第1話 転校生は元アイドル
四面楚歌、という言葉がある。
中国の故事が語源で、平たく言えば周囲が敵だらけで孤立している状況のことを言う。
平和大国日本において、ましてや平凡な高校生たる俺の日常において、そんな物騒な言葉を使う機会は前にも後にもないと思っていたのに……。
「言い残すことはあるか?」
クラスメイトの男子が、ホウキの先っぽをこちらに向け、ドスの効いた低い声を漏らす。何する気だ。
教室の一角。
律儀に机を退けてスペースを作り、俺はそこに正座させられていた。それをクラスの男子が鬼の形相で囲っているという構図。
誰もが瞳に殺意を抱いている。何かをきっかけに一斉に飛びかかってきそうな迫力。まさに、四面楚歌。
「……ある」
「それは冥土の土産に持っていけ」
言わせろやせめて。
平穏な日々を過ごす平凡な俺が、どうしてこんなことになっているのか説明しよう。
*
『大人気アイドル、雛宮ひまり 電撃卒業から一ヶ月』
テレビではそんな見出しとともに、コメンテーターが話題について話し合っていた。
アイドルグループ『CutieCandy』の人気筆頭、雛宮ひまりが突然の引退を宣言してからおよそ一ヶ月経つが、未だに彼女の名前はそこかしこで耳にする。
俺はあまり詳しくはないんだけど、妹が言うにはライブツアーの途中で卒業が発表され、そのツアーの千秋楽が卒業ライブとなったらしい。
そこそこのファンだった妹は一日ほど使いものにならないくらいに呆けていた。熱量的にそれくらいで済んでいたけれど、ガチファンたちはきっと阿鼻叫喚に陥ったことだろう。
『アイドルである以上、卒業というものは必ずついてきます。ですが、あまりにも突然の発表でしたね』
『なにかスキャンダルを掴まれたりした様子もありませんでした』
『アイドル卒業後はモデルやタレントとして活躍する人も多いですが、雛宮さんは芸能界そのものを引退したと聞いています』
『未だそのショックから立ち直れないファンの方々に話を聞いてきました。ご覧ください』
トーストをかじりながら、テレビに向けていた視線を前の席に座る妹に移す。
眉間にしわを寄せ、険しい表情でテレビにメンチを切っている。どうやら妹もまた、未だそのショックから立ち直れないファンの方々の一人らしい。全然ガチファンじゃねえか。
「……早く食べないと遅刻するぞ」
「……」
返事はない。
ただの屍のようだ。
俺はそっとしておくことに決めた。
遅刻して困るのはあいつだからな。ここでしつこく声をかけようものなら、なんかとばっちりを食いそうな気がする。直感がそう告げていた。
トーストを食べ、コーヒーを一気に流し込んだ俺は席を立つ。
「俺、先に出るからな。戸締り頼むぞ」
「……」
やはり返事はない。
こりゃもう遅刻確定だな。
最後にもう一度テレビに視線を向ける。
ファンの方々の悲痛の叫びが放送されていた。朝から放送する内容じゃないだろ。
そんなことを思いつつ、俺は家を出た。
今日から二年生である。
せっかくの新学期だというのに、朝からなんだか複雑な気分に陥りつつ、それでも前を向いて登校を果たす。
昇降口前に張り出された新しいクラス発表の前には、多くの生徒が群がっていた。
喜ぶ者、残念がる者、無反応な者。
十人十色な反応の中に潜り、俺は自分の名前を探しつつ、ひっそりともう一人の名前も検索対象に加える。
二年三組の中に『逢川明樹』の名前を見つけた。小学生から今に至るまで、出席番号はほぼ一番。こういうときは探しやすくて助かる。
俺はそのまま三組の名前を順に見ていく。
去年同じクラスだった友達の名前は見当たらない。開幕ぼっちが確定しつつあるけど、それはまあいい。作ればいいだけだしな。
そんなことよりも……。
バクバクと激しく動く心臓。この緊張感は入試の合格発表以来だ。
恐る恐る、けれども期待を込めて、視線をスライドさせていき、三組の中にお目当ての名前を発見した。
『穂村梢絵』
俺は小さくガッツポーズをする。
本当ならば跳ねて喜びたいところだけど、そんなことをすれば周りの生徒に不審に思われる。
不審者だと思われるのはこの際構わないけど、俺のこの気持ちを知られるのはいささか不都合がある。いや、やっぱり不審者だと思われたくはないな。
スキップしたい気持ちを抑えつつ、昇降口で靴を履き替え二年三組の教室に向かう。
教室の中は、新学期特有の緊張感が張り詰めていて、やや殺伐としていた。けれども、そんな空気の中でも知り合いを見つけて雑談している生徒もいる。
教室内を一瞥し、俺は穂村の姿を見つける。
長い黒髪。
大和撫子を思わせるお淑やかな佇まい。先生からの評価も高い優等生だ。
去年も同じクラスだった。
まあ、友達と呼べるほどの交流どころか、クラスメイトという共通点がなければほぼ赤の他人みたいな関係だったが。
そんな俺が、どうして彼女と同じクラスであることに喜んだのかというと、お察しの通り一目惚れというものをしているからだ。
話しかけたいけど、話しかける勇気がないまま一年は終わってしまった。
二年になって同じクラスだったら、勇気を出して話しかけようと春休み中に意気込んでいたんだけど、いざその状況を目の前にすると、チキンと化すのが俺という生き物。
諦めてスタスタと自分の席に向かうことにした。
「転校生来るらしいよ」
「まじ? イケメン? 美男子?」
「いや女の子だって」
「なんだつまらん」
「え、じゃあ美少女?」
「さあ。そこまでは聞いてない」
クラスメイトの会話が聞こえてきた。
転校生ねえ。新学期には相応しいイベントではないか。まあ、やや安直な気もするけど、現実にそんな文句を言っても仕方ない。
美少女であれ美男子であれ、きっと俺が関わることはほとんどない。
自分で言うのもなんだけど、男女グループで青春を謳歌するような陽キャではない。
気の合う男子数人と集まって、下世話な話に花を咲かせるようなタイプ。
なので、漫画とかで言うところの転校生イベントで物語が動くような主人公属性は備わっていない。
それに、俺には穂村がいるからな。
どんな美少女が来ても、彼女の魅力には遠く及ばないだろうさ。なんてな。
しばらくすると、担任の教師が入ってきた。
クラスの浮足立った雰囲気を察した先生は苦笑いを浮かべる。そして、そういうことならと、廊下で待機していた転校生の名前を呼んだ。
「雛宮。入ってきなさい」
と。
教室の中が分かりやすくざわついた。
雛宮という名字はありふれたものではないだろうけど、珍しいというほどでもないと思う。
けど、世の中の人間には現在、その姓を聞けばどうしても一人の女の子をイメージしてしまうようにできてしまっている。
あまり詳しくない俺でさえ、一瞬だけその女の子の姿が脳裏をよぎってしまうほどだ。
ごくり。
誰のものかも分からない、固唾を飲み込む音が聞こえたと同時、ガラガラと教室のドアが開かれた。
ふわりと揺れる桃色の髪。
ぴんと伸びた背筋。まるでモデルのような洗練された歩き方に、クラスメイトは息を呑んだ。
誰も声を出さなかった。
いや、多分、出せなかった。
だって……。
「雛宮陽鞠です。知ってくれてる人も、はじめましての人も、仲良くしてください。これからよろしくお願いします」
アイドルの頃を彷彿とさせるような完璧なスマイル。
登場から十秒と経たずして、クラスの心を射止めた《《元アイドル》》、雛宮陽鞠は教壇からクラスメイトの顔を見回した。
そして、俺と目が合う。
ライブ中にアイドルと目が合うのってこういう感覚なのかな、なんてことを考えていると――。
「いた。明樹くんっ!」
雛宮陽鞠が、俺の名前を高らかに呼びつつこちらを指さした。
まるでお宝を見つけたトレジャーハンターのような、きらきらした瞳を浮かべて。
*
で。
朝のホームルームが終わって、一時間目の授業が始まるまでの僅かな時間。
俺は男子に囲まれ、四面楚歌に陥っていたんだとさ。
……めでたくねえ。




