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第四章 公爵の陰謀 2

 愛しき方よ、と囁かれた時の怖気とも熱とも分からない感覚に、あの日からずっと囚われている。


「――おかわいそうに、これほど苦しまれて。貴女までもがこの国の闇に囚われる必要はないのです」

 違います、と答えた声はかすれ震えていて、信憑性などまるでなかったに違いない。現に、言葉を囁いた男は、自分は間違っていないのだと確信したかのように、口もとをいびつに歪めた。

 本当に違うのだ。少なくとも自分は、辛いと思っても後悔しても、この道を選んだことを間違ったと思ったことだけはただの一度もありはしない。それを話そうとしても、言葉を尽くすことすら出来なかった。男の目に宿るぎらぎらとした光が恐ろしくて、音は喉で凍りつく。

「もう少しの辛抱です。待っていてください。――貴女を苦しみから救うためならば、こんな国などどうなろうと構いはしない。このように歪んだ呪いの上に成り立つ国など、滅んでしまえばいい。見たくはありませんか? 己を戒めていた檻と鎖があっけなく崩壊していくさまを」

 目の前に立っている男は誰なのだろう。自分は確かにこの男を良く知っていた。幼い頃は、将来はこの人の妻になるのだと、本気で信じてさえいた。優しくて、礼儀正しくて、立ち居振る舞いが惚れ惚れするほど美しくて――。

 いや、立ち居振る舞いが洗練されて美しいのは、今も変わらない。歳月は確かにこの男の上にも降り積もっていてはいた。だが緩やかに老いに向かい出してもなお、その容姿は人をはっとさせるような危うい均衡を保っている。物腰も相変わらず穏やかで、どこにもけちのつけようはない。けれど、どうしてだか――恐ろしい。彼は何か、とんでもないことをしようとしている――。変わることのない穏やかさが、逆に彼の異様な様を、くっきりと浮き彫りにしているように思えた。

「何を……なさるおつもりなのです?」

「たった今申し上げました。檻を壊し、鎖を断ち切り、貴女を解放して差し上げると」

 頬に触れる指の感触が冷たい。そろそろ孫が出来てもおかしくはない年頃の、お世辞にももう瑞々しさを保っているとは言えない肌を、慈しむようにたどられる。

「無礼を働くでない――!!」

 振り払おうとした手首を、そのまま掴まれる。そのまま手のひらに口づけが落とされ、頭にカッと血が上った。

「あたくしはそのようなことなど望んでおりませぬ。どうかおやめください! 今なら、まだ間に合います。お話はこの胸に秘めて、墓まで持って行きましょう!!」

 無理矢理戒めを振り切って、手首を男から庇うようにして、胸元に引き寄せる。数歩後ろに下がったが、男は特に追ってくるでもなくじっと自分を見つめている。


 ああ、と彼女は悟る。何も変わってはいないように見えるのに、この人が恐ろしいと感じるのは。

 ……瞳に、狂気が宿っているから、だ。


 風が高い悲鳴を上げながら、夜闇を切り裂いていた。




「え、……母上?」

 はっと現実に引き戻される。寝台の上、シーツを固く握り締めている自分の手が視界に飛び込んでくる。パチリと暖炉の薪が爆ぜる音がする。ミランダが気づいて、侍女に薪を足すように指示を出している。

 あの日からどうも体調が思わしくない。元々王妃の体はさほど強い方ではないが、近頃はちょっとしたことでもすぐ床から離れられなくなるほど、体は弱っていた。

 息子の青い瞳が、自分を捉えている。クラルテの国王は必ず金の髪と青い瞳を持って生まれてくる。色味は若干違うが、自分の夫も確かに金の髪と青い瞳を持っている。


 国の要。鉱石の国の、最も貴い貴石。


「やはり……お顔の色があまりよろしくありませんよ」

「大丈夫よ。ありがとうロード、ごめんなさいね、この忙しい時期に時間を取らせてしまって」

「……いえ、構いません。私がしたくてこうしているのですから。それより、お体を大事になさって、早く父上を安心させて差し上げてください」

「本当に仕方のない人だ」と書いた顔で言われる。人に気を使いすぎる、控えめすぎる王妃は、心労から病を呼び込むこともしばしばだ。混じりけのない優しさを感じ取って、王妃は少しだけ目を細めた。

「ミランダ」

 名前を呼ばれて、ミランダがくるりとこちらを振り返る。

 練絹色の髪は誰から受け継いだものなのだろう。「一の騎士」になるものは、大抵あまり王族の方とは似ないものだ。それでも、目元のあたりや透き通った茶色の瞳は、わずかに自分に似ていると思う。たとえ表立って親子として振舞うことは許されなくても、繋がりをこうして感じることができるのは素直に嬉しいと、王妃は思った。

 国の闇を背負わせていると知っている。……その辛さを、本当に分かっているかどうかは、王妃にも自信はない。けれど、既に葛藤は乗り越えている。

 「自分の役目を苦に思ったことはない」と、ミランダは過去に口にしたことがある。まっすぐに王妃を見て、ロードライトを守り抜くのが自分の誇りなのだと、きっぱりと言い切った。だから、彼女は親子のあり方について、これ以上思い悩むまいと決めている。

 手招きされて、ミランダはロードライトの後ろに控える形で、王妃のそばに来た。

「ロード、少し席を外してもらえるかしら」

「……え」

 ロードライトとミランダが、互いを伺うように一瞬顔を見合わせる。王妃は小さく微笑んで、口もとに手をやった。

「少しね、殿方にお聞かせするにはどうかと思うような話をしたいの。出来ればミランダから侍女頭に上手く伝えてほしくて……」

 それで納得がいったらしい。小さくうなずくと、ロードライトは席を立ち、一礼してから王妃の部屋を後にする。控えていた騎士達が、その後に続き、音も立てずに扉が閉められた。

「王妃様?」

「ごめんなさいねミランダ、わがままを言ってしまって。本当はこの時期は、出来るだけロードのそばに居たいのでしょうに」

「いえ……」

 ロードライトがいなくなった途端に、ミランダの態度はわずかにぎこちなくなる。生みの親と二人きりにされ、どんな会話をしていいのか分からないと戸惑っている様子が手に取るように分かり、王妃は胸がちくりと痛むのを感じた。

「こちらに」

 手招きをされ、ミランダは寝台の横に立つ。身をかがめた彼女を、母親がするように抱き寄せると、ミランダはわずかに体を固くした。髪を指で梳きながら、王妃は小さくつぶやいた。

「ごめんなさいね。辛い役目ばかりを押し付けてしまって」

「……いえ……」

 ミランダは母親というものを知らない。こういうときに娘として振舞うべきかどうかも、うまく判断できないのだろう。ただ身を固くするばかりの反応をわずかに悲しく思いながら、王妃は一度深く息を吸い込む。娘に囁きかける声の調子を保ったまま、ミランダを抱きしめるようにして、耳元にさりげなく口を寄せた。心臓が、どこか遠くで大きな音を立てているような気がする。

「……ロードライトから決して目を離さないで。貴石を砕こうとしている者がいるかもしれません。ユーロパにも伝えて、国王陛下の護りも固めるように、と」

 ミランダの目が大きく見開かれる。と、同時に、ぎこちなく固まっていた体から、余計な力が抜けた。目線がすっと鋭くなり、王妃の手に素直に頭を預けるふりをしながら、口が小さく動く。

 演技のためならばすぐにでも不自然でない振る舞いが出来るのだ。あのぎこちない態度はだとすれば、紛れもなく彼女の本心なのだろう。嬉しいのか寂しいのか分からなくなりながら、王妃は彼女の鋭い目からすっと視線をそらした。瞳を伏せてミランダの頭を撫で続けながら、彼女の質問を待つ。

「……人物に、お心当たりは」

「西の……公爵を。確証はありません。ですがもう計画は進め始めていると見て構わないでしょう。……あたくしの、せいであるのかもしれないのです」

 最後の声は細く細く小さなものだった。小刻みに震える体、彼女が西の出身であること、幼い頃は公爵と共に育ったこと――自分のせいかもしれない、と王妃が怯えていた理由を、ミランダはすぐに察した。

「……国王陛下と王子殿下をお護りになりたいと思われたから、お教えくださったのでしょう?」

 自分を産んだ人であるというのに、まるで幼い少女のようにさえ見える。失礼を、と断ってから、ミランダは王妃の頭を抱え込むようにして、優しく抱きしめた。

「お一人で秘密を抱え込まれるのはさぞお辛かったことでしょう。大丈夫です。……絶対にお護りしますから」

 王妃は小さく首を縦に振ると、頼みますとつぶやいて、くたりと全身の力を抜いた。


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