第五章 媛巫女の祝福 1
王子殿下が東の国の女性を客人として招き入れた――。
その知らせは、驚くほどの速さで上流階級に流れていった。「東方の光を得るだろう」との預言を授かった王子が自ら選んだ女性、それも確かに「東」の客人だ。ロードライト自身はあくまでも彼女を「客人」として迎え、妃にするだとかそういう素振りは一切見せなかったのだが、周囲はいっそ面白いほどに誤解してくれた。
結果として。
「やたらと出身や血縁について聞かれるんだが。クラルテというのは一介の客人にまでそういうことを根掘り歯掘り尋ねるものなのか」
一ヶ月も経つ頃には、茉莉はいささかうんざりしながらそうこぼすようになっていた。
「いやまあ、王子が連れ込んだ女性って君が初めてなもんで。それでいろいろ探ってるんじゃないかなあ。それよりミコトは本当に血縁も何もないの?」
「くどい」
元々愛想のない話し方をする娘だったが、最近はその愛想のなさにも拍車がかかってきている。茉莉が腕を組めば、独特の形をした長い袖がさらさらと音を立てて形を変えた。
「何度も言っているだろう。『私はただの平民で、血縁も後ろ盾も一切ない』と。親戚の類は全てあの世だ。……親も、だ。」
「血縁を断絶されるのは、元王族とかもありえるんだよね。君の態度は平民っぽくないんだよ。立ち居振る舞いとか、態度とか」
「東照の術者の態度はおおよそこんなものだ。邪推してもうまみは何もないぞ」
ロードライト以外の人間にも、何度も聞かれたことなのだろう。反論さえも棒読みと化している。
「大体、東照の衣装を着続けろだの積極的に出歩けだの、お前は注文が多すぎる。どこに行っても視線がまとわりついて落ち着かんのだが。私は見世物小屋の珍獣か?」
ロードライトは、自分のすぐ前で腕組みをして、こちらを睨んでいる小柄な女性をまっすぐに見つめた。大抵の女性ならば、顔を赤らめてうっとりした視線を返すかおずおずと視線を逸らすかだ。しかし、茉莉は型にはまった仕草を一切せずに、ぴくりと片眉を動かしただけだった。照れも動揺も見せずに、彼女は真っ向からロードライトを見つめ返してくる。
「なんだ」
物怖じしない視線が小気味いい。会話をしているだけで心が弾んでうきうきしてくるのはどうしてだろう。
「いや、面白い例えだと思ってね。……ドレスの方がお好みなら、用意させるけど。うちのメイドはセンスいいよ? 着てみるなら止めないけど」
「ドレスは遠慮したい。コルセットもパニエも好かん。あんなに腰を締め付けて下半身を膨らませて、何が楽しいんだ? 出入り口でつかえるほど服の裾を広げる理由が分からん。体にもあまり良くないだろう」
「あははは。流行も行き過ぎると滑稽だよねえ」
茉莉の意見に心の底から同意して、ロードライトはからからと笑った。東の娘は相変わらず表情の読めない顔をしているが、彼女が喜ばしい感情を抱いてないらしいことはロードライトにも伝わってくる。
軽く微笑んで、ロードライトは茉莉の頭のてっぺんからつま先までを、つくづくと眺めた。
「まあ、確かに質素すぎる感じはするけどね。それが東照の女性の正装?」
「まさか。これは術者の正装だ。カレン殿が着ている服と同じようなものだな。普通の娘でも、もう少しは着飾っているさ」
確かに彼女は華やかな容姿をしているとは言いがたい。だが、その身には見るものを圧倒する清冽さをたたえている。無駄を極限まで削り取った美しさとでも言うのだろうか。身につけているものが質素である分、その凛とした涼やかさが一層引き立っているように感じられた。どんな宝石も、彼女が身につければかすんでしまうだろう。
「……森の女神か、妖精が、城の中に迷い込んだように見えるよね」
口の中でつぶやいた言葉は、茉莉に正確な意味までは伝えなかったらしい。組んだ腕を少し緩めて、茉莉が伺うような視線を寄越してくる。射すくめられるようなまっすぐなその視線が、ひどく心地よかった。ロードライトは椅子の背もたれに背をあずけて、高い位置でゆったりと足を組んだ。
「個人的にはねえ、あまり飾り立てると勿体無いと思うんだよ。ミコトにはそれが一番似合ってる」
「ああ、体型が貧相でドレスは映えないだろうとか背が低すぎて子供に見えるだろうねとか、そういう話か」
あまりにもあっさり言われすぎたので、ロードライトはその言葉の意味をつかみかねて固まった。しばらく黙って彼女の言葉を反芻し、ようやく意味を理解すると、形のいい眉をしかめて軽く体を乗り出した。
「……それはまた。誰に言われたの」
彼女の口ぶりからして、他者から言われた言葉であることは間違いない。
けん制のつもりなのかもしれないが、客人に対して無礼を働かれるなら、招いた側の主人として何らかの対策をしなければならない。いきなり異国の王宮に招かれた女性に対して棘を持った言葉を投げかけるのであれば、その意図は明らかだ。
そういうやり口はロードライトの好むところではない。彼女はここに、一人きりで留め置かれているも同然なのだ。いつもそれなりに気を張っているはずだ。普通の貴族ならばやり過ごすことのできる何気ないやり取りも、彼女にとっては心労の種になる可能性がある。
誰かを庇おうとする素振りはないか。ロードライトは注意深く茉莉の表情を観察する。真剣な空気に気づいたのか、茉莉は真面目な顔をしてしばらく考え込んでいた。しかし、やがて困ったように頬に手を当ててこう言った。
「忘れた」
「は」
かくん、と体勢を崩して口を開けたロードライトを見下ろして、茉莉は続ける。
「すれちがいざまにみすぼらしい格好だのなんだのとか、胸が豊かではいらっしゃらないのでデコルテは大きくあけないほうがいいですわねとか言われたりとかはしょっちゅうだ。いちいち覚えていられるか。覚えていた方がいいなら努力はするが、連日神官に質問攻めにされていて、そちらで一杯一杯なので保証はできんぞ。……覚えておかないとなにかまずいのか」
「い、いや別にいいけど。気にならないの。皮肉じゃないか明らかに」
「気にならないも何も。事実だろう。この服は確かに装飾性にはかける。故国でも私の体格はお世辞にも豊かとは言えなかったしな。要するに見世物小屋の珍獣に正直に感想を述べているだけだ」
皮肉を言われているとさえ思っていないらしい。鈍いというかずれているというか。
「うーん、なるほどそういう見方もあるのか。僕は単純に、ミコトは宝石や厚化粧でゴテゴテ飾り立てる系の美人じゃないからそれがいいって言いたかったんだけど」
口説き文句を述べてみても、茉莉は顔色一つ変えない。それどころか。
「ああ、顔の造りがやはり西と東ではだいぶ違うからな。こちらの国の人間に合わせて作られた装飾品を私が身に纏えば、どこかちぐはぐな感じがするだろうよ」
……それが口説き文句であることにさえ、彼女は気づかないのだった。
カレン様がお待ちです、との呼び声に応えて、茉莉は身を翻して部屋を出て行く。長い黒髪が滝のように流れ、艶やかに光を弾いた。
彼女が去ったあとには、いつも部屋の中に清冽な空気が満ちている。
深い森と、地下から湧き出す清水の空気だ。
決して香水などでは作り出せない彼女の残り香に身をゆだねながら、ロードライトはこみ上げてくる笑いをかみ殺した。
「――強敵だよねぇ」
面白い、と思う。何もかもが自分が知っている「女性」の型から外れている。自由で、奔放で、考えが全く読めない。どういう反応を返されるのか、考えるだけでわくわくする。
これを恋と呼ぶのかは、ロードライト自身にも分からない。
最初に会った時は女神か何かのようだと思った。とてつもなく神聖な存在に見えて、憧憬にも似た気持ちを抱いたのは確かだ。近寄りがたいとさえ思ったのに、実際に話してみれば、次に何が飛び出してくるのか分からない面白さに惹きつけられる。
「やっぱ妃に迎えたいんだけどな。退屈しなさそうだし、それに」
息が詰まるようながんじがらめの世界でも、彼女が横にいてくれれば、きっと自分は狂わずに済む。窓から吹き込んでくる風のように、茉莉の周囲には新しい空気が満ちている。
本音を胸の中にしまって、ロードライトは胸元に仕舞った小枝にそっと触れた。
部屋の中で交わされる言葉は、クラルテ語と蒼麗語が入り混じっている。茉莉は日常会話では困らない程度にはクラルテ語を操れる。しかし、さすがに術式に関することには専門用語が必要になってくるので、クラルテ語の語彙が足りないらしい。勿論東照の術式は東照語で説明するのが一番なのだが、さすがのカレンも国交がほとんどなかった国の言葉までは習得していない。結果として、二人の会話では蒼麗語が共通言語になってしまっていた。
『つまり東照の術式は根底に『神樹』という樹があるのですね』
『そうだ。地の流れ、水の流れ、気の流れ。それを読み、力の流れを『言葉』によって引き出し利用する。それが東照の術の基本だな』
『人を瞬時に移動させたりするような術も?』
『かなりの高等術式で、使えるものは少ないが……そういえば、貴国の王子にも使われた形跡があったな』
茉莉はそこで一旦言葉を切り、何かを小さく東照語でつぶやいた。
「今、なんとおっしゃいましたの?」
かわいらしく小首を傾げながら、カレンは羽ペンをインク壺につけた。いや、と茉莉は呟いて、あごに華奢な手を添える。
「……ここで教えたことを、貴国は戦争に使われるおつもりなのか、と思ってな」
茉莉の真っ直ぐな視線を、カレンは微笑みながら受け止める。
「そのつもりだと申し上げたら、どうなさいますの」
茉莉の漆黒の瞳が、まぶたの下に隠れる。窓から忍び込んでくる日の光に目を細めながら、カレンはさらさらと紙に文字を綴った。インクが伸びて、紙の上に流暢なクラルテ語を刻んでいく。
「別に、どうする気もないが。だが実戦に使われるつもりならば、先に話しておかなくてはいけないことがあるのでな」
カレンが手を止めて顔を上げる。机の上で軽く両手を組んで、茉莉は口を開いた。
細い体に質素な色の質素なドレス。華奢な両手は震えを抑えるようにぎゅっと握り締めて重ねられている。
デリフェルの王女、エレノーラは、押しつぶされそうな空気の中で、必死に自分を保っていた。
窓が大きく開かれているので部屋は明るい。自国の陰鬱な城とは空気までもが違う。一介の会議室に過ぎないこの部屋も、彼女の故国の謁見室程度の広さがあった。
これが、クラルテ。東の蒼麗と並び立つ大国の王宮なのだ。
「ローオールとデリフェルが通じ、わが国の王子殿下の暗殺を図っていたのだと確証が取れました」
宰相の言葉がずん、と腹の底に響く。エレノーラはこみ上げてくる恐怖を必死で抑えながら、懸命に顔を上げ続けた。
「わたくしは。クラルテに行って直接貴国の国王陛下に助力を嘆願してくるようにと、大使としての任を与えられて国境を越えました。途中で賊に襲われ、供人が殺され、それでも何とか西部の公爵の下にたどりつき……そこから、記憶が途切れております……。ですが、決してクラルテに害をなすつもりで動いたのではありません。それだけは、断言できますわ」
壮年の域に差し掛かり、髪に白いものが目立ち始めた宰相が、生真面目にうなずく。目の前にいる国王もさることながら、この男からも耐え難いほどの威圧感を感じる。だが、ここで引くわけにはいかなかった。もしデリフェルにクラルテが攻め込むようなことになれば、ただでさえ貧困にあえいでいる自分の国の民がどうなるか。想像しなくても結果は見えている。
戦だけは、命をかけても止めなくてはいけない。
「ダイオプサイト様。どんな理由があろうとも、わたくしが、ロードライト殿下をこの手にかけようとしたことは事実です。わたくし自身はどんな咎も謹んでお受けするつもりです。ですが、デリフェルは。あの国に今戦が起これば、民はこの冬を越せないでしょう。どうか、小国の愚かな振る舞いをお許しください……」
「ですがデリフェルは明確にクラルテに叛意を示しました。何もしないわけにはいきますまい」
横から冷たく言い放ったのは、宰相の反対側に控えていた、この国の一の騎士だった。ユーロパというその男が、厳しい顔をして国王に視線をやる。国王が頷くその仕草に、エレノーラは胸が潰れそうになった。
「エレノーラ殿。デリフェルの第一王女は、まだ『表向きは』ローオールに囚われていることになっております。二つの国は『デリフェル、ローオール』と戦う為に兵力を蓄えている状態です。……王子殿下が貴女の死体と共に発見され次第、標的をこの国に変えて攻め込むつもりであったようですが。貴女ご自身に悪意があったとは誰も考えておりませんよ」
ふいに宰相の声のトーンが優しいものになる。なだめる調子の声と内容に、エレノーラはぎゅっと唇を噛んだ。大抵の場合、こう言う言葉をかけられたあとは何か重大な取引が持ち出されるものなのだ。何を言われるのだろう。
「エレノーラ殿。私には息子が二人おりましてな。上はそろそろ二十五になります。愚息ですが、それなりにしごいておりますし、使い物にはなる程度の教育は受けさせたつもりです」
宰相が持ち出した言葉に、エレノーラは灰色の瞳を大きく見開いた。
「……わたくしの、夫になられる方なのでしょうか」
「察しが良くていらっしゃる」
拒絶の意志があるか、と宰相の瞳が尋ねてくる。その裏にある意図まで正確に読み取って、エレノーラは目の前が真っ白になっていくような心地を覚えた。
今まで沈黙を守り通してきた国王が、静かに口を開いた。低い、重い声が、会議室の中に響いていく。
「戦は仕掛けぬ。ただし、貴女のお父上には退位していただく。その後は幽閉か自害かの二択。貴女の兄上達にも、王位継承権を放棄していただくつもりだ」
デリフェルでは、王子から王女、生まれた順に王位継承権が決められる。エレノーラには兄が二人。彼女は王の末子だ。
兄達に王位継承権を放棄させ、国王に退位を強いる。それは、つまり。
「……わたくしに、飾りの国王になれと、そうおっしゃいますか」
「飾りにするには貴女は聡明に過ぎますな。……貴女は戦などという下らないものに目を向けず、民の生活を素直に見てデリフェルの現状を憂いていらっしゃる。充分女王の素質がある。王位につけるように働きかけてやってくれと息子が言い出しましてな」
「息子……? わたくしは宰相閣下のご子息にお会いしたことはなかったかと存じますが」
「世話役につかせていたものに、チェスターという若造はおりませんでしたかな」
はっとエレノーラが口もとに手をやった。みるみる顔が赤くなり、彼女の顔に年相応の幼さが戻ってくる。
「そんな……そうとはしらずにわたくし、随分失礼なことばかり」
「貴女の人間性を見極めたいとあれが申しましたのでな。身分を明かすのを控えて下男として貴女の世話をさせていただきました。自国の惨状を憂える言葉を漏らし、クラルテの政治に関しても意欲的に学ばれている、王子でないのが残念だと」
今までされたことのない評価だったのだろう。エレノーラは完全に冷静さを失い、おろおろとした様子で国王、一の騎士、宰相の間で視線をさ迷わせた。
「デリフェルとローオールの戦には、私たちも頭を長年抱えてきた。エレノーラ殿下、貴女ならばこの無益な戦いの歴史に終止符を打てるだろうと、私達はそう判断したのだ。わが国が貴国に戦をしかけ、国を併合してしまうことは容易……とはいかないかもしれないが、恐らく可能だろう。だがそれでは何の解決にもならない。少々やり方は卑怯かもしれないが、我々は貴女に期待する価値があると見込んだ。デリフェルが変わるのであれば。……我々は今回の件に関してけりをつけてもらえさえすれば、決して貴国に攻め入ることはないと約束しよう」
どうだ、とたずねられ、エレノーラは紫色になった唇を震わせた。自分が大きな波に呑まれようとしているのを感じる。王位も、政治も……王女という立場上、儀礼で付き合い、政略結婚で道具のように引き渡されることはあっても、それ以上は自分には関わりがないものだとばかり思っていた。それがいま、思いも寄らぬ形で自分の両肩にのしかかってこようとしている。
いくらクラルテに侵攻する意志がなかったとしても、自分はきっと傀儡だと思われるだろう。宰相の息子という監視役を連れて国に戻るのだから。
……だが。父も兄達も、戦を止めることなど考えていなかった。彼らが国を治め続ける限り、結局戦は続き、民は疲弊し続けるだろう。
民の生活に目を向けて欲しいと奏上しても、聞く耳をもたなかった父。王位を得ることだけを考え、臣下との結びつきばかりに意識を取られていた二人の兄。灯りの灯らない城下を尻目に、狂ったように繰り返される宴の光景が、エレノーラの頭の隅をよぎる。
飢え死にした子供を抱えて泣き叫ぶ母親、盗みを働いて鞭打たれる子供、虚ろな目で何も出来ずに道端でうずくまっている者。国に溢れた悲痛な力なきもの達の嘆きは、常にエレノーラの胸の奥底で響いている。
このまま手をこまねいているだけでは、この国の民のような笑顔を、彼らに与えられる日は、永久にやって来くることはないだろう。ここでこうして迷っている間にも、民の命は次々と失われているのだ。……厳しくなる寒さを、露天でしのげるだけの体力が残っているものが、どれほどあの国にいるというのだろう。
一度床に目をやって、両の拳を体の脇で握り締めてから、エレノーラはきっと顔を上げた。
「ローオールとの国境にある運河の使用権を向こう十年クラルテに譲渡いたします。兵をお貸し願えませんか」
目の前にいる男達の瞳に、すっと鋭い光が宿る。潰されそうだと思いながらも、エレノーラは必死にその場に踏みとどまった。引くわけにはいかない、真っ向から受けて立たなくては。
「ローオールにも今回の件で揺さぶりをかけられるでしょう。クラルテから続く運河が国境にあることも、また戦を長引かせる要因になっていたものです。国を建て直すためには、あれはむしろ毒にしかなりません。運河の利権にばかり目が行って、他のことがおろそかになってしまっている。いっそ、管理をしばらくクラルテにお任せした方がよいはずです。十年、時間をいただきたく存じます。十年かけて、ローオールとの間では決着をつけて見せます。……戦ではなく、話し合いで」
「兵を貸せ、とは? クラルテが正式にデリフェルに攻め込まれる事を、容認されるのですか」
「……父と兄、戦を推し進めようとする一派だけを掃討いたします。正規軍をお貸しいただく必要はありません。暗殺にたけた者をお貸しいただければそれで。私が指示を出すことが不可能だとおっしゃるのでしたら、私の夫となられる方を通じて指示を出してください。出せる限りの情報はこちらも夫に出します。ただし」
そこで言葉を切って、エレノーラはすっ、と息を吸った。一度強く目を閉じて、開く。
「……父と兄は、私がこの手で殺します。下らない戦に明けくれ、民の悲嘆に耳を貸そうとしなかった為政者は、デリフェルの者の手に……それも、かれらを止められなかった者の手によって断罪されるべきですから」
灰色の瞳がその時、確かに銀の光を帯びて見えたのだと。
後にクラルテの宰相は、王宮に客人として招かれたデリフェルの歴史家にそう語ることになる。
会議室から退いて自室に戻った所で、エレノーラはぷつりと糸が切れたようにその場にへたり込んだ。体のどこにも力が入らないのに、心臓だけがばくばくと飛び出しそうなほどにうるさく騒ぎ続けている。
「毒気に当てられましたか? 陛下と宰相閣下と一の騎士殿なんていう、三大狸とお一人で面会なさったあとでは、無理もないでしょうが」
世話役だと言って宛がわれた青年が、笑いを含んだ声でそういいながら部屋の中に入ってくる。手には銀のトレイがあり、その上にはガラスに入ったアイスティーが乗っているらしかった。
「チェスター……様」
「チェスターで構いませんよ」
自分の正体がばらされたことも知っているのだろう。青年はそれでもいつも通りの態度を崩さない。エレノーラは緩く息を吐いて、青年の手が、優雅な動きでガラスのコップに瑞々しい色の紅茶を注ぎいれるのを眺めていた。装飾性に欠けるが、生地は上質なシャツ。故国では滅多にお目にかかることができないそれも、ここでは召し使いの服なのだ。デリフェルとの格差を色々な所で見せ付けられているわ、とエレノーラは思う。それは決して国土の広さの違いだけから来るものではないことも、彼女は充分に理解していた。
「立てますか」
「平気……です」
「敬語もおやめください。今更です」
「……」
チェスターの赤みがかった茶色の髪が、光に透けて、先端だけとろけていきそうな黄金色に染まっている。生真面目そうな瞳の奥に、常に賭け事を試しているような、エレノーラの人となりを見極めようとしているかのようなものが含まれていたことに、彼女はようやく思い当たった。
床に手をついて立ち上がり、手をハンカチで拭きながら彼の元まで歩み寄る。クラルテから宛がわれた、夫となる人。クラルテとデリフェルのあまりの格差に、エレノーラがぽつりともらした一言を聞き漏らさず、「デリフェルをどう思いますか」とたずねてきたのは、そういえば彼の方だった。なるほど、最初から試す気でいたのだろう。
女の自分が政治に口を挟むようなことは、デリフェルでは絶対にありえなかった。疑問に思った事を口に出すことさえ、許されなかったのだ。自分の政治の話に付き合ってくれた人は彼が初めてだったから、異国の人だということさえいつしか忘れるようになっていた。
彼から新しい知識を教えてもらい、学んでいくのはそれなりに楽しかったのだ。たとえ、裏に何があったとしても。
「このまま私の夫になっても構わないの」
差し出されたグラスに手をかけてたずねると、チェスターの手も止まった。二人が一つのグラスを掴んだ格好で向き合うことになる。
「クラルテに残れば、あなたは何事もなく出世できるのでしょう。デリフェルはとても面倒な状態だわ。チェスター、貴方の命も保障されるかどうか怪しいのに」
赤みの強い茶色の目を細めて、チェスターが口を開く。
「クラルテにはカレン殿がいます。弟もあと五年もすれば使えるようになるでしょう。優秀な学生も若い官僚も山のようにいる。ですがデリフェルは、ここ十年ほどは若年層の教育が全く機能していない。頭の固い年寄りばかりが、いつまでも毒のように王宮でとぐろを巻いている。人材が足りていないでしょう。それでは改革は難しいはずです」
「言ってくれるわね」
「貴女がおっしゃったことの要約ですよ」
「……ええ。事実だわ。だから腹が立つの」
チェスターの手がグラスから離れる。グラスの中の紅茶を口許に運んで、エレノーラは相好をわずかに崩した。
「……おいしい」
「アップルティーですよ。今年のものは特に味がいい」
「デリフェルの民はもう水以外の飲み物も口に出来ない状態なの。あなたがこれから向かう国は、そういうところなのよ」
本当に分かっているの、と続けようとしたエレノーラの顔の目の前に、チェスターの顔が降りてくる。悪戯に輝く瞳に、エレノーラは息を呑んで固まった。
「――私は官吏百人分の働きをしますよ、エレノーラ王女殿下。運河の使用権十年分でもお釣りが来るほどの買い物だとは思いませんか?」
瞳の奥に含まれるものを見逃すまいと、エレノーラは至近距離で青年の顔をまっすぐに見つめた。嫌味でない程度に爽やかな香水の匂い。何を考えているのか完全に見透かすほど、エレノーラは政治のやり取りに長けてはいない。帝王学さえ、ろくに学んでいない身だ。
「物好きね。あの金色の王子殿下を主に戴く方が、ずっと誇らしいでしょうに、こんな小国の王女の夫になろうだなんて」
「確かにロードライト殿下に仕えるのも面白いかと思ったんですけどね。私は逆境の方が燃えるたちなんですよ。可憐な女王を裏で支えた名宰相と、後の世に伝えられるのも悪くはない。……さて、どうなさいますか」
沈黙が落ちる。さやさやと木の葉が風に揺れる音だけが、しばらく室内に響いていた。
やがてエレノーラが口を開いた時、その顔からは迷いが綺麗に抜け落ちていた。
「ありがたく使わせてもらうわ。いっしょに心中してちょうだい、チェスター」
「仰せのままに」
その場に膝をつくと、チェスターは差し出された手の甲に恭しく口づけた。
「割に合わないと思うんだよねえ、チェスターをデリフェルにやるなんてさ」
腕を組んで不満を隠そうともせずにぶつぶつ言っているロードライトの横で、「宰相の息子」に戻ったチェスターは柔らかく苦笑した。彼とは机を並べて育った仲だ。途中からチェスターは正式な宮廷学校に進学したが、それでもいくつかの授業は、城で教育を受けるロードライトと共に進め続けていた。公式な場でなければ、王子に敬語を使わない、数少ない人間の一人がチェスターだ。
「俺の気質は殿下が一番理解しているだろう」
「理解はしてるさ。お前にとっては、クラルテよりも波乱含みのデリフェルの方が魅力的に見えるだろうということもね。けどなあ、お前を失うのはクラルテだって痛いんだぞ、それなりに」
「カレン殿がいるだろう」
「彼女は『地星宮の大司祭』であって『宰相』じゃないんだよ。常に味方であるとは限らない。必要以上には手の内を見せられないんだよ」
「ストラが俺に追いつく頃までは親父が頑張ってくれるさ。それなりに使えそうな奴も、宮廷学校や若手の官僚の中にはそこそこいる」
「そりゃ君の弟御は優秀だし、アホなばっかりじゃない官僚もいるけどね」
だけどねえ、となおも納得しないロードライトの横で、チェスターは真剣な顔になった。
「エレノーラ殿下からデリフェルの現状を聞いて、正直愕然としたよ。上のメンツがあのままなら、まず今後も戦争は繰り返されるだろう。一度綺麗に掃除してやり直した方がいい。だが、人材が明らかに足りていないんだ。今彼女を一人で送り返して王位につけても、直接手助けをしてやる奴がいなければ、結局あの国は変わらないだろう。殿下。デリフェルを変えてしまわないと、またいつこんなことが起こるかわからないんだ。あの国の王宮は病んでしまっている。デリフェルをそのままにしておくことは、クラルテにとってもあまりよろしくないはずだ。ローオールも似たような状況だろうが、あちらはまだ圧力だけで持ち直す可能性はある。だが、デリフェルは」
「分かってるさ。だけど勿体無いんだよ」
「そこまで買いかぶっていただける事を光栄に思うよ」
「買いかぶってはいないよ。僕はこういうことに関しては事実しか述べないんだ。……エレノーラ王女殿下は、どんな感じだ」
「飲み込みは早い。決断力もある。こっちがびっくりするくらいだ」
思い出したのだろう。チェスターはくっ、とこらえきれなくなったように笑い声を上げた。ロードライトよりはがっしりした体が、角度の緩い、「く」の字に折り曲げられる。
「まず確実に人間の息の根を止める方法を教えろ、と言われたよ。本気で父の首をとる気でいるらしいな」
「……へぇ。それはまた」
「何をしようとしているか、どれだけの困難に立ち向かおうとしているか、きちんと理解できている。実施訓練をしながらだから、勉強も進みは早いはずだ。十年後には名君としてクラルテにも名が響き始めるだろうよ。この国の始祖、ダリア女王のようにね」
兄弟の王位継承争いによって疲弊した国を、鉱術師の力を借りて救った希代の名君。その名を出して、チェスターはにやりと人の悪い笑みを見せる。
「その頃までに、殿下も王宮を自分の掌に完全に掌握しておけ。国と国との駆け引きで、殿下と真剣勝負をしてみたいと、俺は常々思っていたんだ」
「……受けて立つよ」
友人が離れていってしまう寂しさを胸の中に覚えながら、ロードライトは苦笑を返した。彼に対戦相手として名指しされる事を、またロードライトも光栄だと思うし、その勝負には魅力を感じないでもないのだ。
「だがまあ、それよりまずは――」
「デリフェルにいるとかいう術者の排除だな。なんとかなりそうなのか、その東の客人……ミコト殿、だったか? 協力してもらえるのか」
ロードライトは眉尻を情けなく下げて、肩をすくめた。
「さあ。何せ、ちょっとすっ飛んだ姫君でいらっしゃるからね……カレンがいろいろ聞き出そうとはしてるみたいだけど、彼女を持ってしても『ときどきよく分からない』と言わしめるほどのお相手だから」
カレンをもってして、の部分で、チェスターも東の客人の手ごわさを充分理解したらしかった。期待はしないほうがいいんだなと念を押して、すぐに違う思考に沈み始める。
「いずれは東照から術者を招きたいところだな。あれはかなり使えそうだ」
「問題は東照自身の意思、だけどね。正式な使節が来るかどうかも不明だし……蒼麗経由でコンタクトを取れないか交渉してみるか。だがこれも年単位は覚悟しないといけない。今すぐ術者を何とかするんだったら、ミコトの協力は得たいところだね」
「殿下の色仕掛けも効かないんだろう。強敵だな」
チェスターがあっさり言った言葉に、ロードライトは唇の端を引きつらせた。
「色仕掛け……もう少し他の言い方はないのかい、チェスター」
「色仕掛けだろう。ま、それでなびかない女性がいるというのは男としては小気味がいいが。……俺も一度はお会いしてみたいものだが。お披露目をかねた舞踏会でも開かないのか?」
「あくまで客人だからねえ。見せろ見せろと、騒がれてはいるけれど。蒼麗で新しく皇帝が即位なさったらしいから、そろそろ使節が着く頃だ。彼らをお迎えしたらその時にでも舞踏会を開いて……そういう感じかな」
首をひねりながら、ロードライトはこれからの段取りを指折り確認し始める。その様子を、チェスターは静かに見守った。




