第六章 来訪者の献言 4
女王の聖誕祭が終われば、クラルテ全体が新年の準備に慌しくなる。聖誕祭を家族で静かに過ごす分、新年は陽気に騒ぎ立てるのがこの国の慣習だ。
その時期に東照からの使節が、華やかな行列を作って首都に入ってくれば、騒がしさはそれに輪をかけたものになる。方向こそ違うものの、クラルテと蒼麗は互いに洗練された文化を持つ先進国と認知されている国だ。ライバル意識半分、ものめずらしさ半分で、街道には行列を見ようとする人々がどっと詰めかける。
耳慣れない楽の音、鮮やかな色使い、珍しい装飾を施された輿。皇帝の代替わりを伝える使節だけあって、その規模や華やかさは、見物に来た聴衆を充分満足させるものであった。どんな染料を使っているのだろう。使節が身につけている衣服は色使いも鮮やかで、異国の空気を人々に運んできてくれる。盛装した騎士達と楽隊が、高らかに歓迎の音楽を演奏しながら、城門を解放する。
粛々と進む列を、国民は熱狂しながら見送った。
長い口上、皇帝からの文、献上品の説明。新年の儀礼前についた使節は危なげなく「挨拶」を続けている。流暢なクラルテ語で述べられる挨拶は、耳に心地よいが長すぎるとさすがに退屈にも感じてくる。
椅子に座って様子を見守りながら、ロードライトはこみあげてくるあくびをひそかにかみ殺していた。異国の使節が控える謁見室は、クラルテの衣装と異国の衣装が混ざり合い、いつもとは違う様相を呈している。武器こそ身につけてはいないものの、大陸の武官の格好はこちらの騎士のものとはかなり違う。
型どおりの挨拶を済ませ、国王からねぎらいの言葉を送られると、蒼麗の使節はひざまづいた格好のまま、両手を胸の前で組み合わせて、深く頭を垂れた。
蒼麗側の挨拶が済んだ後で、促されて、蒼麗の一団とは違った雰囲気の男性が、前に進み出てきた。
(……ん)
体格のいい、髭を生やした中年の男性だ。眼光は鋭く、荒野に佇む岩の様な迫力があった。
衣装の造りが、茉莉が身につけている服を思い起こさせた。無論、男性が身につけているものは見苦しくない程度に装飾が施され、灰色の布地に銀糸で細かい刺繍が施されている。だが、その形は確かに茉莉のものと似ていて、冠の形も蒼麗のものとは異なっていた。
「噂にはお聞き及びかと存じますが、東照国よりの客人です。正式な使節を後々送られる予定ではあるそうですが、丁度いい機会であったために一足先にご挨拶を、と希望されましたので」
蒼麗の使節は優しげな面立ちの文官だった。蒼麗の男性と並ぶと、彼の線の細さが一層強調される。その場に膝をついて、男は深く頭を垂れた。
『遠路をはるばる、よくお越しくださった』
「はっ。お目にかかることが出来、光栄にございます」
多少怪しいところはあったものの、聞き取りやすい、短いクラルテ語で返事があった。道中でクラルテ語を学んでいたらしい。国王は微笑んで、鷹揚に頷いた。
「面を上げられよ。東照の客人に、王子が世話になった。我々は貴方がたを歓迎したく思っている」
「さようでございますか」
低い声は朗々と響き、先ほどの文官とは違った意味で耳に心地よく感じた。大柄な偉丈夫という外見とは似合わないすべらかな動きで、男は膝立ちになって国王を見上げた。
「クラルテは、東照と交易を持ちたいと望んでいるのだが、東照側にその意志はあると見てもよろしいのだろうか?」
「ありがたいお話です。わが国の王もきっと喜ばれることでしょう」
物珍しげな視線に晒されても、男はびくともしない。その態度に好感を覚え、国王は満足げに頷いて、ロードライトに目を向けた。
ロードライトは椅子から立ち上がって段を降り、将軍の前に進み出た。立ち上がるように促され、男は深く一礼してから機敏に立ち上がった。
「ロードライト・シン・レーベン・クラルテと申します。以後お見知りおきを」
「ご丁寧に、痛み入ります。太子殿」
差し出された手を握られる。肉の厚い、ごつごつした手だ。
「前述の通り、私は東照の方に助けていただいたことがあります。東照の国情なども是非お聞かせ願いたい」
「よろこんで」
日に焼けた顔に柔和な表情を浮かべて、男は王子の申し出を了承した。歴戦の兵といった感じだ。ユーロパと剣で戦ったらどちらが勝つのだろう。見てみたいと思いながら、ロードライトは客人を笑顔で見て、自分の席に戻った。
「正式な使節ではありませんのでさほどの量はないのですが、わが国からも献上品を持参いたしております。よろしければ後ほど、お納めいただきたく存じます」
「ありがたく」
簡素なやり取りが交わされ、東照の客人との初の正式な面会は幕を下ろした。
「太子殿」
廊下で呼び止められ、ミランダと執務室に向かっていたロードライトは足を止めた。
「大将軍殿。いかがなさいましたか」
供も連れずに、将軍は大またで歩み寄ってきて、ロードライトの目の前で立ち止まった。少々逡巡するような素振りを見せた後で、男は口をゆっくり開いた。
「失礼なことを申し上げるかもしれないのですが……、太子殿は、何かわが国の術具のようなものを身につけてはいらっしゃらないでしょうか」
術具、と聞かれ、ロードライトは内心で感心する。分かるものらしい。
「ええ。先ほど申し上げました客人からいただいたものを今身につけておりますが」
失礼、と断ってから、ロードライトは胸元を探って、金色の鎖を結びつけた小枝を取り出した。
「これのことですか?」
一見すれば何の変哲もない小枝だ。何か強い力を秘めているようにも感じられない。王子が身につけるものとしてふさわしい装飾品にも見えない。
だが、それを見せられた瞬間に、男の顔色が傍目にもはっきりと分かるほどに変わった。彼の変化を素早く感じ取ったミランダが、目線を鋭くして剣の柄に手をかけ、半歩前に踏み出した。
「将軍殿、何か」
低められたミランダの声に、男ははっと我に帰ったようだった。だが表情には穏やかさが戻っていない。険しい顔のまま、男はロードライトを真っ直ぐに見た。
「客人から譲られたものだ、と申されましたね。太子殿、失礼ですがその客人の名前などはご存知ありませんか」
「……ミコト、と」
男の瞳が大きく見開かれる。ミランダがちらりとロードライトに視線を走らせる。どうするか、と尋ねているのだ。男の顔から、先ほどまで見られていた明るさや余裕が失われている。身を乗り出すようにして、男は早口でまくし立てた。
「太子殿、そのミコトと言う人物は――」
「それは間違いなく私が私の意志でそこの王子にやったものだ」
雷に打たれたように、と形容するのが一番しっくりくるだろう唐突さで、男が硬直し、弾かれたように声のした方に向き直った。
いつも通りの衣装を身につけた茉莉が、いつも通りの足取りでロードライト達の方に向かってくるところだった。中年の、それなりの地位にいる男が、小娘の出現に明らかに狼狽した。
「ミコト」
知り合いなのだろうか。戸惑いながら名前を呼ぶロードライトの声に、男の目がきっと鋭くなった。
剣呑な気配を感じ取ったミランダが、とっさにロードライトの前面に回りこんで剣を構える。
男の唇が素早く動き、左手で素早く印が結ばれる。風圧が、ロードライトたちを圧倒する。両腕で前を庇って両足に力を入れても踏みとどまりきれずに、数人が床に尻餅をついた。
暖色の炎が渦となって、嘗めるように茉莉に襲い掛かったのだ。
「何を――」
彼女の姿が炎に包まれ、ロードライトが短く叫び声をあげる。茉莉はそれを避けようともしなかった。ミランダが呆然と炎の向かった方向を見る。周囲の人間にざわめきが広がる中で、ふいに空気にすっと水の匂いが紛れ込んだ。
「幻の炎だ。心配には及ばん」
涼やかな声が聞こえ、炎が渦を巻いて収束していく。光が去ったそのあとには、橙色の光の珠を指先でくるくると弄びながら、茉莉が渋い顔で立っていた。どこも焼け焦げた様子はないし、驚いてもいない。
「防ぎきれなければ、正確に目標の人物だけを灰にいたしますがな。……ふむ」
見る間に落ち着きを取り戻し、男はあごひげを撫でた。
「本物のようですな」
言うが早いか、男は茉莉が歩みよってくる方向に膝をつき、地面に頭が触れんばかりの位置まで頭を下げた。事態を飲み込めず、ロードライトを取り囲んでいた騎士や官僚達の間でのどよめきが、さらに激しいものになる。
男のすぐ前で足を止めると、茉莉は眉間に思い切り皺を寄せた。静かな声は、今まで感じたことのない感情――怒り、を含んでいた。
「お前の今の主は、私ではないだろう。その儀礼を私に向かって行うということは、現東照国王を主として認めていないという意志の現われと見るぞ」
「だとしたら、どうなされますか」
「そうだな。東照に叛意ありと見なし、この場で息の根を止めてやろうか」
「ミコト!?」
物騒な事を言い出す茉莉に、ロードライトが焦って声をかける。茉莉の態度に、しかし男は何故か緊張感を緩め、その場から立ち上がった。
「両膝をつく儀礼は、廃止されましたよ。今、王に敬意を示す時の礼は、片膝をつくものです」
茉莉が男をにらみすえた。
「どういうことだ」
「アカリ様のご意向です。自分は人の王であるから、民と同じ存在である。だから神樹のいとし子と同じ礼は必要ないと。東照人がこの礼を送る方は、今でも貴女お一人ですよ」
虚をつかれたふうに、茉莉が動きを止めた。将軍は先ほどとは打って変わって、慈愛に満ちた、父親のような目で茉莉を見下ろしている。唇を数回小さく開き、何かを言おうとして――言葉が見つからなかったらしい。結局それは声にはならなかった。
やがて茉莉は大きく息を吐いて、こめかみに人差し指を当てた。剣呑さを隠さずに、じろりと将軍をねめつける。
「……国を去ったものに、敬意を払わせてどうする」
「あの方が単純熱血馬鹿なのは、命が一番よくご存知でしょう」
「ああ分かっている。一度言い出したらきかない上に極度のお人よしで冷酷さが足りないんだあの馬鹿は。何のために人が国を出たと思っている。翔も翔だ。横にいながらどうして愚行を止めないんだ」
声が荒げられている。何かを振り切ろうとするようにまくしたてる茉莉が、ひどく儚げなものに思えて、ロードライトは思わず一歩彼女の方に足を踏み出しかけた。
「翔様の意志でもありましたよ。命を忘れる必要はないとおっしゃって」
「……っ」
茉莉の表情が揺れる。さっと頬に朱がのぼり、薄い着物の生地を細い両手の指がぎゅっと掴んだ。
「東照の民全ての意志を、国王陛下と宰相は汲んだのですよ。民はまだ、貴女を慕っております」
静かに言われた言葉に、茉莉は今にも泣き出しそうな、怒り出しそうな、形容しがたい顔になった。
「……馬鹿だな」
先ほどまでの覇気が完全に失われた声が、ぽつりと廊下に落ちた。
「馬鹿だ。私はもう、民の期待に添えるような働きは出来ないというのに。そんな奴を慕って、何の得があるんだ……」
ですから、と将軍が続けようとした時に、パタパタという軽い足音が近づいてきた。
「誠様、今術式をお使いになられませんでし……」
甲高い女性の声に、茉莉がぎくりと動きを止める。
「蕾」
華やかな衣を身にまとった、黒髪の女性が、少し離れた場所で両手を口にやって立ち尽くしていた。世話役の女官らしいと、ロードライトたちは悟る。つぼみ、と呼ばれた女性は、みるみるうちに両目に涙を溜めて、感極まった様子で茉莉に駆け寄った。
「……命!!」
抱きついてきた女性を慌てて受け止め、茉莉は気まずげに将軍に目をやった。蕾はあたりをはばからずに肩を震わせて泣きはじめた。嗚咽に混じって東照語と思しき単語がいくつもこぼれ出る。何を言っているのかは分からなかったが、なだめにかかろうとしている茉莉の様子からして、恨み言や抗議の類なのであろうことは推測できた。
「その涙も、馬鹿げているとおっしゃいますか? 何も言わずに国を離れられて、嘆き悲しんだものは蕾だけではなかったのですよ」
茉莉は観念した様子で息を吐き、悪かったとつぶやいた。
「……知り合いなの?」
やっとのことでロードライトが尋ねると、茉莉はうん、と頷いた。
「蕾は、東照で私の世話をしてくれた女官で、誠……そこの将軍は」
「命の警護を任されていたものです。……やはりあれは、神樹の枝で間違いないのですね。心臓が止まるかと思いましたぞ」
渋い顔をして腕を組んで、将軍はぼそりと漏らす。
「やっぱりミコトは平民じゃなかったのか」
将軍が仕えていた人物を、普通平民とは言わない。なんで言ってくれなかったんだと恨みを込めてロードライトが尋ねると、茉莉はまた大きく溜め息をついた。
「今は平民だ。官位もなければ部下もいない。帰る家も戸籍もないんだぞ」
「冗談も休み休みおっしゃってください。貴女が平民の枠におさまるなどど思われてはこちらが困ります。東照はどんな化け物国になりますか。その様子では、平民だと言ってご自分のことは何も話されていないのですな」
茉莉の溜め息を吹き飛ばすほどの盛大な溜め息を吐いて、将軍はロードライトに向き直った。値踏みされるような視線を露骨に向けられて、ロードライトはたじろぐ。なんだか娘が連れてきた男を鑑定している父親を目の前にしているような気分になる。
「この方は、千年のながきに渡り、東照の全ての命をこの世に迎え、あの世に送る樹の守り人であられた一族の、最後の末裔でいらっしゃいます。東照人にとっては、神にも等しい方です。太子殿が身につけておられる枝は、天に消えた樹の、最後のひとかけら。東照人が最大限に敬意を払う存在の、忘れ形見です」
茉莉は確かに平民ではなかった。だが、告げられた事実は予測をはるかに上回るほど途方もないもので、ロードライトは呆然として、小柄な少女をみつめた。
「命」というのは人の名前ではなく、「神樹の番人」につけられる尊称、つまり「王」や「大臣」などど同じく役職を指すものなのだと茉莉は告げた。万一自分が王宮から去った後で、東照の人間がロードライトの所有している枝に気づいた時に、「命にもらった」と言えば通じるはずだと考え、そう呼ぶように指示を出したのだ。
「東照は、国の周囲を森に囲まれている。何者も入ることが許されず、何者も出ることが出来ない。東の果てにあるから海路を使えば入れないことはない。だが潮の流れが変わっていて、たどり着くのは難破した船の残骸ばかりだった」
自分の意志で鎖国していたわけではないのだと、茉莉は続ける。
「神樹、と呼ばれる一本の樹が、国の中心にある森にそびえている。東照の人間の魂は、神樹の根から集められて国に散らばり、死したものはまた神樹を通じて使者の国に旅立って行く。私はその神樹と共にあることを定められた身だった」
「『だった』?」
「二年、いや、もう三年になるか……東照で内乱が起こったというのは知っているな?それで王権が変わり、東照は国交を開くようになった」
有名な話だ。ロードライトが頷くと、茉莉は背中を預けたテラスの手すりに、両腕を回して軽く体を揺らした。黒い髪が宙に流れ、月光を艶やかに弾く。
「あれは、正確には、神樹が寿命を迎えたことによる変革だ。神樹が消えた時に、東照を囲む森からもまた侵入者を寄せ付けない霧が綺麗に晴れた。入りにくいことは確かだが、東照は外国に出るために森を拓く事ができるようになったんだ。……恐らく、結界と神樹は同じものだったのだろう」
「寿命」
「そう。魂を生み出し、送り続けていた樹も、寿命を迎えたんだ。神樹もこの国の呪いと同じように、あるいは戦を恐れた誰かが国を支える為の仕組みとして作り上げた壮大な術式だったのかもしれないな。時期が来れば、どんなに強固な術も、いずれはその効力を喪うものだ。……番人以外に入り込めるはずのない、神樹の存在する庭森に迷い込んできた奴がいて――。神樹の寿命が近い事を感じ取っていた私は、そいつを新しい王にするように働きかけたんだ。灯、というんだが……異質な力を持っていて、容姿も東照の人間とは違っていて。変革を望まれて生まれてきたのだ、と私にはすぐ分かったから」
グラスに入ったカクテルを口に運んで、ロードライトはふうんと相槌を打った。お伽話の中の国のようだ。森に守られ、樹に命が還って行く。それを見守っていた娘が、今自分のすぐ横にいるのだという。まるで現実感がない。
「神樹の番人は、人であって人ではないと言われる。普通の人間と同じように老いて寿命を迎えこそするが、私は親を持っていない」
「親を、持たない……?」
「そうだ。神樹の傍にあり、言葉を発することが出来ない樹の『声を聴く者』は親を持たない。番人が死んだその日に、次代の番人は神樹の樹の根元で産声を上げる。……神樹の分身のようなものなのだろう、恐らくは。神樹の傍にあった十五年、私は水以外のものを口にしたことがなかったし、空腹というものも知らなかった。それで平気だったんだ」
実際、神樹を送ってからしばらくは「空腹」というものが何かわからずに、わからないまま倒れたりして周囲を慌てさせたのだと言って、茉莉は頬を人差し指で軽くひっかいた。『テーブルマナーだけが変に不器用』だった理由を知って、ロードライトは苦笑した。十五年食事と無縁だったのならば、無理もない話だ。
「それで、神樹を見送って。東照の民には敬われていたのに、どうして茉莉は国を出たんだい」
「私を新たな王に据えようという動きがあったからだ。千年以上の長きにわたって、神樹は東照の人間の始源であり終わりだった。……私は、その枝のようなものだったんだ」
ロードライトの胸元で揺れている木の枝を、茉莉の指がすっと指し示した。
「東照は神樹を捨て、違う方向へと歩き始めた。王となるにふさわしいのは東照の民、変革の申し子であって、神樹の忘れ形見ではない。神樹という親から完全に東照をひとり立ちさせるために、私は国を出た」
荒唐無稽な話だろう。そう茉莉は結んで、手すりから勢いをつけて体を起こした。薄い衣に月光が宿り、不規則な光の畝を作り出している。
「それを話さなかったのは、東照の人にかぎつけられて連れ戻されるかもしれないと思ったから?」
「それもあったが、話したところで信憑性にかけることくらい、いくら私でも分かる。面倒だというのが一番しっくり来るな。それに」
茉莉が、テラスにしつらえられたテーブルから自分のグラスを取り上げて、ゆっくりと口に運ぶ。飴色の液体が茉莉の唇に触れ、白い喉がこくりと上下する。
「……神樹が天に還った時に、『神樹の番人』もまた消えたんだ。ここにいるのは食事を普通に取る、ただの『東照の術者』だ。身分をわきまえなさいといわれたり、蔑まれたりしたのは新鮮だったな。いい気はしなかったが。ロード」
漆黒の瞳が、ロードライトの青い目を捉える。
「将軍や蕾や……他の連中と再会して、私は間違いに気づいた。彼らは新しい王を抱いてもなお、神樹への信仰を捨てていない。新たな王への敬意とは全く別の次元で、神樹は東照人の中で特別な存在らしい。……私の肩にはまだ、東照の人間の憧憬や信仰が乗っかっている。私を妻に迎えるというのは、案外面倒なことかもしれんぞ。普通のやり方で子供を設けられるかどうかも、私には分からない。目新しさだけで迎えるには、代償が大きすぎる」
「茉莉は?」
「ん?」
「茉莉は、嫌なの。その、妃になるのは」
グラスをテーブルに戻して、茉莉はさあなと言って首をかしげた。
「何せ私は十五年、話し相手のほとんどが死した魂だったから。たまに外国の人間の魂も迷い込んできたせいで言葉や知識は無駄に覚えたが、恋だの愛だのはまだよく分からないんだ。抱きしめられると心地がいいとは思うが……。要するにアレだ、感情面では子供なんだ、まだ」
子供ではありえない思慮の深さと憂いを刻んで。自分自身の事を語る茉莉は、ひどく自信なさげで弱々しく見えた。
無言でテーブルに戻り、茉莉のグラスの横にグラスを並べると、ロードライトは茉莉の腰に腕を回した。ふわりと茉莉の足が宙に浮き、彼女の重さがロードライトの腕にかかる。……軽くて温かい。人外の存在だと告げられても、この重さと温かさをはっきり感じ取れる限り、きっと自分は彼女を神だとは思えない。違う意味での女神、には見えるけれども。
「……ロード?」
「茉莉の肩にかかっているものとよく似たものを、僕も多分背負ってる」
民の信仰と、期待を。
「それを任されることはとても誇らしいことではあるけど……だけど、時々重いと感じないか」
けぶるような金色の髪が、月光の中で輝いている。
茉莉は無言で、ロードライトをじっと見つめた。
「逃げられない、とは感じたな。今の今まで、逃げていたことにすら気がつかなかったが。ああ、こういうものなのかと」
「そう、逃げられないんだ。他のものと違って、失敗は許されない。代わりはいない。いつもは感じないんだけど、たまにね。目の前で動いている人間すべてが、透明な一枚の板の向こう側にいるような気分になるんだ。茉莉が森の中で一人だったみたいに」
胸の中に時折ふっと浮かび上がるものを口に出して――出して初めて、ロードライトはその浮かび上がるものの名前を自覚した。
「寂しくなるんだ。時々、どうしようもないくらいに」
唇が、震えた。静かな目でロードライトを見下ろし、茉莉が指で彼の輪郭をゆっくりたどる。
「弱気だな。いつものふてぶてしい態度はどうした」
「いつもふてぶてしくいられるほど、僕は開き直った人間じゃない」
きっと同じ感情を、茉莉も知っているから。
「傍に、いてくれないか」
「……面倒ごとが増えるぞ。下手に『平民の娘』を妃にするより、ある意味では厄介かもしれない」
「それをなんとか出来ないほど、僕は無能ではないつもりだ」
泣きそうになった茉莉の顔を見たときに、彼女を傍で支えたいと思った。あれほど彼女の感情を揺さぶれる存在に、自分もなることができたらと。
ああ、これが恋なのかと、初めてそう思った。
自分と同じものを見出したから、茉莉に惹かれたのだ。その態度に、振る舞いに、抑えきれずにこぼれた、故郷を懐かしむ感情に。
「東照の人には悪いけど。僕は、君が神様だとは思えないよ。同じ苦しみを知ってる、人間の女の子にしか見えない。軽くて温かくて、優しくて面白くて」
冷たい風が、火照った頬に心地いい。
「傍に行きたい」
「……充分傍にいると思うが」
「いや、まだ遠い」
囁くのと時をほぼ同じくして、ロードライトの金色の髪が、茉莉の漆黒の髪の中に沈む。鼻先と鼻先が触れ合う至近距離で、半分目を伏せて、ロードライトは吐息だけで繰り返した。
「傍に行っていい?」
風が吹く。流れる漆黒に、淡い金色が混ざる。
やがて互いの顔が離れると、ロードライトは腕に茉莉を閉じ込めたまま、彼女を床に下ろした。
「妙だな」
「うん?」
「冬が近いはずなのに、熱い」
ロードライトの胸に、ふわりと暖かなものが広がる。
ちらりと笑うと、茉莉は、頬をわずかに紅潮させて、視線をロードライトから外した。
「傍にいてくれ。泣く顔も笑う顔も、寂しさも嬉しさも、幸せも不幸も、全部見せて、感じさせて欲しい」
指に指を絡めて、茉莉の爪の先に唇を寄せる。ぴくり、と茉莉が体を萎縮させるのがわかる。
「どうかした?」
上目遣いに見上げると、茉莉は首をゆっくり傾けた。
「変な感じだ。胸がざわざわして、背筋に震えが来る」
「そういう気持ちになったの、初めて?」
「ああ」
照れる、求めるという概念を、この姫君はそもそも知らないらしい。感情を持て余して戸惑っている茉莉に、ロードライトは笑みを一層深くする。
「楽しいのか?」
「嬉しいんだ。茉莉。僕は今、僕が王子だってことも君が東照で神のようにあがめられていたってことも忘れたよ。君は? 今何を見て、何を考えてた?」
「ロードの目、が」
「うん」
「青くて、吸い込まれそうだなと思ったな。あとは」
続けようとした茉莉の吐息が、再び柔らかいものでふさがれる。
わずかに動くその感触まで逃すまいと、ロードライトは絡めた指に力を込めた。
(第六章 来訪者の献言 終わり)