第5話 閉ざされた扉
# 第5話 閉ざされた扉
如月先生の車は、夕方の住宅街をゆっくりと走っていた。
フロントガラスには橙色の夕焼けが広がり、街全体が柔らかな光に包まれている。住宅街は静かで、遠くから聞こえる子どもの笑い声や、自転車のブレーキの音が時折耳に届く程度だった。
後部座席には氷凪青と雪城凛花が並んで座っている。
青は窓の外を見ていた。
流れていく家々の屋根や電柱をぼんやり眺めながら、頭の中ではこれから会う少女のことを考えていた。
不登校。
理由は、女子同士の嫉妬。
漫画の話をしただけ。
それだけでクラスから無視される。
青には完全に理解できるものではなかった。
けれど理解できないからといって、存在しないわけではない。
現実に起きている以上、対処は必要だ。
青はそういう考え方をする人間だった。
隣では凛花が腕を組んでいる。
何かを考え込むような顔だった。
「正直、信じられないわ」
凛花がぽつりと言った。
「そんな理由で不登校になるなんて」
青は窓の外を見たまま答える。
「理由の大きさは関係ない」
「本人がつらいなら、それが原因だ」
凛花は青を横目で見た。
いつもと同じ落ち着いた顔。
感情の起伏はほとんど見えない。
けれど、さっきの言葉には不思議な説得力があった。
「あなたって、本当に合理的よね」
「そうですか」
「普通はもう少し怒るものよ」
「怒って解決するなら怒ります」
「……しないのね」
「しないでしょう」
凛花は小さく笑った。
氷凪青は星嶺高校でもかなり有名な存在だった。
学年二位の成績。
長身で整った顔立ち。
無口でクール。
最近は生徒会副会長。
女子生徒の間では密かに人気があり、告白された回数も一度や二度ではない。
しかし本人は恋愛に興味がなく、告白されても淡々と断ることで有名だった。
その態度が逆に女子の評判を上げている、という噂まである。
もっとも青自身はそんなことを全く気にしていない。
青にとって重要なのはただ一つ。
東都大学医学部。
それだけだった。
「もうすぐ着くわよ」
如月先生がバックミラー越しに言った。
車は住宅街の一角で止まった。
静かな場所だった。
二階建ての家が並ぶ、ごく普通の住宅街。
三人は車を降りる。
青は家を見上げた。
普通の家。
けれど、この家の二階には学校へ行けなくなった少女がいる。
そう思うと、少しだけ空気が重く感じられた。
如月先生がインターホンを押す。
数秒後、玄関の扉が開いた。
「あら、雫ちゃん」
出てきた女性は嬉しそうに笑った。
「いつもありがとね」
その呼び方を聞いた瞬間、青と凛花は同時に目を瞬かせた。
(雫ちゃん?)
学校では、如月先生はクールビューティとして有名だ。
弱さを見せない教師。
落ち着いていて、どこか近寄りがたい。
そんな先生が「雫ちゃん」と呼ばれている。
少しだけ意外だった。
如月先生は苦笑する。
「今日は紬の様子を見に来たの」
「生徒会の子たちも一緒よ」
三人は家の中へ案内された。
廊下を進み、階段を上がる。
二階の奥。
「ここが紬の部屋よ」
母親がドアをノックする。
「紬ちゃん」
「雫ちゃんが来てくれたわよ」
「あと生徒会長さん達も」
しばらく沈黙。
やがて声が返ってきた。
「帰って」
短く、はっきりとした拒絶だった。
凛花が青を見る。
青も静かに視線を返す。
如月先生が優しく言う。
「紬ちゃん」
「少しだけ話しましょう」
しかし。
「帰って」
同じ言葉が返る。
凛花が前に出た。
「紬さん、私、生徒会長の雪城です」
「少しだけお話を——」
「帰って!」
廊下の空気が張り詰めた。
その時。
「副会長も連れてきたわ」
「氷凪くんよ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
部屋の中で何かが倒れる音がした。
「え!?氷凪先輩!?」
ドアが少し開く。
少女が顔を出した。
「ほんとに……氷凪先輩?」
「こんにちは」
「氷凪です」
「よかったら少し話聞かせてもらえないかな」
紬の表情が一気に明るくなった。
「はい!ぜひ!」
勢いよくドアが開いた。
紬の部屋は思ったより整っていた。
本棚には漫画がびっしり並んでいる。
少年漫画、少女漫画、ライトノベル。
机の上にはノートと参考書。
勉強を完全に諦めた部屋ではない。
ベッドの横にはぬいぐるみ。
壁には漫画のポスター。
そして机の上には、小さなキャラクターのキーホルダーが置かれていた。
青はそれを見て言った。
「この漫画、好きなのか」
紬は目を輝かせた。
「知ってるんですか?」
「妹が読んでた」
「ほんとですか!」
紬は少し嬉しそうに笑う。
「このキャラが好きなんです」
キーホルダーを見せる。
「主人公の親友なんですけど、普段はクールなのに仲間のために怒るんですよ」
青は少し頷く。
「いいキャラだな」
「ですよね!」
紬は笑った。
それだけの会話だった。
けれど、部屋の空気が少し柔らかくなっていた。
「先輩は漫画読むんですか?」
「たまに」
「意外です」
「そうか」
「クールな人って漫画読まないイメージあって」
「偏見だな」
紬は小さく笑った。
その笑顔は、さっき廊下で見た拒絶の表情とはまるで違っていた。
そして。
紬は少しうつむく。
「……実は」
「クラスでちょっと」
ゆっくり話し始める。
漫画のキーホルダー。
同じ漫画が好きな男子。
少し会話。
それだけ。
けれど。
次の日、教室の空気が変わった。
朝、挨拶しても返事がない。
席に座ると周囲の女子が小声で話す。
昼休みになっても誰も話しかけてこない。
いつも一緒にご飯を食べていた友達が、視線をそらす。
紬は言った。
「最初は気のせいだと思ったんです」
「でも」
「次の日も、その次の日も」
「誰も話してくれなくて」
紬の声が震える。
「教室にいるだけで苦しくて」
「昼休みも、ずっとトイレにいました」
青は最後まで聞いた。
途中で止めない。
否定もしない。
紬が話し終わるまで待つ。
そして言った。
「つらかったな」
その一言で。
紬の目から涙がこぼれた。
青は静かにティッシュを差し出す。
紬は涙を拭きながら言う。
「でも」
「どうしたらいいか」
「わからないんです」
青は少し考えた。
そして言った。
「じゃあ」
物語は次の一歩へ進もうとしていた。




