第31話 夏期講習(1)
# 第31話 夏期講習
夏休みに入った。
世間一般では、解放の季節と呼ばれるのかもしれない。
朝の情報番組では海だの花火だの旅行だの、楽しげな単語が次々に流れていたし、駅前のショーウィンドウにも涼しげな夏服が並んでいる。街全体がどこか浮き足立っていて、学生にとっての夏休みというものが、本来はそういう時間なのだと改めて思わされる。
だが、星嶺高校の三年生にとっては、必ずしもそうではない。
少なくとも、青にとっては違った。
夏休みに入っても、やることは変わらない。
朝早く起きて、必要な教材を鞄に入れて、学校へ向かう。
三年生向けの夏期講習。
星嶺高校では毎年、夏休みに希望制の講習が組まれる。特進コースの生徒は参加率が高く、とくに医学部志望や難関大志望の生徒は、ここでどれだけ積み上げるかが重要になる。
青にとっては、迷う理由がなかった。
東都大学医学部を目指す以上、受けないという選択肢は最初から存在しない。
朝の光はすでに強い。
駅から学校までの道を歩くだけで、じわりと汗がにじむ。蝉の鳴き声が遠くから聞こえ、空はやけに高く見えた。
けれど青は、夏らしい感慨に浸ることもなく校門をくぐる。
夏休み中の校舎は、普段とは違う静けさを持っていた。
部活の声はどこかから聞こえるものの、通常授業がある日のような人の多さはない。廊下も広く感じるし、昇降口もがらんとしている。
ただ、それでも教室へ近づくと、講習を受ける生徒たちの話し声が少しずつ混ざり始めた。
青は指定された教室の扉を開ける。
すると、すぐに明るい声が飛んできた。
「おはよう!」
黒金結愛だった。
窓際の席に座っていた彼女は、青の姿を見つけるなりぱっと表情を明るくした。夏らしく軽めにまとめた髪が揺れ、いつものように目立つ。教室の中でも、彼女の周りだけ少し空気が明るい気がするのは、たぶん気のせいではない。
「おはよう」
青が短く返す。
その隣から、もう一人声がした。
「おはよう、青」
雪城凛花。
青は少しだけ目を瞬かせた。
講習に申し込んでいること自体は不思議ではない。だが、以前の会話を思い出すと、彼女は外部の塾の夏期講習を受ける予定だったはずだ。
「……凛花も来てたのか」
「ええ」
凛花は静かにうなずく。
銀髪が肩の上でさらりと揺れる。その表情はいつも通り落ち着いているように見えたが、青にはほんの少しだけ硬さがあるようにも見えた。
「塾の夏期講習を受けるんじゃなかったのか」
その問いかけに、凛花の肩がぴくりと揺れた。
そして、わずかに視線を逸らす。
「その……」
珍しく言い淀む。
結愛が面白そうに横から眺めている。
凛花は耳の先を少し赤くしながら答えた。
「期末試験の結果が、あまり良くなかったから……」
「だから?」
「学校の講習を受けることにしたの」
青はそれを聞いて小さくうなずいた。
「そうか」
理屈としてはわかる。
塾の講習よりも、学校の講習の方が自分の弱点に合うと判断したのかもしれない。あるいは、学校の教材や進度の方が今の自分には必要だと考えたのだろう。
合理的な選択だ。
だが、結愛は違った角度から見ていたらしい。
じっと凛花を見つめたあと、少しだけ目を細める。
「凛花」
「な、なに?」
「期末テスト」
結愛はわざと間を置いた。
「わざと点落とした?」
「なっ……!」
凛花の顔が一気に赤くなる。
「そ、そんなことないじゃない!」
「ほんと?」
「本当よ!」
結愛は口元を押さえて笑う。
「だって、凛花が学校の講習に来るとか、ちょっと意外だったから」
「だからって、わざと点を落としたなんて、そんな子どもみたいなこと……」
そこで言葉が少し詰まる。
結愛の視線がさらにいたずらっぽくなる。
「へえ」
「な、何よ」
「別に?」
結愛はにやにやしている。
凛花は明らかに動揺していた。
青は二人のやり取りを聞きながら、別のことを考えていた。
(もし凛花が、わざと点を落としたなら……)
期末テストの順位を思い出す。
一位、黒金結愛。
二位、氷凪青。
三位、雪城凛花。
(俺が一位になるはずだ)
だが、実際にはそうなっていない。
ということは。
(俺の成績が落ちてる……?)
青の中で、一つの結論が導き出された。
思考は一気に現実味を帯びる。
(まずい)
期末で二位だったこと自体は、冷静に見れば十分高い成績だ。だが、青にとって大事なのは絶対評価ではない。東都大学医学部を狙う以上、現状維持で満足している場合ではない。
(このままじゃだめだ)
(勉強量を増やす必要がある)
そう考えた瞬間、青の表情がわずかに険しくなった。
それに結愛がすぐ気づく。
「青?」
「……」
「どうしたの?」
結愛が顔をのぞき込んでくる。
近い。
しかも、心配そうな顔をしているから余計に視線の置き場に困る。
「顔色悪いよ」
「大丈夫だ」
「全然大丈夫そうじゃないけど」
「問題ない」
青はそう言いながらも、内心ではかなり焦っていた。
その様子を見た凛花が、少しだけ身を乗り出す。
「青、本当に平気?」
「……ああ」
左右から同時に心配される形になり、青はわずかに黙った。
結愛はすぐ目の前にいるし、凛花も真剣な目で見てくる。
意味もなく落ち着かない。
「ほんと?」
「無理してない?」
二人の声が重なる。
青は数秒考えたあと、短く言った。
「少し、勉強不足だと思っただけだ」
その答えに、結愛は目を丸くし、凛花は一瞬固まった。
そして次の瞬間。
「えっ」
結愛が吹き出した。
「ちょ、何それ」
「青、それでそんな顔してたの?」
凛花も、さすがに予想外だったのか、まばたきをしている。
「……変か?」
「変っていうか」
結愛は笑いをこらえきれないように肩を揺らした。
「真面目すぎでしょ」
「二位で勉強不足って言われたら、私たちどうなるのよ」
凛花が小さくため息をつく。
「赤点組」
結愛が言う。
「いや、結愛は一位だろ」
「そうだった」
「自分で忘れないで」
凛花のツッコミは静かだが的確だった。
結愛はけらけら笑いながら、なおものぞき込んでくる。
「でもよかった。体調悪いのかと思った」
「心配させたなら悪い」
「うん、心配した」
あっさりそう言われ、青は一瞬言葉に詰まった。
結愛はこういうところで躊躇がない。
凛花も小さくうなずく。
「私も」
今度は青が黙る番だった。
ただ心配されただけ。
それ以上でも以下でもない。
なのに、なぜか返事に困る。
青が何も言えずにいると、結愛がくすっと笑った。
「青、照れてる?」
「違う」
「じゃあ何で黙るの」
「別に」
「その返し便利すぎ」
そこへ、担当教師が教室に入ってきた。
「おーい、席つけ。講習始めるぞ」
教室の空気が切り替わる。
生徒たちが一斉に自分の席へ戻っていく。
結愛は最後に青を見て、にこっと笑った。
「あとでまた聞くね」
「何をだ」
「いろいろ」
意味深にそう言って、自分の席へ向かった。
凛花も静かに席に着く。
青は少しだけ息を吐いてから、ノートを開いた。
夏期講習が始まる。
黒板に数式が並び、教師の説明が続く。
エアコンの風がかすかに音を立て、窓の外では蝉が鳴いていた。
夏だった。
◇
講習は午前中で終わった。
だが、教室にはそのまま残る生徒も多い。自習をする者、質問をしに行く者、友人と昼を食べる者。通常授業のない夏休みだからこそ、時間の使い方にそれぞれの個性が出る。
青は問題集を閉じて、ひとまず帰る準備をしていた。
すると、横から声がかかる。
「ねえ、青」
結愛だった。
「何だ」
「このあとちょっと時間ある?」
「ある」
「じゃあ、少しだけ」
結愛の声音は、いつもの明るさの中に少しだけ慎重さが混ざっていた。
青はそれで察する。
軽い雑談ではないのだろう。
教室を見ると、他の生徒は少しずつ減り始めている。葉山はそもそも講習を受けていないし、星崎も別の予定があると言っていた。
残っているのは、青と結愛と、そしてまだ席でノートを整理している凛花くらいだった。
結愛は一度だけ視線をさまよわせ、それから口を開く。
「その……妹ちゃん」
青の手が止まった。
「入院してるんだって?」
やはりその話か。




