第29話 七月の空気(2)
振り向くと、そこには雪城凛花が立っていた。
昼休みになると、生徒会の用事や他クラスからの相談で席を外していることも多い彼女だが、今日は教室にいたらしい。長い銀髪がさらりと揺れ、その整った顔立ちには、いつもの凛とした空気がある。
ただ、その表情にはほんの少しだけ迷いも見えた。
「雪城?」
葉山が目を瞬かせる。
凛花は結愛を見て、それから青へ一瞬だけ視線を移し、少し控えめに言った。
「わたしも……一緒に勉強したい」
一瞬、空気が止まった気がした。
葉山がわかりやすく反応する。
「おお」
星崎も「へえ」と意味ありげな声を漏らした。
結愛は数秒きょとんとしたあと、ぱっと笑顔になる。
「ほんと? いいじゃん!」
その反応は明るく自然で、裏がなかった。結愛は元々そういうところがある。人を輪の中に入れることに躊躇がない。
「凛花も一緒にやろ」
「……うん」
凛花は小さくうなずく。
その仕草は相変わらず控えめだが、どこか嬉しそうでもあった。
「生徒会長まで参加する勉強会って、急にレベル高くない?」
葉山が冗談めかして言う。
「じゃあ颯、来なくていいよ」
星崎が即答する。
「ひどい!」
「どうせふざけるでしょ」
「多少はね」
「認めるんだ」
軽口が交わされる中、結愛と凛花の視線は自然と同じ方向を向いた。
氷凪青。
二人とも、最終的な返事を待っている。
青は机の上の教科書に視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
わずかな間。
だが、結愛にはその沈黙がいつもより長く感じられた。
「青?」
結愛が呼ぶ。
青はゆっくり顔を上げた。
その表情はいつもと大きく変わらない。無表情に近く、落ち着いていて、余計な感情を見せない。
けれど、近くにいた結愛と凛花は、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
何かを考えているような、あるいは一瞬だけ言葉を選んでいるような、そんな小さな間だった。
「……ごめん」
青は静かに言った。
「週末はだめなんだ」
それだけ。
理由の説明も、言い訳もない。
短く、きっぱりとした断りだった。
結愛が目を瞬かせる。
「そっか」
口ではそう言えた。けれど、少しだけ胸の奥がきゅっとした。
楽しみにしていた、というほどではない。いや、たぶん少しはしていた。青と一緒に勉強できたらいいなと思っていたし、凛花も交えてみんなで集まるのも、きっと楽しいと思っていた。
だからこそ、あっさり断られると、わずかに寂しい。
「……そう」
凛花も小さく言った。
表情は崩さない。けれど、声がほんの少しだけ弱かった。
葉山が空気を読んだのか、珍しく軽口を挟まなかった。
星崎も、何も言わない。
沈黙が落ちる。
青はその沈黙を長引かせるつもりはなかったのだろう。鞄を手に取ると、椅子を引いた。
「先に帰る」
「あ、うん」
結愛が反射的に答える。
「また明日」
「……ああ」
青は短く返し、そのまま教室の後ろの扉へ向かった。
凛花が一瞬だけ「青」と呼びかけかけた気がしたが、声になる前にその背中は遠ざかっていく。
扉が開いて、閉まる。
それだけのことなのに、教室の空気が少しだけ静かになった。
「……忙しいのかな」
結愛がぽつりと言った。
「青、いつもなんか忙しそうだよな」
葉山が頬杖をつく。
「勉強とか?」
星崎が首をかしげた。
「でも青って、いつも勉強してるイメージあるし、今さら週末全部だめって感じでもなくない?」
「たしかに」
結愛はそう答えながら、さっきの青の表情を思い出していた。
大きく変わっていたわけではない。
けれど、ほんの少しだけ、視線を落としていた。
いつもの青なら、もっと事務的に断る気がする。
たとえば『用事がある』とか『無理だ』とか、それだけ言って終わるはずだ。なのに、さっきは妙に慎重だった。
まるで、触れられたくない何かを避けるみたいに。
「結愛?」
星崎に呼ばれ、結愛ははっと顔を上げた。
「あ、ごめん」
「何考えてたの?」
「別に」
そう言って笑ってみせる。
だが、隣にいた凛花は結愛以上に、青の様子を注意深く見ていた。
彼女は元々、人の感情の機微に敏感な方ではない。むしろ、自分の気持ちすらうまく言葉にできないことが多い。けれど、氷凪青に関してだけは、不思議と小さな違和感が心に残ることがある。
体育祭のあと、校門まで送ってくれたときもそうだった。
普段と変わらないようでいて、どこか深いところに何かを沈めているような目をしていた。
今日も同じだった。
「雪城?」
葉山の声に、凛花は我に返る。
「どうした?」
「え……?」
「なんか考え込んでたから」
「いえ……何でもないわ」
そう言って席につく。
けれど、本当に何でもないわけではなかった。
青には時々、見えない壁のようなものがある。
近づけたと思った次の瞬間には、するりと距離を戻してしまうような、静かな壁。
それを無理に壊したいとは思わない。
でも、少し気になった。
彼が何を抱えているのか。
なぜ時々、あんな目をするのか。
知りたいと思うこと自体が、もう十分すぎるほど特別な感情なのだと、凛花はまだ半分も自覚していなかった。
「まあ、勉強会はまた別の日でもいいんじゃね?」
葉山が空気を変えるように言う。
「そうだね」
結愛も頷いた。
「平日の放課後とかでもいいし」
「教室残る?」
星崎が聞く。
「図書室でもいいかも」
「それだと真凛寝そう」
「寝ないし」
「いや寝る」
少しずつ、いつもの調子が戻ってくる。
けれど青がいなくなった後の空気には、どこか小さな空白が残っていた。
それは彼の存在感が大きいから、というだけではない。
普段は必要以上に目立たず、口数も少なく、集団の中心にいるようなタイプでもないのに、いなくなると妙に静かに感じる。
氷凪青という人間は、そういう形で周囲に影響を残す。
本人はきっと気づいていないだろうが。
◇
教室を出た青は、そのまま人気の少ない廊下を歩いていた。
窓の外には、夏らしい光が広がっている。グラウンドからは運動部の声が聞こえ、どこか遠くでホイッスルの音もした。
体育祭のときと比べれば、空の高さが少し変わった気がする。
季節は確かに進んでいる。
青は足を止めず、階段へ向かった。
通り過ぎる教室からは、同じような会話が漏れてくる。
「今日部活最後なんだよな」
「うわ、泣きそう」
「その前に期末終わってほしい」
「無理だろ」
ありふれた日常の音だ。
それを聞きながら、青は静かに視線を落とした。
週末はだめなんだ。
それは事実だった。
だから嘘はついていない。
けれど、詳しく説明するつもりもなかった。
説明すれば余計な心配をかけるかもしれないし、そもそも自分の事情を人に話すのは好きではない。
必要がないことは言わなくていい。
それが、青の基本だった。
それでも、さっき結愛と凛花が一瞬だけ見せた表情は頭に残った。
結愛はわかりやすく少し残念そうで、凛花は表情こそ変えなかったものの、声がわずかに沈んでいた。
断ること自体に問題はない。
そう考える。
勉強会より優先すべき用事があるなら、そちらを優先するのは当然だ。
合理的に考えれば、それで終わりだ。
なのに、なぜか小さな引っかかりが残る。
青はそれを深く考えないようにした。
考えたところで意味はない。
自分がやるべきことは、最初から決まっている。
階段を下り、一階へ出る。
昇降口には、すでに帰り支度を始めている生徒たちが何人かいた。部活へ向かう者、委員会へ向かう者、まっすぐ帰る者。みんなそれぞれの日常を持っている。
青も靴を履き替え、校舎の外に出た。
むっとするような熱気が肌に触れる。
七月の空は明るく、雲の輪郭はくっきりしていた。
校門へ続く道を歩きながら、青はふと空を見上げる。
青い。
ただ、それだけだ。
それ以上の感想は特にない。
けれど、こうして空を見上げるのは嫌いではなかった。考えなくていいからかもしれない。
「氷凪くん」
不意に背後から声をかけられ、青は振り返った。
そこにいたのは同じクラスの男子で、体育祭の全員リレーで一緒に走った生徒だった。
「この前は助かった。最後、マジでかっこよかったわ」
「別に」
「いや、別にじゃないって。A組優勝できたの、氷凪くんのおかげもあるし」
「クラス全員で取った結果だ」
「そういうとこだよなあ」
男子は苦笑しながら手を振った。
「じゃ、また明日」
「ああ」
短いやり取り。
それだけで終わる。
青はそのまま歩き出した。
体育祭以降、自分に話しかけてくるクラスメイトは少し増えた気がする。けれど、急に交友関係が広がったわけではないし、それを望んでいるわけでもない。
今のままで十分だ。
葉山がいて、結愛がいて、凛花がいて、紬がいて、如月がいて。
自分の周囲には以前より確かに人が増えた。
そのこと自体は、事実として認識している。
だが、それが自分にとってどういう意味を持つのか、青はまだはっきり言葉にできていなかった。
恋愛に興味はない。
他人と必要以上に深く関わるつもりもない。
ただ、困っている人は放っておけない。
それだけのはずなのに、気づけば少しずつ、自分の日常に他人の存在が入り込んでいる。
結愛の明るさも、葉山の騒がしさも、凛花の不器用な真面目さも、もうすっかり見慣れたものになっていた。
それを心地いいと認めるのは、まだ少し違う気がする。
けれど、鬱陶しいと思わない時点で、たぶん以前とは違っている。
校門の外に出たところで、青は一度だけ立ち止まった。
背後には星嶺高校の校舎。
七月の光を浴びて、白い壁がまぶしく見える。
三年生の夏。
部活を終える者がいて、期末テストを前に焦る者がいて、体育祭の余韻をまだ引きずっている者もいる。
たぶん、皆それぞれに何かを抱えながら、日常を進めている。
青は鞄の持ち手を握り直した。
「……」
声には出さない。
ただ、そのまま静かに歩き出す。
どこへ向かうのかを、わざわざ説明する相手はいない。説明する必要もない。
蝉の鳴き声が、どこかで聞こえ始めていた。
いよいよ夏が来るのだと、そんなことを思う。
その夏が、自分にとってどんな意味を持つのかはまだわからない。
だが少なくとも、平穏なだけでは終わらない予感があった。
体育祭が終わっても、日常は止まらない。
むしろ、ここからまた新しく何かが動き始める。
そんな曖昧な予感だけを胸の奥に残して、氷凪青は七月の街へと足を進めた。
教室では今ごろ、葉山がまた騒いで、星崎が呆れ、結愛が笑い、凛花が静かにその輪の中にいるのだろう。
その光景が自然に頭に浮かぶ自分に、青はほんの少しだけ違和感を覚えた。
以前なら、教室を出た瞬間にすべてを切り離せていたはずだ。
なのに今は、置いてきた空気が背中に少しだけ残っている。
それが何なのか、名前をつけるつもりはなかった。
つけたところで意味はない。
大事なのは、目の前のことだ。
今やるべきことをやる。
余計なことは考えない。
そう決めている。
それでも、昼休みの最後に見た二人の表情だけは、妙にはっきりと脳裏に残っていた。
結愛の、少しだけ残念そうな笑顔。
凛花の、言葉にならない沈黙。
青はわずかに目を伏せ、それから何もなかったように前を向く。
空は高く、光は強く、季節は止まらない。
七月が始まったばかりだった。




