだな」
「一の騎士の考えなどは分からなかったが、様子がおかしいことは。そしてそれは多分、私のせいなのだということも」
瞳を伏せて、茉莉はロードライトの肩から指の先をそっと離す。ロードライトが弱く首を左右に振って、茉莉の肩に顔を埋めた。少しだけためらってから、茉莉はロードライトの背中に腕を回した。
「何が、兄だ……、貴石だ……! 護られるばかりで、妹一人の気持ちさえ、察してやれない奴が、国を治める王になるなど……っ」
ふう、と大きな溜め息が聞こえ、ロードライトは顔を茉莉の肩から離した。
ため息をついた姫君は、思いも寄らない強い光を、その目に宿していた。
光の強さに気圧された瞬間、茉莉の白い手がふっと夜の闇に浮いた。
衝撃はそれほど強いものではなかった。
けれど茉莉の手は、確かにロードライトの意識を、鮮明にこちら側に引き戻した。
張られた頬を押さえて、ロードライトは大きく目を見開いた。低い位置にある異国の姫君の柳眉は、険しく寄せられている。それは悲嘆や絶望とはまるで無縁で、闘志と言ってもいいほどの熱いものを見るものに覚えさせた。
「それで」
声は決して大きくはない。しかし、それは闇を確実に貫いて、真っ直ぐにロードライトの中に飛びこんできた。
「手遅れだったと、諦めるのか? ミランダ殿の気持ちを確かめたわけでも、充分に話し合ったわけでもないうちから、妹を見殺しにする兄なのか、お前は」
「……」
「その程度のことを思惑通りに運ぶことも出来ず、家臣の進言を鵜呑みにして従うだけしか能がないのか、この国が大切に護っている貴石とやらは」
張られた頬が、熱を持っている。動けずにいるロードライトを見て、茉莉はふんと鼻を鳴らした。
「お前がここで固まっているのは自由だが、私は動くぞ。このままでは寝覚めが悪いし、ミランダ殿は私にも良くしてくれた。受けた恩は返すのが私の主義だ」
帯をきゅっと結びなおし、茉莉はロードライトから離れた。気合を入れるためか、髪留めまでいじっている。髪の具合を確かめ、体をひねって帯の具合を確かめてから、茉莉はよし、と気合を入れた。
扉に手をかけて、茉莉はロードライトのほうを振り返った。
「どうする」
扉に手をかけていても、茉莉は彼を置いて、一人で行ってしまおうとはしていなかった。こちらを向いて、じっとロードライトの返事を待っている。
「……僕は」
一回言葉を切って、ロードライトは両の拳をぎゅっと握り締めた。
「まだ、ミランダに『兄さん』って呼んでもらってないんだ。ミランダが僕の迷惑になるから見殺しにしてくれと言われたって、納得できない。……僕が僕のやり方で、ミランダに護ってもらった分を返すつもりでいることも、言ってない」
誰が諦めてやるものか。
確かに言葉が紡がれる。
異国の巫女姫が、その日初めての笑みを顔に浮かべた。
王の血筋の正統だなんだと抜かしておいて、結局は過去の栄光を取り戻したいだけなのだなと、ミランダは冷めた心地で考えていた。
「その場」に集まっている貴族の数は消して多くはない。過去に不祥事を起こして爵位を剥奪され、王都から追われたもの。「呪い」の件が明らかになり、茉莉が確かにクラルテに必要とされていると分かった後でも、「妃を迎えることに賛成する一派」に転身し損ねたもの。
クラルテ側で集まっているのは、そういった、「機を逃した」者達ばかりだった。
当然と言えば当然だ。
茉莉とロードライトの血筋が混ざり合うことがなければ、クラルテの富は大半が失われるも同然なのだから、出世の見込みがある貴族達が、それに反対するはずがないのだ。
(そして、東照側からは、巫女姫が人間に嫁ぐ事を善しとしない、東照人達、か……)
わずかに混じる、象牙色の肌と黒い髪を持つ人間達を見やって、ミランダは小さく息をついた。
ここがどこなのか、ミランダは知らない。完全に信用されてはいないのだろう。かくまわれていた場所で目隠しをされ、馬車に乗せられ、そのまま先導されて来た場所は、どこかの酒蔵を改造したと思しき、暗い地下室だった。集まっている面々も、それぞれに仮面をつけている。それでも、声の質からかなりの人間を推測できたが、何者かミランダにも分からない人物が、数人は残っていた。
おそらくここのリーダー格なのであろうマイルズは、仮面をつけていなかった。
「――我々の意志に応え、正統なる王家の血を受け継ぐ王女殿下が仲間に加わってくださることになりました」
女物の衣装、動きを拘束するコルセット、調えられた髪。いくら飾り立てようと、見劣りするのは否めないのに、と思いながら、ミランダは苦く笑んで見せた。
ほう、と感嘆の声が、そこここから上がる。闇に半分沈んだ広間から聞こえてくるさざめくような声は、魔物が獲物を誘い出す甘いささやきを連想させた。
「これはこれは。思わぬ可憐な花を、我々は見落としていたのですな」
「さすがは、異国の女などに惑わされず、我々の手をお取りくださった方だ。ダリア女王の真の遺志を受け継がれる方にふさわしい清純さをお持ちでいらっしゃる」
馬鹿な事を、と笑いたくなる。王に求められるのは、そのような資質ではないのに。
「旗を、我々は手に入れました。しかし、この旗は今は使えません。この方が、穢れた貴石……いや、脈石に刃を向ければ、その心の臓は凍りつき、動きを止めると言う、忌々しい拘束がかけられている」
ロードライトを侮辱する言葉を口にしながら、マイルズはミランダの表情をちらちらと横目で確認していた。ミランダは笑みを作ったまま、その話をあくまで穏やかに聞いている。表情を取り繕うことくらい、わけはない。これで騙せるとも思っていなかったが、若干マイルズの心証は良くなったらしかった。口許に刻まれた歪んだ笑みが、艶のあるものに変わった。赤々とした色を宿した唇が、てらりと光をはじいた。
「動くのは、我々にお任せ下さい。ミランダ様。貴女は全てが終わった後に、その血を継ぐ唯一の後継者として、我々に囚われていてくださればいいのです」
けっして信用してはいないのだ――と、その目が語っていた。
実際、とミランダは思う。彼の手には、毒が塗られた刃が握られている。今、その刃はミランダの首の後ろに突きつけられていた。先ほど出された食事にも、恐らくはしびれ薬が仕込まれていたはずだ。
「ミランダ様。非常に残念なのですが、我々は貴女を完全に信用してはいないのです」
大仰な仕草で立ち上がったのは、白い巻き毛のカツラをつけた、時代錯誤な格好をした男だった。ダリアスと繋がっていたかどで、国外追放を申し渡された男爵だと、ミランダはすぐあたりをつけた。
「左様。何せ貴女は、長いこと貴石を守るのが当然だと教えられて育ってこられた方だ。目を覚ましてくださったとはいえ、長年の洗脳から完全に解かれたという証を、示していただきたい」
重々しく頷いたのは、領民から不当に税を搾取し、いわれのない罪で娯楽のように民を処刑していた男だった。
ゴトリ、と重い音がして、扉と思しきものが開かれた。仮面をつけた小姓が、剣を持って、部屋の中に入ってくる。
ロードライト・ガーネットが柄の部分にはめ込まれた、細身の剣。王子が即位前に一の騎士のみに授けることが許される、赤紫色の柘榴石。
「こちらの短剣には、術がかけられています。今のあなたの力でも、簡単にこの石を砕くことができる」
耳元で囁かれた声は、ぞっとするほどなまめかしかった。舌を這わされたような心地になって、ミランダはおぞましさをこらえる為に、きゅっと唇を引き結んだ。
「一の騎士の証として、下げ渡されたそれを。今、この場で砕いていただきたい。あの脈石との、完全な決別の証として」
コトリ、と音がして、騎士の剣と、鈍く光を放つ短剣が、ミランダの目の前に置かれた。
(これ以降は、きっと私はただ拘束されるだけだ……)
この馬鹿らしい反逆軍は、行動に出たところですぐに叩き潰されるだろう。双方の兵力の差を、ミランダは正確に把握していた。反逆の兆しがあったもの達と、ここに揃っている顔ぶれは、ほぼ一致している。だとすればその推測は間違っていないことになる。
この程度で揺らぐほど、クラルテという国はもろくはないはずだ。
けれど、そのために犠牲になるものは、必ず出るのだ。手先として使われるのはいつも力を持たない民で、彼らは別段ロードライトに反逆心を持っているわけではない。
仕込まれたしびれ薬は、ミランダには全く効いていない。マイルズは、一の騎士の特性を、完全には理解していなかったのだろう。
すっ、と息をついて、ミランダは剣の柄を掴んだ。
「命、太子殿」
扉を開いたその先に、異国の将軍の姿を認め、ロードライトは足を止めた。後ろから進み出てきた茉莉が、それが当然だとでも言わんばかりの顔をして、軍装に身を包んだ壮年の男を上から下までじっくりと眺める。
「相変わらず察しがいいな、誠」
「突拍子もない事をなされるお方に、散々振り回されてきましたからな」
何をしに行くかも分かっているかのようなやり取りに、茉莉がくっと喉の奥で笑い声をたてた。そのまま左手を腰に置き、まっすぐに胸を張って、しっかりとかつての家臣を見上げる。
「邪魔立てするか?」
「するつもりならば最初からこのような格好では参りません。……我々が行わなくてはいけない後始末もあるようですしな。お供させていただきます」
誠が身動きをすると、剣帯につけられた色石がジャラリと重々しい音を立てた。
「ミコト、ミランダの居場所が分かるのかい」
ロードライトの問いかけに、茉莉は黙ってロードライトの額に人差し指を突きつけた。
「お前はミランダ殿の主なのだろう。手伝ってやるから自分で探せ」
は、と目を丸くしたロードライトを人差し指で小突いて、茉莉は右手をそのままパチンと鳴らした。
つむじ風が巻き起こり、光の陣が、三人の目の前に現れた。誠よりもなお大きい真円の陣は、白く淡く光ったかと思うと、その場を水面のようにぐにゃりと歪ませた。
「……え」
「あら?」
騎士服を着てはいるものの、無精ひげをうっすら生やし、お世辞にも整った格好をしているとはいえないカーティス。それとは対照的に、神殿服をきっちり着こなして、書物を手にしていたカレン。唐突に王子の私室の前に現れた二人は一瞬ぽかんとした後で互いの顔を見やり、ついで茉莉とロードライト、誠の方に振り返った。
一気に二人の人間を召喚してのけた茉莉は、そのまま両手をばっと広げ、片膝を床につけた。ふわりと茉莉の黒髪が広がり、袖が宙に浮かび上がる。何をする気かいち早く察した誠が、青くなって制止の声を上げた。
「み、命、この場でそれは……!!」
前に突き出された手は、空しく宙をかくばかりだった。
「水廉!!」
短く呼ばれたのは、茉莉が使役している式の片割れの名前だ。あの男の方かと思い返したロードライトを襲ったのは、先ほどとは比べ物にならない突風だった。長く伸びている廊下の窓と言う窓の硝子が、今にも硝子を割ってしまいそうな勢いでひとりでに開く。
ばたばたとカーテンがはためく音が聞こえなくなってから、ロードライトはやっと顔をかばっていた腕をのけた。前方から差し込んでくる青い光に気づいて顔を上げ、彼はそのまま硬直する羽目になった。
「……えーと」
小柄な茉莉が、妖精に見えてしまうほど大きな、……蛇、のような体に、いかつい顔つきをした、見たこともない生き物が、そこに現れていた。体が大きすぎるのか、廊下には顔だけしか入り込んでおらず、長い胴は城をぐるりと取り囲んでいるらしかった。
「……命……」
横で誠がうんざりしたような声を上げる。呼び出した生き物の鼻に手を置いて、茉莉は首をかしげ、悪びれずに微笑んだ。
「『殴り込みをかけるときはハッタリと見掛け倒しがとっても重要』なのだろう?」
「素直でいっらしゃるのは結構ですが、あの熱血単純女王と暴走宰相の言を全て真に受けないでください……。いらんところまで似る必要はないんです」
「そうか? 真理だと思うが。それにこちらの方が、馬よりもはるかに早い」
ざわざわと、人が騒いでいる声が聞こえてくる。
気を失ってしまっている衛兵を見、ロードライトは誰よりも早く我に帰った。
「何でもいいから、とにかく行こう。今ここでつかまると動けなくなる。それに乗っていいの?」
こくりと頷いて、茉莉がその生き物の角に手をかけ、ひょいと身軽にその背に飛び乗った。見よう見まねでロードライトも鱗に足をかけ、角を持ってよじ登り、茉莉の後ろに恐る恐る座ってみる。
鬣がふわふわと体を覆っていて、座り心地は案外悪くない。
「ミランダ殿を迎えに行く。探しているのだろう。ついて来たいのなら来い」
茉莉の言葉に、目の前の非常識な事態が吹っ飛んだらしい。カーティスがまず動き、身軽にロードライトの後ろに飛び乗った。ついでカレンがきゅっと表情を引き締め、カーティスの手を取って、その前に体を沈めた。
「お前は後ろを」
短い命令の言葉を発し、茉莉は誠を残して、ぽん、と生き物の背を叩いた。
夜気が体をなぶって後ろに流れていく。
一気に上空まで舞い上がり、下に現れた光景に、まずカレンが歓声を上げた。
闇に塗りつぶされた街の中に、灯が星のようにポツリポツリと輝いている。光が途切れている帯のような部分が、月光を反射して淡く輝く帯を形作っていた。
「……シキっていうのは、元々こういうものなの?」
風が耳元で渦を巻いている。それに負けないように、ロードライトが大声で尋ねると、茉莉が頷くことでそれを肯定した。
「私の式は、煉雀と龍……火と水の象徴だ。全てを浄化し否応なく無に帰すものと、森を育て、育み、流れていくものだな」
「龍?」
「ドラゴン、というのか、こちらでは」
ロードライトの頭に浮かんだのは、ずんぐりとした体と、大きな翼を持つ、大きなトカゲのような生き物だった。言われてみれば顔の造作などに似ている部分があるような気がするが、この生き物は自分が知っている「ドラゴン」とは、明らかに種が違うように思えた。
「ロード、ミランダ殿はお前の名を持つ石を常に持ち歩いているのだったな」
顔を半分だけロードライトの方に向け、邪魔そうに髪を抑えながら、茉莉が尋ねる。
「一の騎士の証のことだね? あれも一緒に消えていたと言うから、多分ミランダの傍に、今もあるのだとは思うけど」
「探せ」
「へっ!?」
何を言い出すのだと言わんばかりに目をむいたロードライトの鼻先に、茉莉はびしりと人差し指をつきつけた。
「ミランダ殿が今でもお前を呼んでいるなら、石はその念をお前に送っているはずだ。探されたくないと思っている人間は、召喚術で呼び寄せることは出来ないし、気配も辿れないんだ。私には彼女の足跡を掴むことはできない。兄なら兄らしく、お前が探し当てて見せろ」
「ミランダが持っているロードライト・ガーネットの波動でしたら、ある程度は掴めております!!」
勢いづいて話に割り込んできたのはカレンだった。小さな柘榴石の欠片を握りこんで、真剣な顔でロードライトを見上げ、カレンは西の方角を指差した。
「――西です。それ以上は、分からなかったのですけれど。殿下、絶対に探し当ててくださいませ。……あれだけ兄貴面しておいて、肝心なところで見つけられないなどという醜態をさらすんじゃありませんわよっ!!」
最後の方では涙を目に溜めて、カレンはロードライトを怒鳴りつけた。化粧で入念に隠されてはいたが、彼女の両目の下にくまが出来ていることに、ロードライトはその時初めて気がついた。
「……お願いします」
自分では駄目なのだという失望と諦めと――それでも、ミランダが見つかるのならという、複雑なものが混じりあったカーティスの瞳が、ロードライトをまっすぐに見つめてから、そっと伏せられた。
胸に広がる温かなものに、ロードライトは目元を和ませた。
「これだけの人間に必要とされているのに、勝手に考え込んで勝手に消えちゃったお姫様は、僕よりもよほどわがままだねぇ。そう思わないか」
――どこにいる。お前は生きて、国に必要とされる人間だ。
くっ、と引っ張られるような感覚が、ロードライトの中に浮かび上がった。子供が袖を引いているような心地だ。だが、茉莉も、カレンも、彼の袖に手を置いてはいない。
「こっちだ」
ロードライトが指差した方向に、龍が頭の先を向けた。くん、と方向が変わり、カレンが悲鳴をあげてロードライトにしがみついてきた。
引っ張られる感覚が強くなる。間違いないと確信して、ロードライトはにっと口の端を吊り上げた。