第三章 姫君の剣舞 2
秋晴れの高い空には雲ひとつない。
証人は多い方が良かろうということで、宮廷学校の闘技場が貸しきられることになった。観客達の熱気に満ちた円形の闘技場で、王子殿下の一の騎士と、若手の騎士達の仲で一番の有望株の決闘が始まろうとしていた。
「鎧の具合はどうですか?」
「ん、平気」
いっそ滑稽なほどに重厚な鎧は、普段ミランダが決して身につけない類のものだ。彼女の剣の最大の強みは速さだ。鎧はその動きを妨げるものにしかならない。それでもこれをなお身につけるというのは、恐らくはジェラルドの方に対する配慮だろう。
女性が鎧も身につけずに決闘に臨んでは、ジェラルドは遠慮して全力を出せまい。それで負けてしまえば、後々禍根が残らないとも限らない。
剣の具合を確かめ、ミランダは真剣な面持ちになる。知らせもほとんど広がることはなかったというのに、若い学生達だけでなく、国民やどこかの領主と思しき者達の姿までちらほら見受けられる。
腹の底から細く息を吐いて、ミランダは天井を仰いだ。
立会い人を引き受けたのは、宮廷学校の学長だった。黒いつや消しのローブは宮廷学校の教官、それも武官の教育に携わる者の正装だ。いかつい面持ちのその男性には、ミランダもジェラルドも散々しごかれた覚えがある。闘技場に進み出てきた二人を一瞬だけ複雑そうな顔で見た後で、教官は片手を天にすっと伸ばす。
「クラルテの神の御許において制約せよ。ジェラルド・ドラン……――」
「申し訳ないが、少しお時間をいただけるかな?」
突如会場に響き渡った声に、ミランダとジェラルド、そして教官がぎくりとした様子で顔を見合わせる。
観衆の中にざわざわとざわめきが広がった。
「殿下!?」
闘技場の入り口の方から、騎士を数名従えて、ロードライトが姿を現した。金色の髪が青空にくっきりと映えている。
観衆のざわめきが、水を打ったようにぴたりと止まった。
「やあミランダ。ジェラルド」
片手を挙げてにこやかに微笑んだロードライトに、ミランダと教官が何を考えるよりも早く膝をつく。少し遅れて、我に帰ったジェラルドがそれに続いた。
「面を上げたまえ」
「はっ」
打てば響くような返事をして、三人が顔を上げる。さらに立ち上がるように促されて、ミランダとジェラルドが鎧を鳴らしながら立ち上がった。
「ミランダ」
「はい」
ミランダの鎧をつくづくと眺めた後で、ロードライトはふんと鼻を鳴らした。
「――鎧を脱ぎなさい」
「殿下!?」
抗議の声を上げたのはジェラルドの方だ。ミランダと教官は、王子の意を正確に汲み取って、無言で互いに視線を走らせた。
「殿下、失礼ながらこれは遊びの決闘ではございません。私は手加減をするつもりはない。しかしながら、これはあくまでも決闘であって殺し合いではありません。もしミランダ様のお体が動かなくなるほどの怪我を負わせてしまえば――」
「真剣勝負だからだ。ミランダが全力を出して闘うのであれば、ミランダの方には鎧は必要ない」
「しかし、殿下。それでは――」
今度はミランダの方が何か言いたそうな様子で口を開く。彼女の方をちらりと見て、ロードライトはその後を続けた。
「ジェラルドが全力を出せない、とでも?」
しばし逡巡した後で、ミランダが頷く。自分の外見のせいで、ただでさえジェラルドが遠慮気味になってしまうのではないかとミランダは危ぶんでいる。全力を出した彼を倒さねば、現状に不満を抱いているジェラルドを納得させることなどできはしないだろう。
「では――」
すっと目を細めて、ロードライトはジェラルドの方に体を向けた。
「第一王子直々に命じよう。ジェラルド。ミランダと闘うのに全力を出せ。それでもしミランダ自身が命を落とすような傷を負ったとしても、僕はけしてお前を罰したりはしない。その場合、後任の一の騎士にはお前を任じよう。その代わり、もし下手に手加減をするようなことがあれば、それはミランダ自身だけでなく、ミランダを一の騎士に任じた僕に対する侮辱にもなるということを肝に銘じておけ」
静まり返っていた場内が、またざわざわと騒がしくなる。ジェラルドはしばし王子をまっすぐに見つめた後で、ふと不敵な笑みを口の端に昇らせた。
「……本当によろしいんですね」
「ああ」
対するロードライトの顔にも、また泰然とした笑みが浮かんでいる。
「ミランダも、それで不満はないな」
ミランダも黙って頷く。頷き返した後で、ロードライトはさっと身を翻した。
「観戦なされないんですか?」
背後に続く騎士――、ジグが小声でロードライトに尋ねると、ロードライトは喉の奥でくつくつと笑い声を立てた。
「観戦するまでもない。結果は見えているからね」
「はあ、ですが――」
「ミランダは」
ふとロードライトは真顔になって言葉を切った。
「どうも、自分の価値を軽く見すぎている嫌いがある。剣闘大会に一切出場していないことなんかもそのいい例だろう。ある程度名前を売っておくことも必要なんだよ、こういう面倒ごとを避けるためにはね。元々の心根が優しいせいもあるだろうが、必要以上に自分を卑下することは、ある意味では自分の実力を過信するのと同じ位厄介な事を、そろそろ自覚させないと。彼女は未来の国王の、一の騎士なんだから。お世辞にも軽々しく扱われていい存在じゃないんだ」
「はあ、それで、ああやってけしかけたんですか……」
「そう。全力を出せるように、権限を使ってやるのも、主人の定めだろう。ついでに」
闘技場の出口で足を止め、ロードライトは半分だけ体を後方に向ける。視線の先にあるのは、ミランダではなくジェラルドだ。
「……負け知らずで少し傲慢になっている若者の矜持も、いっぺん完全に叩き折っておくべきだろうしな。敗北の経験は若いうちにさせておく方がいい。カーティスはミランダに連敗しているせいで適度に折られ慣れて来ているけど、ジェラルドはまだまだのようだから」
「そりゃまあ、あれだけの観衆の中で、華奢な女の子に完敗すれば、矜持は粉々に砕けるでしょうがねぇ」
「そこから伸びてくるものが本当の有望株と言われるべきなんだよ。違うかい?」
反論する余地は当然ない。ジグはある意味たちの悪い王子の思惑を知って、気の毒そうにジェラルドを見やった。
確かにいけ好かないが、王子の玩具にされていると知れば、同情せずにはいられない。
それに、ミランダの部下たちの多くは、今夜飲みに繰り出す予定なのだった――これから賭けで得る金を使って。
「始めっ!」
空気を切り裂くような鋭い教官の声とともに、黒いローブが翻る。
容赦することなく切りかかっていくジェラルドの剣を危なげなく受け止め、ミランダはまっすぐに相手の目を見る。
「ふっ」
腹から呼気を吐き出して剣を切り返せば、ジェラルドの剣は呆気なくミランダの前を素通りして宙をかく。一歩後ろに下がって間を取って、ミランダは口に柔らかな笑みを浮かべる。
ついでミランダの剣が軌跡を描いてジェラルドの方に振り下ろされる。細身の剣だ。片手でも充分対応できると思いながら、ジェラルドは彼女の剣を自分の剣で受け止めた。
ガキン、と鉄と鉄が噛み合ういやな音が響く。
「!!」
腕がしびれ、危うく頭にミランダの剣と自分の剣が突き刺さりそうになる。とっさに力をこめて踏ん張ったが、腕は予想外の負荷に耐えられずにジンとしびれていた。
(重い――!)
細くて華奢な体のどこにこんな力が。
いぶかしむ間もなく、わずかに体勢が崩れたその隙を突いて、ミランダが猛攻を仕掛けてきた。
「くっ」
焦りが剣の切れを一瞬鈍らせる。流れが完全にミランダ側にかたむく。
攻撃を受け流すのがやっとで、自分から相手の隙をつく余裕がない。手のひらの上で転がされているような感覚に、ジェラルドは軽い恐慌状態に陥った。冷静になる暇を、ミランダは決して与えようとしなかった。
汗がにじむ、視界が歪む。それでもかろうじて繰り出した剣戟が、ミランダのわき腹をかすめた。彼女の剣先がわずかにぶれる。
それに誘い込まれるように、ジェラルドは力強く踏み込んだ。一撃でしとめなければ、おそらく勝てない。
とうの昔に「軽くあしらって勝つ」と言う考えは、頭の中から抜け落ちてしまっている。彼女の動きは見えているはずなのに、その先が読めない。風や水のように自在に動き回り、いつの間にか彼女の動きに絡めとられてしまっている。
だからジェラルドは、ミランダが見せたわずかな隙に食らいつくしかなかったのだ。
剣先が、彼女の肩を捕らえた――そう思った時には、ミランダの姿は視界から消えていた。
「勝負あり! 勝者、ミランダ・グラファイト!」
青空が視界を埋め尽くしている。全身に走る鈍い痛みと、のど元に突きつけられた剣先、痛みに悲鳴を上げる肺が、状況を雄弁に物語っていた。対するミランダの方は、額に球のような汗こそ浮かんでいるが、息も切れておらず、表情にも余裕がたっぷりうかがえる。
しん、と静まり返っていた会場が、数拍遅れてわっと歓声に包まれる。勝負がつけば敵味方は関係ない。差し出された手をありがたく借りて、ジェラルドはその場に立ち上がった。
「……お見事でした」
大きく息を吐いて微笑めば、ミランダは勝ったというのに少しだけ困った風に、鼻の頭にしわを寄せた。
「慢心は命取りですよ。戦場であれば、私は最初の一撃で貴方の首を落としていました」
「ええ」
様子を見るように、ジェラルドよりもほんの少しだけ有利な状況を作り出し、本気を引き出させる――。あえて彼女がそうしたのだろうと、ジェラルドも気づいていた。
「完敗です。殿下は確かに貴女の実力を買っているのだと、よく分かりました」
手甲を外し、乱れた前髪をかきあげて、ジェラルドはその場に膝をつく。
「……貴女が勝利された時の条件を、お伺いしておりませんでした。無礼な物言いをしたお詫びもせねばなりますまい。この命か、一生の忠誠か――」
ミランダの前に膝をつき、ジェラルドは頭を垂れる。覚悟はできているといわんばかりのその様子に、ミランダは苦笑して首を左右に振った。
「両方とも辞退します。私は忠誠の対価として騎士に与える愛を持っては居ないし、近衛騎士の忠誠は国王陛下か王子殿下にあるべきです。それに、除籍するにはあなたの才は惜しい」
さばさばした様子のミランダに目を丸くした後で、ジェラルドは苦い笑みを漏らす。
「では、何を……」
「そうですねえ」
腕を組んで考え込み、それからミランダはぽんと手を叩く。
いかにもいいことを思いついたと言わんばかりに顔がぱっと明るくなった。
そして彼女の口から飛び出した言葉は。
「じゃあ、今度街の警備の任務があったら、お昼ごはんおごってください」
「……は」
あまりといえばあまりな条件に、ジェラルドだけでなく他の観客たちまでもがあぜんとする。ミランダひとりがにこにこしながら、人差し指をぴっと空を指差した。
「えーと、『朝焼けの雌鶏亭』でしたっけ? 安くておいしいって評判なんですけど、お昼時は男性ばっかりで入りにくいんですよね。駄目ですか?」
「い、いや。それくらいはお安いご用ですが。本当に、その程度で……」
「ありがとうございます! 楽しみにしてますね」
にこにこしながら言って、ミランダはジェラルドに改めて手を差し出す。彼女をまじまじと見つめたあとで、ふとジェラルドは穏やかな笑みを浮かべた。
「欲のない方だ」
「そうでもありませんよ」
その瞳にほんのまばたきをするほどの間だけ、何かを含んだ光が宿る。けれどそれはすぐに穏やかな顔の奥にかくれてしまい、ジェラルドがそれに気づくことはなかった。
「……」
額に貼り付いた前髪をかきあげて、ジェラルドは伸ばされたミランダの手を取る。彼が立ち上がるのを手助けしようと力を込めたミランダの手を軽く引っ張る。わずかに不審そうな顔をしたミランダのその手の甲に、ジェラルドは唇を寄せた。
「なっ!?」
闘技場の外で驚愕の声を上げたのは、ミランダではなくカーティスだった。若い女性や男性の悲鳴らしきものも聞こえてくる。先ほどとは違う種類の騒がしさが、会場を包んだ。
ミランダ当人は自分の手の甲とジェラルドを交互に見比べて、眉毛を八の字にしている。
「女官や侍女達に怒られますね」
「それはどうでしょう。……私も背中に殺気を感じるのですが」
ミランダの手を取ったまま、ジェラルドはその場に立ち上がり、腰をかがめて空いた手を自分の胸元に軽く当てる。騎士が、貴婦人にダンスを申し込む時の格好だ。
極上の笑顔をすぐ側に寄せられれば、若い女性は大抵頬を紅潮させるものだ。しかしミランダは全く動じた様子を見せず、きょとんとしたままジェラルドを見上げている。
(……無防備だな)
これは確かに襲いたくなるかもしれない。ジェラルドはミランダの耳元にふわりと唇を寄せた。
「……唇はいただけませんでしたが。いつかは正式な晩餐会にエスコートさせていただきたいものですね」
ミランダの練絹色の髪の向こうで、カーティスが顔を真っ赤にしているのが見える。生真面目一直線な彼女の部下があんなに動揺しているところを見られただけでも、もうけものだったかもしれない。
一方のミランダは、苦笑混じりに吐息を吐いて肩をすくめているだけだった。随分落ち着いた反応だ。
「男装の女性では、ダンスに華がなくなりますよ? 私は女性のステップはあまり得意ではありませんし」
「ドレスを贈らせていただきますよ」
「生憎と、コルセットもピンヒールも苦手でして」
さらりとかわされ、ジェラルドは苦笑する。まったく気持ちが揺さぶられる気配がない。駆け引きは相手を動揺させて気持ちを高揚させるところから始まるのに、これでは勝負にもならないではないか。
教官の挨拶と共に、決闘に幕が下ろされる。歓声に背中を押されながらミランダが闘技場を後にすると、待ち構えていたカーティスが思い切り眉をしかめていた。
「『朝焼けの雌鶏亭』でしたら、言ってくだされば私がお連れ申し上げましたのに」
街での警備の折に、いつもジグと共に昼食を取っている店だ。確かにミランダのような女性には入りづらいところかもしれないが、何もあんな男と行かなくても。
水に浸した布で、気持ち良さそうに汗をふき取りながら、ミランダはカーティスを見上げる。
「そう? じゃあ今度連れて行ってもらえるかな。おごるから」
「私が払いますよ」
「駄目。カーティスは私の部下なんだから。上司が部下におごってもらってどうするの」
「ですが、女性におごっていただくというのは」
「駄目ったらだーめ。お給料だって私の方が多いのに、そんなの様にならないじゃない」
口を尖らせてカーティスを軽くにらみ、ミランダはかたくなに主張する。こうなると彼女はもう一歩も引いてくれない。しぶしぶ頷けば、じゃあ約束ねと意外に幼い顔で嬉しそうに微笑まれる。
(お可愛らしいなあ)
状況を忘れて鼻の下を伸ばしかけ、ジェラルドも彼女と昼食の約束をしている事を思い出し、カーティスは違う意味で不安になった。婚約者がいると言っても、まだ正式に発表はされていない。よもやミランダに心変わりされたりしたら……とマイナス思考の渦にはまり、ついでカーティスは先ほどの光景を思い出した。奴は、ミランダの手の甲に、よりにもよって。
首筋を拭き終えてふう、と気持ち良さそうに顔を天井に向けたミランダの手を、カーティスはそっと引き寄せる。
「……失礼します」
「なに?」
水に浸した後で固く絞った布で、カーティスはミランダの手の甲を拭く。
「そんなに汗かいてないよ?」
「……汚れがついてますので」
「あれ。どっかにぶつけたかな」
本当は消毒液もつけたいんですがと言いたいのをぐっと我慢して、カーティスは黙々とミランダの手の甲を拭き続けた。
肋骨が痛む。ヒビでも入っているかもしれないからと、ジェラルドは宮廷学校の医務室の寝台に担ぎ込まれた。寝台の上で目を軽くつむってじわじわと痛みを訴えてくる場所を意識していると、廊下の向こうから足音が聞こえてくる。生徒の治療か何かに行っていた専属の医師が帰ってきたらしい。
「申し訳ない、医師どー……」
入り口に人影が現れたのを感じ取って、右手で痛む場所を庇いながら体を起こしかけ、ジェラルドはその格好で固まった。目をわずかに見開いて数秒動きを止めた後で、彼は口もとに張り付いたような笑みを浮かべた。
「……これはこれは。地星宮大司祭補佐殿」
「挨拶の必要はございませんわ。痛むのでしょう? 丁度手が空いておりましたものですから、専属の医師の代わりに参りましたの」
肩口で切りそろえられた漆黒の髪が、さらりと音を立ててこぼれる。文句のつけようがないほど完璧な笑みを浮かべて、カレンは軽やかな足取りで、ジェラルドの寝台の前に椅子を移動させて、そちらに腰掛けた。
「失礼いたします」
はだけられたシャツに動じることもなく、カレンは首にかけた紫色の水晶を外して、ジェラルドの肋骨にあてがう。水晶が淡く発光するのと同時に、ジェラルドの肋骨の部分の痛みがぐっと薄らいだ。
「まあ、綺麗にヒビが入っていますわねえ」
「……」
清潔な匂いが鼻をくすぐれば、若い男はどうしても心穏やかではいられない。次期大司祭はまだ若く、可憐という形容詞がこれほどぴったりはまるものはおるまいという風情の少女だ。辣腕家の噂を耳にしていても、やはりこういうときは動揺してしまう。
わずかに頬を染め、視線を逸らしたジェラルドに謎めいた笑みを向け、カレンは彼のズボンのポケットに、そっと紙切れを落とした。
「……?」
気づいたのだろう。顔を動かそうとしたジェラルドをわずかな動きで制して、カレンは彼の傷を検分するような口調で、小さく言葉を紡いだ。
「ミランダからの伝言ですわ。もう一つ、頼まれて欲しいことがあると」
(第三章 姫君の剣舞 終わり)