[13] 見えない壁
その日の夜、テオドラはサロン・ド・ラ・ヴェルニュのプティ・サロンで、アルフレッドと二人っきりだった。
リリーは他の客に呼ばれ、イグナーツは遅れていた。
気が進まないまま、隣に座って酒の支度をしていると、アルフレッドはテオドラの手を取った。
「どうして手袋を?」
テオドラは包帯の上から黒い手袋をしていた。
アルフレッドはテオドラが答える隙も与えず、両手に鼻を近づけた。
「右手から薬草の臭いがする」
テオドラはぎょっとして、素早く手を引っ込めた。
「調理中に手を切ってしまったのです」
「病院には?」
「行きました。ほら」
テオドラは右手の手袋を取って包帯を巻いた掌を見せた。
このくらいしないと信じない男だ。
「それならいいが」
テオドラは再び手袋を着け、アルフレッドを見た。
「アスター様、お仕事はお忙しいのですか?」
「いや、そうでもない」
テオドラはグラスに酒を注いだ。
「お仕事柄、婚約破棄には反感をお持ちですか?」
テオドラが上目遣いでアルフレッドを見ると、アルフレッドは眉間に皺を寄せていた。
「……そんなことはない」
「まあ。意外です」
「そもそも婚約中に破棄をしたいと思い、そのまま結婚してもその結婚は不幸だろう」
「え?」
「貴族の間では政略結婚が多いが、それでも相手と添い遂げる不安が少しでもあれば破棄したほうがいいと思ってる」
テオドラは呆気に取られた。
婚約破棄なんか言語道断だ、とでも言いそうな男だと思っていた。
結婚は家同士の問題で、破棄するなんて考えられなかったからだ。
「でも、アスター様のような方が多くなると、婚約破棄する人が増えますね」
テオドラは笑った。
「うむ。問題は、婚約時に交わす契約にあるよ」
「え?」
「金銭が伴うことが多いだろう? 持参金や慰謝料。これらを悪用する者も少なからずいるからね。それを調査するのが、婚姻管理局婚姻監査部の仕事だ」
「悪用とは金銭目的で婚約破棄することですか?」
アルフレッドは頷いた。
「まるで人身売買じゃないかと思う時もあるし、家門が傾くこともある」
テオドラはつまみをテーブルに並べた。
家門が傾くと言われ、まるで自分のハラハ伯爵家を言われたような気がした。
両親が亡くなると、それまで幅広く手掛けていた事業への融資が次々と打ち切られ、返済を迫られた。
騎士の訓練で遠征していた兄のオットーが戻って爵位を継いでも、手遅れだった。
手を差し伸べる者などほとんどいなかった。
それは、テオドラの婚約者でさえ。
逆に彼らは、事業譲渡の契約違反をつきつけ、婚約破棄とその慰謝料を請求した。
長年続いたハラハ伯爵家が没落するのはあっという間だった。
テオドラは俯いて、意味もなくつまみの皿を並べ直した。
「どうした? 元気がないな。手が痛むなら、無理しないほうが」
テオドラは顔を上げ、アルフレッドを見た。
「いえ、大丈夫です……その……悪用について考えてました」
「え?」
「悪用の定義も婚姻管理局では整理していらっしゃるのですか」
「……事例や判例は纏めてある」
「すごい。本当に大変なお仕事ですね」
「ああ。だから、もっと労わってほしい」
アルフレッドがテオドラに微笑んだ。
テオドラはその微笑みに一瞬見惚れた。
気づいた時には、頬が熱くなっていた。
「ハハハハハ」と力なく笑い、「厨房に忘れ物を取りに行ってきます!」と妙に大きな声で言い、逃げるように部屋を出た。
この仕事はあと1日で終わりだというのに。何をやっているの私は!
テオドラは自分の両頬を叩いた。
翌日の朝。
テオドラはテレーゼと最初に会った食堂に行った。
店は昼からだったが、扉は開いていた。
相変わらず強面の店主がテオドラに気づいた。
「何の用だ」
「テレーゼ様にお会いしたいのですが」
「……わかった。あんたには協力するように言われているからな。夕方にまた来てくれ」
「今日、会えますか?」
店主はテオドラを睨みつけたが、「聞いておく」と答えた。
「あのぉ」
テオドラが再び尋ねると店主がしかめっ面を見せた。
「何だ?」
「テレーゼ様とはどのようなご関係で?」
「……昔、お嬢様が小さい頃、フォンカッテ伯爵家で庭師をしていた」
「意外ですね」
「何が?」
「庭師が。庭師と食堂って意外です」
店主はフンと鼻を鳴らした。
「……伯爵家では実のなる木も多く植えていて、それを使った料理もするようになったんだ」
「そうか! この間、出してくれたアプリコットのパイが絶妙に美味しかった理由がわかりました! 納得です!」
店主はテオドラの勢いに気圧されたのか、わずかに頬を赤らめた。
「テレーゼ様はあなたが独立した後、こちらにいらっしゃるのですね?」
「ああ。3年前に独立資金をくださったんだ。返済しなくていい。私が行った時に食べさせてくれって言って」
店主の目尻が下がる。
「私、昨日、怪我をしまして」
テオドラは手袋を外し、包帯を巻いた右手を見せた。
「グロート診療所に行ったら、テレーゼ様がいたんです。お忙しそうだったんで話しかけませんでしたが」
店主はため息をついた。
「ああ。看護師なんかしなくても、食べていけるっていうのに」
「伯爵様はご存じなんですか?」
「いや。知らねぇだろう。侍女と共に刺繍の会に参加してると思ってる」
「なるほど。侍女も診療所に?」
店主は小さく頷く。
「どういうご事情なんでしょう?」
テオドラの質問に店主は黙った。
「じゃあ、質問を変えます。死神令嬢と言われていることについて、どう思います?」
店主は再びテオドラを睨んだ。
「ふざけたことを! 出て行け!」
「待ってください。私は、間違いだと思ってるのです。それを正してあげたい」
「正す?」
「ええ。噂はしょせん噂ですから」
「何とかなるのか?」
「何とかしたいと思っています」
店主は大きなため息をついた。
「わかった。協力するよ」
「では、テレーゼ様が診療所で働いている理由を教えてくださいますか」
「前の婚約者が娼館で斬られて、あそこの診療所に運ばれたんだ」
「ファビアン・ジファールですか?」
「そうだ。駆け付けたテレーゼ様は、命を救った診療所に、そりゃあ感銘を受けてたよ」
「それで、通うように?」
「まあ、それだけじゃないがな」
「……伯爵様は気づいてないのですか?」
「忙しい人だから。昔から、会話も碌にないんだ」
「3年前、何があったんです?」
「騙されたんだ」
「アクトン男爵ですね?」
「な、何でそれを」
「仕事ですから」
店主は小さく頷いた。
「領民の生活をよくするためだとか何とか言って投資させて金を貸し、投資先はすぐに夜逃げした。借金だけ残って……使用人の多くも解雇されたよ」
「それで、お店を?」
「ああ。お嬢様がご自身の宝石を売って」
「その頃、テレーゼ様はジョエル・フォール様と婚約中では?」
「……そいつがアクトン男爵を紹介したんだ」
「何ですって?!」
「フン。だから、自業自得さ」
沈黙が流れる。
元庭師の店主から見て取れるジョエル・フォールへの憎悪。
使用人だった彼ですら、これほど憎んでいる。
それなら、フォンカッテ伯爵はどうだったのだろう。
テオドラの頭に、馬の餌に混ぜられたアセビが浮かんだ。
一度瞬きをし、口を開いた。
「二人目の婚約者……セオドア・ブライ様については何かご存じですか?」
「……店での様子を見る限り、お嬢様は気乗りじゃなかった。侍女が愚痴っているのを聞いていたが、あちらもまさに政略結婚って感じのようだったな。それに、ほとんど会ってなかったと思う」
テオドラは腕を組んで考え込んだ。
「では、三人目はどうです?」
「ファビアン・ジファールか?」
「ええ」
「さっきも言ったが、あれはとんでもない男だった。娼館では有名で」
テオドラは顎に指を添えた。記憶を遡り、集めた情報を拾い直した。
「誰かの紹介で婚約したのですか?」
「いいや。あいつがお嬢様を見初めたんだ」
「でも、テレーゼ様は社交活動をほとんど行っていなかったはず」
「ああ。街で見かけたと言っていたらしい」
なら、偶然か。
テオドラは首を傾げた。
「ファビアン様は娼館で、どうして怪我を負ったのですか?」
店主は鼻で笑った。
「他の男の女と寝ていて、腕を切られたのさ。娼館ではよくある刃傷沙汰だよ」
テオドラは考えを巡らせた。結論は急ぐべきではない。まだ材料が足りないのだから。
「いろいろお話しくださって、ありがとうございました」
「……その代わり、お嬢様の変な噂をなくしてくれ」
「ええ。そのつもりです」
テオドラは強い口調で言った後、肩をすくめて笑った。
「そのためには、テレーゼ様とフォンカッテ伯爵、3人でお会いする必要があります。協力してくださいますね?」
店主はすぐには言葉を返さず、何度も瞬きをした。
テオドラは微笑んだ。
残された答えを持っているのは、父と娘だ。




