第1話 二十九軒目で、筆を置きました
三十七軒のうち、二十九軒目で筆を置きました。
新年のご挨拶に添える言葉は、家ごとに変えます。同じ文面を回すわけには参りませんので、わたくしは六年そうしてまいりました。二十九軒目のオルブリヒ子爵家は去年から喪中でございます。ですから墨を少し薄くして、花のことは書かない。そう決めて筆を持ち上げたところでございました。
「そんな雑事、誰にでもできるだろう」
背中の向こうで、ユリウス様がそう仰いました。
悪気がないのは存じております。この方はいつも思ったことをそのまま仰る。六年前に初めてお目にかかった日も「君は字がきれいだな」と仰って、その半年後には、わたくしがクラーゲン侯爵家の付け届けを差配することになっておりました。
わたくしは筆を硯に戻しました。墨が乾き始めております。
「ユリウス様。婚約は、解消させていただきます」
振り向いてそう申し上げました。声は自分でも意外なほど平らでございました。
「今年のご挨拶回りは——ご自分でどうぞ」
ユリウス様は、しばらく何も仰いませんでした。
それから、笑われました。怒っていらっしゃるのではなく、話の筋が読めないという顔でございます。
「怒っているのか」
「いいえ」
「では、なぜだ」
なぜ、と問われますと困ります。理由が一つきりであれば申し上げられますが、六年ぶん積み上がったものに名前をつけるのは難しゅうございます。
ですから、数を申し上げました。
「クラーゲン侯爵家のお付き合いは、三十七軒でございます。新年、花季、夏の見舞い、収穫祭。年に四度。六年で八百八十八通、わたくしがお出ししました」
「……八百」
「八百八十八でございます。数えてございますので」
ユリウス様は、卓の上の帳面をご覧になりました。厚みだけは見えたのだと思います。
「それは、母上の仕事だっただろう」
「はい。六年前に、あなたは筆が立つからと仰って、お預けくださいました」
マルグリット様のお声を、いまでも覚えております。あの方は「頼む」とは仰いません。「あなたは筆が立つから」と仰る。そう仰られると、こちらは断る言葉を探すところから始めることになります。わたくしは十四でございましたので、探し方を知りませんでした。
最初の年は、宛名を書くだけで七日かかりました。三年目には四日になりました。今年は三日で終わる見込みでございましたが、二十九軒で止まりましたので、あと八軒残っております。
ユリウス様は帳面を開こうとして、途中で手を止められました。上の段には品目と日付が並んでおります。下の余白には、細かい字が入っております。
「これは何だ」
「覚え書きでございます」
「こんなに要るのか」
「要るというより、書いておかないと忘れますので」
この方は、余白のほうをご覧になりませんでした。厚みがあるということだけを見て、頁をお戻しになりました。
「べつに、やめろとは言っていない」
「存じております」
「では続ければいい。何が不満なんだ」
不満、という言葉も少し違います。
わたくしは帳面を閉じました。表紙の内側に、束ねた紙が挟まっております。エッダ辺境伯家からの礼状でございます。三十七軒のうち、あの家だけが毎年欠かさず返してくださる。しかも代筆ではなく、ご自分の手で。
六年で二十四通。年に四度でございますから、一度も落とさずに返ってきた計算になります。
その束を、指で押さえました。
「ユリウス様。この帳面はお返しいたします」
「返すも何も、うちのものだ」
「はい。ですから、お返しするのが筋でございます。ただ、これはわたくしの字で六年ぶん書いてございますので、そのままではお使いになりにくいかと存じます」
ユリウス様は、少し考える顔をなさいました。この方は面倒を嫌う方ではございません。面倒がどこにあるかを、ご存じないだけでございます。
「写しをお作りします。三日、いただけますか」
「三日で足りるのか」
「足ります。宛名と品目と日付でしたら」
わたくしは、乾きかけた墨に水を一滴落としました。
新年の宛名は、二十九枚ぶんの墨を一度に磨って書きます。磨りすぎれば余りますし、足りなければ濃さが変わります。六年やっておりますと、三十七軒ぶんの量が手で分かるようになります。
今日は、八軒ぶん余りました。
「三日後に、お渡しに上がります」
ユリウス様は頷いて、扉のほうへ歩いていかれました。途中で一度立ち止まって、卓の上をご覧になりました。書きかけの紙が二十九枚、乾かすために並べてございます。
「その紙は、どうする」
「二十九軒ぶんは、お出しになるとよろしいかと存じます。日付が過ぎますと、遅れたことのほうが残りますので」
「残る」
「はい。何を差し上げたかは忘れられますが、遅れたことは覚えられます」
ユリウス様は、並んだ紙を端から端までご覧になりました。二十九枚でございます。それから、ご自分の手のほうを見て、また紙をご覧になりました。
「……そうか」
そう仰って、出ていかれました。
残った八軒の宛名は、白いままでございます。
三十軒目から三十七軒目まで。順に、シャルンホルスト、リンドナー、エッダ、それから四軒。最後の一軒は、名を書くのに一番気を遣うお家でございます。
どれも、写しに載っております。
「そんな雑事、誰にでもできるだろう」——この一言で、六年が終わります。
けれどリーゼは、声を荒げません。代わりに数を置きます。三十七軒、年に四度、六年で八百八十八通。数というものは、怒鳴るよりずっと静かで、たぶん少しだけ痛うございます。
ついでに申し上げますと、ユリウス様は帳面の厚みだけをご覧になって、余白の頁はめくっておられません。この物語のほとんどは、その「めくらなかった頁」で起こります。
次回、第2話「写しをお作りしました」。三日かけて四十二枚。宛名も品目も日付も、洩れなくお引き継ぎいたします——上の段だけは。




