第17話 恋人の証明
# 第17話 恋人の証明
夕暮れの帰り道を、氷凪青と黒金結愛は並んで歩いていた。
昨日よりも距離は近い。
いや、近いどころではない。
結愛は青の腕にしっかりと抱きつき、体を寄せるようにして歩いている。制服越しでも伝わる柔らかさと体温に、青は表情を変えないよう努めながら、内心では落ち着かないままだった。
結愛は小声で聞いた。
「……青」
「なんだ」
「まだいる?」
青は前を向いたまま、周囲の反射や電柱の影、一定の歩幅でついてくる気配を探る。
「いる」
結愛の腕に、わずかに力が入った。
「やっぱり」
「昨日と同じくらいの距離だ」
「どのへん?」
「後ろ二十メートル前後。建物や電柱に隠れながらついてきてる」
青の声は低く、いつも通り落ち着いていた。
その冷静さが、今の結愛にはありがたかった。
一人でいたら、この時点でもう振り返ってしまっていたかもしれない。けれど青が隣にいると、不思議と恐怖が少しだけ薄れる。
結愛は息を吐いた。
「ほんと、気持ち悪いわね」
「そうだな」
「青、やっぱり今日やるの?」
「やる」
即答だった。
青は少しだけ結愛の方に視線を向ける。
「相手が嫉妬型なら、決定的な場面で出てくる可能性が高い」
「今日で終わらせる」
その言葉に、結愛の胸が少し熱くなる。
青はきっと、こういう時に格好つけようとして言っているわけではない。
本当に、ただ必要だからそう言っているだけだ。
だからこそ、余計にずるいと思う。
「……言うことだけはイケメンなのよね」
「何か言ったか」
「別にー」
結愛はそう返しながら、ちらりと前方を見る。
少し先に小さな公園が見えた。
住宅街の中にある、ごく普通の公園。夕方のこの時間は、もう遊んでいる子供の姿もない。ベンチが二つ、ブランコと滑り台があるだけの静かな場所だ。
結愛が小さく言う。
「あそこの公園にしよ」
青も見て、短く答えた。
「いいな」
「人目も少ない」
「でしょ」
二人はそのまま公園の中へ入った。
砂場の横を通り、木陰に近いベンチに座る。
夕暮れの風が少しだけ冷たい。
遠くでカラスの鳴く声がして、日が沈みかけた空が公園全体を淡く染めていた。
結愛は青の隣に座りながら、さっきまで絡めていた腕をようやく離した。
少し名残惜しい気もしたが、今は作戦の途中だ。
青はさりげなく周囲を確認している。
公園の入り口、遊具の陰、植え込み、奥の茂み。
誰かが隠れるとしたら、あの辺りだろうと目星をつけているのがわかった。
「緊張してる?」
結愛が聞くと、青は少しだけ間を置いた。
「してないとは言わない」
「へえ」
結愛は口元を緩める。
「青でも緊張することあるんだ」
「ある」
「意外」
「そうか」
「だって普段、何あっても平然としてるじゃん」
「そう見えるだけだ」
青は淡々と言ったが、その横顔は少しだけ強張っているようにも見えた。
結愛はその表情を見て、少しだけ嬉しくなる。
自分との作戦で、青もちゃんと意識している。
そう思うと、恐怖とは別の意味で心臓がうるさかった。
「ねえ、青」
「なんだ」
「もし今日で終わったらさ」
「うん」
「ちょっとご褒美ほしい」
青が眉をひそめる。
「ご褒美?」
「そう」
「何だ」
結愛は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「考えとく」
「今決まってないのか」
「決まってないけど、青なら何くれるかなーって」
「物で済むなら安いな」
「え、なにそれ。ケチ」
「現実的だ」
結愛はくすっと笑った。
こうして他愛のない会話をしていると、少しだけ空気が和らぐ。
それは青も同じらしく、さっきまでより肩の力が抜けているようだった。
結愛はベンチの背にもたれながら空を見上げる。
「青ってさ」
「なんだ」
「ほんと不思議」
「どこが」
「こういう時、普通の男子ならもっと慌てたり、変に格好つけたりするでしょ」
「そうかもしれない」
「でも青は、淡々としてるのに、ちゃんと助けてくれる」
少しだけ間を置いて、結愛は笑った。
「めっちゃずるい」
青は首を傾げる。
「褒めてるのか?」
「褒めてる」
「そうか」
「そこは『ありがとう』でしょ」
「慣れてない」
「またそれ?」
「事実だ」
結愛はまた笑った。
こんな状況なのに、笑える自分が不思議だった。
でもたぶん、隣にいるのが青だからだ。
少しの沈黙が落ちる。
風が木の葉を揺らした。
その時、青が低く言った。
「来てる」
結愛の背筋がぴんと伸びる。
「……どこ」
「奥の茂み」
青は目線だけで示した。
「多分、こっちを見てる」
結愛は小さく息を呑んだ。
怖い。
けれど同時に、ここで終わらせたい気持ちも強い。
青は言った。
「予定通りでいく」
「……うん」
結愛は頷いた。
自分の膝の上で、手が少し震えているのがわかった。
そんな手の上に、青の手がそっと重なる。
結愛は目を見開いた。
「青……」
「大丈夫だ」
短い一言。
それだけで、不思議と震えが少しだけ収まった。
結愛は小さく笑う。
「そういうの、ほんとずるい」
「何がだ」
「なんでもない」
青は手を離す。
そしてわずかに身を乗り出した。
結愛の鼓動が一気に速くなる。
これは作戦だ。
わかっている。
わかっているのに、意識しない方が無理だった。
結愛は小さな声で言った。
「青」
「なんだ」
「そろそろいいよ」
青は結愛を見る。
結愛は目を閉じた。
「して」
唇が震えないようにするのが精一杯だった。
青は一瞬だけ黙る。
そして低く、少し掠れた声で言った。
「……結愛」
その呼び方だけで、胸が締め付けられる。
青の顔が近づいてくる。
息がかかるくらいの距離。
結愛はぎゅっと目を閉じたまま、自分の心臓の音だけを聞いていた。
——出てくるなら、今。
青も同じことを考えているはずだ。
ストーカーが独占欲型なら、ここで反応する。
そう頭では理解している。
けれど、あと少しで触れそうな距離まで青が近づくと、そんな理屈は全部吹き飛びそうになった。
次の瞬間。
「やめろーーー!!」
公園の静けさを破る叫び声が響いた。
茂みが大きく揺れ、そこから一人の男子生徒が飛び出してくる。
「ぼ、僕の結愛ちゃんに近づくな!!」
結愛は目を開け、青も顔を上げた。
想定通り。
だが実際に出てこられると、気持ち悪さの方が先に立つ。
青はすぐに立ち上がり、結愛を背後にかばった。
「……やっぱり出てきたな」
男子生徒は肩で息をしながら、怒りと焦りの混ざった目で青を睨みつけている。
「お前、昨日といい今日といい!」
「結愛ちゃんのなんなんだよ!」
青は一歩前に出て言った。
「俺は結愛の彼氏だ」
その言葉に、結愛の顔が一瞬で熱くなる。
作戦だとわかっている。
わかっているのに、その言葉は反則だった。
男子生徒は目を見開いた。
「嘘つけ!」
さらに青の顔をよく見て、表情を変える。
「……あ」
「お前……氷凪先輩だな」
青は黙ったまま相手を見る。
男子生徒は混乱したように言葉を続けた。
「氷凪先輩、二年の椎名さんと付き合ってるじゃないか!」
「二股か!?」
「結愛ちゃん! こいつ二股してるよ!」
結愛は目をぱちぱちさせる。
だが青は冷静だった。
「いや、あれは——」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
「事情があって、付き合ってるふりをしていた」
男子生徒は激しく首を振った。
「嘘だ!」
「椎名さん、あんなに楽しそうだったじゃないか!」
「楽しそうだったのは否定しない」
「否定しろよ!」
思わず結愛がツッコミそうになったが、今は堪えた。
その代わり、男子生徒の顔をじっと見つめる。
どこかで見たことがある。
怒った顔の奥に、見覚えのある輪郭。
「……あれ?」
結愛は小さく首を傾げた。
「君、もしかして」
男子生徒がびくっと肩を揺らす。
「この前の子じゃない?」
「二年の佐藤くんでしょ?」
男子生徒——佐藤は目を丸くした。
「え……覚えてくれてたんですか」
「そりゃ覚えてるわよ」
結愛は少し身を乗り出した。
「校舎裏で同じ高校の男子と喧嘩してたじゃん」
「止めたの、私だし」
青が横目で結愛を見る。
「喧嘩?」
「うん」
結愛はあっさり頷いた。
「なんか同学年っぽい男子と揉めててさ」
「見てられなかったから止めただけ」
そして軽く拳を握って、えへんと胸を張る。
「こう見えて私、喧嘩強いから」
ガッツポーズまでしてみせる。
青は少しだけ間を置いて言った。
「……そうか」
「その反応なによ」
「いや、納得した」
「どこに?」
「結愛なら止めそうだ」
その言い方が妙に自然で、結愛は少しだけ照れた。
だが今はそれどころではない。
結愛は再び佐藤に向き直る。
「じゃあ」
「手紙と写真、佐藤くんだったんだ」
今度の笑顔は、まったく笑っていなかった。
佐藤は一瞬たじろぐ。
「そ、それは……」
「はい」
観念したようにうつむき、それから顔を上げた。
「でも、悪気はなくて!」
「黒金先輩を見てたくて!」
「好きで好きで仕方なくて!」
その言葉に、青の目がわずかに細くなる。
結愛ははっきりと言った。
「それ、悪気ないで済む話じゃないから」
佐藤は怯んだが、それでも必死に言葉を続けた。
「だ、だって……あの日、助けてもらって」
「僕、あの時ほんとに嬉しくて」
「黒金先輩、すごくかっこよくて」
「それで……」
言い淀む。
だが次の瞬間、勢いのまま叫んだ。
「僕、黒金先輩が好きです!」
「付き合ってください!」
公園に、ひどくまっすぐな告白が響いた。
青は黙っている。
結愛もすぐには答えなかった。
ほんの数秒の沈黙。
夕方の風だけが吹く。
やがて結愛は、きっぱりと言った。
「ごめんね」
「今、青と付き合ってるから」
佐藤は顔を歪めた。
「嘘だ!」
「それ、付き合ってるふりですよね!?」
青の方を指さす。
「さっきだって、止めに入らなかったらキスしてなかった!」
「そんなの証拠にならない!」
その言葉に、結愛は少しだけ考えるように青を見た。
青は嫌な予感がした。
「……結愛」
「なに?」
「まさか」
「そのまさか」
結愛はにっこり笑った。
嫌な予感は当たる時ほど当たる。
青が言葉を続ける前に、結愛は青の制服の胸元を軽く掴んだ。
「嘘じゃないよ」
佐藤に向かってそう言いながら、結愛は青を引き寄せる。
そして——
青の唇に、自分の唇を重ねた。
一瞬。
ほんの一瞬のはずなのに、時間が止まったように感じた。
青の思考が完全に止まる。
「…………っ!?」
声にならない。
体が固まる。
結愛が離れると、青はまばたきすら忘れたようにそこに立っていた。
佐藤は目を見開いたまま、数秒遅れて悲鳴みたいな声を上げる。
「わあああああ!? や、やめてください!!」
半泣きだった。
結愛はそんな佐藤に向かって、少しだけ大人びた笑みを浮かべる。
「私ね」
「自分より強い人が好きなの」
そう言って、隣の青を親指で示した。
「だから、佐藤くんはまず青より強くなって」
「そしたら、また告白してきて」
佐藤は唇を震わせた。
「む、無理です……」
「だろうね」
結愛はあっさり言った。
「でも、もう手紙とか写真とか、つけたりとかはダメ」
「次やったら本気で怒るから」
その声色は、いつもの明るい結愛ではなかった。
佐藤は完全に圧されていた。
「はい……」
泣きそうな声で返す。
そして最後にもう一度だけ青を見た。
悔しそうで、情けなさそうで、でもどこか諦めた目だった。
「……わあああ」
結局、そんな情けない声を上げながら、佐藤は走って公園を出ていった。
その背中を見送りながら、結愛は小さく息を吐いた。
「……終わった?」
青はまだ固まっている。
「青?」
返事がない。
「おーい」
結愛が顔の前で手を振る。
「青ー?」
そこでようやく、青がびくっと肩を揺らした。
「わっ……」
「びっくりした」
「いや、こっちが言いたいんだけど」
結愛は呆れたように笑う。
「なによ、そんなに嫌だった?」
青は視線を泳がせた。
「嫌とかじゃない」
「じゃあなに?」
「……キスのふりだけの約束だっただろ」
結愛は少し目を丸くしてから、吹き出した。
「なにそれ」
「ふりだけじゃ、あの感じだと納得しなかったでしょ」
「それは、そうだが……」
「じゃあ必要経費」
「キスは経費に入らないと思う」
「細かい男はモテないぞー」
「別にモテなくていい」
青はそう言ったが、耳まで赤くなっている。
結愛はその様子が可笑しくてたまらなかった。
「青さ」
「なんだ」
「もしかして」
「なんだ」
「ファーストキスだった?」
青は一瞬黙った。
そして、観念したように言う。
「……そうだが」
結愛の目が大きくなる。
「えっ」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「うそ、ちょっと待って」
結愛は急に顔を赤くした。
さっきまで余裕ぶっていたのに、急に自分の方が動揺してくる。
青は視線を逸らしたまま続けた。
「その……」
「初めてが俺だったら悪いと思った」
結愛は思わず吹き出した。
「ぷっ」
「なにそれ」
「やさしすぎでしょ」
「笑うところか?」
「だって真顔で言うんだもん」
そして少しだけ胸が痛くなるくらい、嬉しかった。
自分のことより、相手の“初めて”を気にする。
そういうところが、ほんとうに青らしい。
結愛は咳払いして、少しだけ強がるように言った。
「ファーストキスだと思った?」
「……違うのか」
「違うから、心配しないで」
青は少しだけ肩の力を抜いた。
「そうか」
「うん」
だがその直後、結愛の心の中で別の声が叫んでいた。
(うそです)
(私も初めてです)
(むしろめっちゃファーストキスです!)
もちろん口には出さない。
出せるわけがない。
そんなことを言ったら、今度こそ青が固まるどころでは済まない気がした。
結愛は熱くなった頬を誤魔化すように、ベンチの背にもたれた。
心臓がまだうるさい。
唇に残った感触が、今さらになって意識される。
自分からしたくせに、思い出した途端に恥ずかしくなってきた。
「……でも」
結愛が小さく言う。
「結果的にはうまくいったでしょ」
青も少しだけ落ち着きを取り戻したのか、冷静な声に戻る。
「そうだな」
「佐藤の行動は止まる可能性が高い」
「高い、じゃなくて、絶対止まるって」
「なぜそう言い切れる」
「だって最後、完全に心折れてたもん」
「そうか」
「そうなの」
結愛は笑った。
さっきまで感じていた不快な恐怖は、もうかなり薄れていた。
完全に消えたわけではない。
でも少なくとも、正体もわからないまま怯えていた時よりはずっとマシだ。
「……ありがとね、青」
「何がだ」
「助けてくれて」
青は少しだけ目を細める。
「相談を受けたから対応しただけだ」
「それを普通にできるのがすごいの」
「そうか」
「ほんと、そこだよ」
結愛は苦笑する。
青は相変わらず、自分がどれだけ人を救っているかをわかっていない。
けれど、その無自覚さごと好きになってしまっている自分がいる。
結愛は立ち上がった。
「じゃ、帰ろっか」
青も立ち上がる。
公園の外を見ると、空はもうかなり暗くなり始めていた。
二人は並んで歩き出す。
さっきまでのように腕を組むか少し迷って、結愛は結局また青の腕に手を回した。
青がちらりと見る。
「まだやるのか」
「恋人のフリ、続行中ですー」
「もう必要ないだろ」
「いいの」
「よくない」
「じゃあ離してほしい?」
そう聞くと、青は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……別に、そうは言ってない」
結愛は目を丸くして、それからにやっと笑う。
「へえ?」
「うるさい」
「もしかして慣れてきた?」
「慣れてない」
「じゃあ我慢してる?」
「……」
「図星だ」
「結愛」
「はいはい、からかいすぎましたー」
結愛はくすっと笑う。
青の反応が少しずつ増えてきたのが、妙に嬉しかった。
それはきっと、自分との距離が少しだけ縮まった証拠だと思えたから。
住宅街へ続く道を、二人はゆっくり歩いていく。
夕暮れはもう夜に変わり始めていた。
ストーカーの影は、もうどこにも見えない。
その事実に、結愛は心の底から安堵する。
そして同時に、少しだけ寂しいとも思った。
この“恋人のフリ”が終わってしまったら、また前みたいな距離に戻ってしまうのだろうか、と。
そんな考えを誤魔化すように、結愛は明るく言った。
「ねえ青」
「なんだ」
「今日のこと、紬ちゃんには言わないでね」
青がわずかに眉をひそめる。
「なぜ紬が出てくる」
「いや、なんか面倒なことになりそうだから」
「確かに」
「でしょ?」
「でも隠す必要があるか?」
「ある!」
結愛は即答した。
その勢いに、青が少しだけ目を見開く。
「……わかった」
「うん、よろしい」
結愛は満足そうに頷いた。
その横で青は、まだ少しだけ唇に残る感触を意識していた。
だが、それを口に出すことはなかった。
口に出したら最後、結愛にまた何を言われるかわからない。
だから青はただ前を向いて歩く。
結愛はそんな青の横顔を見ながら、そっと微笑んだ。
今日のキスは作戦だった。
そう。
あくまで作戦。
——そのはずなのに。
唇に残った熱だけは、どうしても作戦では片づけられそうになかった。
その夜以降、佐藤による結愛への手紙や写真、帰り道での尾行はぴたりと止まった。
少なくとも、ひとまず事件は終わったのだとわかるには十分だった。
けれど、結愛の中では別の問題が新しく始まっていた。
氷凪青との距離が、前より少しだけ近くなってしまったこと。
そして、その距離をもう前のようには戻したくないと、はっきり思ってしまったこと。
夕暮れの道を並んで歩きながら、結愛は誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「……ほんと、ずるい」
「何か言ったか」
青が聞き返す。
結愛はすぐに笑って首を振った。
「ううん。なんでもない」




