第1話 高校三年生の春
# 第1話 高校三年生の春
四月。
春という季節は、どうにも落ち着かない。
新しい教科書。新しいクラス。新しい担任。新しい人間関係。
そんなものに胸を躍らせられる人間もいるのだろうが、少なくとも俺は違う。変化というのはたいてい面倒で、余計なことを運んでくる。
だから、毎年この時期になると、校門へ続く坂道をのぼる足取りは自然と重くなる。
私立星嶺高等学校。
関東でも有名な進学校。東都大学、難関国立、国公立医学部、私立医学部、さらには法学部の名門まで、毎年のように多数の合格者を送り出す学校だ。
星嶺には大きく三つのコースがある。
東都大学や京央大学、医学部、法学部最難関を目指す特進コース。
早慶上理や上位国公立を狙う進学コース。
そして、難関私大を中心に堅実な進路を目指す普通コース。
自由な校風で知られているが、それは放任という意味ではない。髪型や持ち物には比較的寛容でも、成績だけは別だ。模試の結果、校内順位、志望校判定。そういう数字が、当たり前のように生徒の価値を測る材料として扱われる。
進学率は、ほぼ百パーセント。
落ちこぼれることが許されない学校。
青春よりも結果。
理想よりも実績。
校門脇に立つ石碑には、建学以来変わらず、こう刻まれている。
――努力は才能を越える。
もっとも。
この学校に入って一年も過ごせば、その言葉を手放しで信じている生徒なんてほとんどいなくなる。
才能のある連中が、誰よりも努力している。
それが現実だ。
校舎は無駄に立派だった。
ガラス張りの中央棟に、特進コース専用の自習室がある学習棟。蔵書数を誇る図書館棟は、ちょっとした大学並みだとパンフレットに書かれていた。体育館も二つ、グラウンドも広い。中庭には噴水まである。
受験生のくせに青春映画の舞台にでもなりたいのか、と毎年思う。
だが、そうした見栄えのいい施設も、結局は「星嶺ブランド」の一部に過ぎない。保護者や受験生に見せるための分かりやすい強さ。そして、その内側では毎日、もっと地味で、もっと容赦のない競争が行われている。
春休み明けの正門前は、生徒であふれていた。
新しいクラス表が張り出されているせいだ。
掲示板の前には、クラス分けを確認する生徒たちのざわめきが渦を巻いている。
「やば、B組だ。終わった……」
「いや逆にいいじゃん、A組とか空気重すぎるって」
「今年の担任、誰だろ」
「特進Aの先生って如月先生らしいよ」
「マジで? あの先生美人だよな」
「分かる。しかも真面目で厳しいのがいい」
「説明上手いし、無駄に声きれいなんだよな」
「お前それ去年も言ってた」
「男子人気高いよな、あの先生」
そんな会話があちこちから聞こえてくる。
俺は人混みの隙間から掲示を見上げ、自分の名前を探した。
三年A組。
氷凪青。
予想通り、特進コースの最上位クラスだ。
名前の近くを視線で追うと、見慣れた名字が並んでいる。
葉山颯。
雪城凛花。
黒金結愛。
……面倒そうだな。
そう思ったところで、背後から肩を組まれた。
「おはよ、青。相変わらずテンション低っ」
葉山颯。
長身で、整った顔立ちに人懐っこい笑みを浮かべる、いわゆる陽キャだ。初対面の相手とも平然と距離を詰め、男女問わず顔が広い。本人は軽薄に見えるが、要領がよく、頭の回転も早い。成績は上位。なのに授業中も休み時間も無駄に騒がしい。
俺とは正反対の人間だ。
「腕、重い」
「冷たっ。新学期初日くらい優しくしてくれてもよくない?」
「してる」
「今のが?」
葉山は大袈裟に肩を落としたあと、掲示板を見上げた。
「お、やっぱ同じクラスじゃん。しかも雪城さんも黒金さんもいる。だいぶ濃いな」
「そうだな」
「青、絶対興味ない顔してるけど」
「ないし」
「即答かよ」
興味がない、というより、関わる理由がない。
俺は人付き合いが嫌いというわけじゃない。必要な会話はするし、頼まれごとを断れないこともある。ただ、それ以上を求められると面倒になる。余計な感情や気遣いや、そういうものに割く時間がもったいない。
今の俺に必要なのは、受験に向けた環境だけだ。
それ以外は、できるだけ静かな方がいい。
「ま、今年もよろしく頼むわ。二位様」
「その呼び方やめろ」
「じゃあ氷の王子」
「もっとやめろ」
葉山が笑う。
こういう軽口に付き合っている時間すら、どこか無駄に思えてしまう自分がいる。
けれど、こいつのこういう無遠慮さが、時々ありがたいのも事実だった。
そのとき、ざわめきの向こうで少しだけ空気が変わった。
自然と人の視線が一方向へ流れていく。
俺もつられてそちらを見る。
銀髪の少女が、掲示板の前に立っていた。
雪城凛花。
腰まで伸びた艶のある銀髪。整った横顔。背筋を伸ばした立ち姿は、それだけで周囲の喧騒を一歩遠ざけてしまうような静けさをまとっている。名家の令嬢だとか、何かのコンクールで表彰歴があるとか、いろいろな噂があるが、俺にとって重要なのはそこじゃない。
学年一位。
入学以来、一度も首位を譲っていない相手。
それだけだ。
彼女は掲示を確認すると、ほんのわずかに表情をやわらげた。気のせいかもしれないが、同じクラスになったことを確認して安心したようにも見えた。
だが俺の視線に気づいたのか、凛花はすぐにいつもの端正な無表情へ戻る。
目が合う。
ほんの一瞬。
先に逸らしたのは俺だった。
それ以上の意味はない。
……はずだ。
「お、雪城さん。朝から絵になるねえ」
葉山が感心したように呟く。
「声かけないのか」
「いやー、俺みたいな俗物が気軽に行くと凍らされそうだし」
「なら黙ってろ」
「青が言うと説得力あるな」
さらに少し離れたところでは、明るい笑い声が響いていた。
「真凛、あった! A組!」
「ほんとだ、結愛も一緒じゃん!」
黒金結愛。
派手な金髪メッシュに短めのスカート。アクセサリーも多い。見た目だけなら、星嶺みたいな学校よりも渋谷あたりの雑誌のスナップの方が似合いそうなギャルだ。だが、勉強ができないタイプのそれではない。むしろ、普段の雰囲気で誤魔化されがちだが、授業中の反応も早いし、地頭がいい。
隣で騒いでいるのは親友の星崎真凛だろう。
黒金は掲示板を見つけると、こちらに気づいたのか、一瞬だけ目を丸くした。すぐに明るい笑顔になる。
だが、そのまま近づいてくるわけではなかった。
何か言いたそうにしながら、結局は真凛に背中を押されて笑っている。
「おい、青。見られてるぞ」
「気のせいだろ」
「いやあれは見てるって。モテる男はつらいねえ」
「黙れ」
葉山は楽しそうに吹き出した。
俺は掲示板から離れ、昇降口へ向かう。
新しい上履きの底が、磨かれた廊下を乾いた音で叩く。
三年A組の教室は、中央棟の三階。一番奥だ。
階段を上がる途中、手すりにもたれながら参考書を読んでいる生徒とすれ違う。教室に着く前から受験モードらしい。壁に貼られた昨年度の合格実績のポスターが、いやでも目に入る。
東都大学二十八名。
国公立医学部十八名。
私立医学部二十七名。
京央大学十五名。
数字だけ見れば立派だ。
だがその数字の裏側には、そこに届かなかった生徒の名前が無数にある。
教室へ入ると、すでに半分以上の席が埋まっていた。
春特有の浮ついた空気のなかにも、特進クラス特有の緊張感がある。久しぶりに会った友人と話し込む声のそばで、もう単語帳を開いている奴もいる。窓際の席では参考書を積み上げている男子がいて、その後ろでは女子たちが新しいクラスの顔ぶれを確認し合っていた。
「葉山いるじゃん、今年もよろしく」
「黒金さんもいるとか華あるな」
「いや雪城さんいる時点でA組って感じ」
「氷凪も同じクラスか。成績上位固まりすぎだろ」
「今年のA組、顔面偏差値も高くない?」
「お前そういうこと言うと雪城さんに冷たい目で見られるぞ」
「それはそれでご褒美」
「最低だなお前」
断片的な会話が飛び交う。
俺は自分の仮席に荷物を置き、窓の外を見た。
校庭の向こうに見える桜は、満開を少し過ぎている。春は嫌いじゃない。ただ、何かが始まる季節というのは、何かが終わる予感も一緒に連れてくるから苦手だ。
スマホが短く震えた。
陽葵からだ。
【お兄ちゃん、クラスどうだった?】
短い文面のあとに、なぜか太陽の絵文字がついている。
あいつらしい。
【普通】
それだけ返すと、すぐに既読がついた。
【絶対普通じゃないやつ】
【また帰ったら聞かせてね】
【無理しないで】
ほんの数文字なのに、なぜか少しだけ胸の奥がやわらぐ。
俺はスマホをしまい、参考書を取り出した。
そのとき、教室の前方が静かになった。
「みんな、おはようございます」
澄んだ声が、教室をすっと整える。
担任の如月雫先生が、教卓の前に立っていた。
眼鏡越しの涼しげな目元。落ち着いたピンク髪を後ろでひとつにまとめ、白いブラウスに紺のジャケットをきっちり着こなしている。教師としてはまだ若い方だが、姿勢の良さと隙のない所作のせいか、教室に入ってきただけで空気が締まる。
その一方で、男子人気が高いのも有名だった。
美人で、仕事ができて、説明が上手くて、公平。
無駄に甘くはないが、理不尽でもない。
だから余計に、密かな人気が出る。
「座って、座って。三年A組のホームルームを始めます」
その声に従って、ざわついていた教室が自然と静まっていく。
如月先生は出席簿を閉じ、教卓に両手を添えた。
「まずは、進級おめでとうございます。とはいえ、皆さんにとって三年生は『おめでとう』より『いよいよ』の方がしっくりくるでしょうね」
教室の何人かが苦笑する。
「知っての通り、星嶺は進学校です。今年も東都大学、京央大学、難関医学部、法学部最難関への受験者が多くなるでしょう。三年A組は特進コースの中でも特に上位のクラスです。自由な校風は変わりませんが、だからといって何をしてもいいわけではありません。結果はきちんと求めます」
やわらかな口調なのに、言葉の輪郭は明確だった。
こういうところが、この先生らしい。
「私は皆さんを必要以上に管理するつもりはありません。自分で考え、自分で選んで、自分で責任を取る。それができる人であってください。受験も、日々の行動も同じです」
前方の席の男子が小さく背筋を伸ばす。
「ただし、提出物の遅れ、授業中の私語、進路に関わる連絡の放置、このあたりには厳しくいきます。自由といい加減は違いますから」
「はい」と何人かが素直に返事をした。
葉山が後ろで小さく「さすが」と呟くのが聞こえた。たぶんあれは感心半分、見惚れ半分だ。
如月先生は黒板に今日の日付を書き、チョークを置いた。
「では、新学期ということもありますし、学級委員を決めましょう。男女一名ずつ。立候補がいればどうぞ」
しん、と教室が静まる。
誰もが、余計な仕事を増やしたくないのだろう。
受験学年で学級委員など、面倒の見本みたいなものだ。
しばらくして、女子の一人が控えめに手を挙げた。
「雪城さんがいいと思います」
その瞬間、教室の空気が「異議なし」に傾いたのが分かった。
「成績一位だし、真面目だし、学級委員に向いてると思います」
「うん、私も賛成」
「確かに」
「しっかりしてるしね」
あちこちから同意の声が上がる。
如月先生は一度、凛花に視線を向けた。
「雪城さん、どうですか?」
凛花は静かに立ち上がる。
「はい。わかりました。やらせていただきます」
簡潔で、無駄がない。
その答え方ひとつとっても、いかにも雪城凛花らしい。
教室のあちこちで小さな拍手が起こる。
俺は何となく、その横顔を見ていた。
相変わらず、隙のない表情だ。
けれど、気のせいか、ほんの少しだけ声がやわらかかったような気もする。
そのとき、凛花がこちらを見た。
目が合う。
澄んだ黒い瞳が、一瞬だけ揺れた気がした。
俺は特に意味もなく視線を外し、机の上のシャーペンを整えた。
「じゃあ、女子の学級委員は雪城さんで決まりですね」
黒板に名前が書かれる。
如月先生はチョークを置くと、教室を見渡した。
「では男子はどうしましょう」
再び沈黙。
当然だ。誰もやりたくない。
……と思った直後だった。
「氷凪がいいと思います」
後ろから聞き慣れた声。
俺は反射的に振り返った。
葉山が、いかにも善意ですという顔で手を挙げている。
「理由は?」と如月先生。
「成績優秀、真面目、責任感ある、先生受けもいい。完璧です」
「最後余計だ」
思わず口を挟むと、教室に小さな笑いが起きた。
葉山は肩をすくめる。
「いや、マジで適任でしょ」
周囲も否定しにくいのか、何人かが「まあ確かに」と頷いていた。
「氷凪くんならちゃんとしてくれそう」
「静かだし、まとめ役向いてそうだよね」
「いや静かすぎて逆に怖くない?」
「でも仕事はやりそう」
勝手なことを言っている。
最悪だ。
俺はすぐに断ろうと口を開く。
「いや、俺は――」
「氷凪くん」
如月先生が、まっすぐこちらを見る。
「学級委員の活動は、調査書や校内評価にも反映されます。進学にまったく無関係とは言いません」
その一言で、教室の空気が少しだけ変わる。
内申点。
調査書。
進学。
そこに関係するとなれば、話は別だ。
俺は一瞬だけ考える。
時間は取られる。面倒だ。
だが、受験に少しでもプラスになるなら、やる価値はある。
「……やります」
教室の何人かが意外そうな顔をした。
葉山が後ろで、してやったりという顔をしているのが気配で分かる。
「おお、即決」
「内申点強いな」
「氷凪くんってそういうの興味なさそうだったのに」
「受験ガチ勢だからだろ」
如月先生は軽く頷いた。
「ありがとう。助かります」
そのまま男子も決まりかけた、そのとき。
教室の横から、明るい声が上がった。
「先生ー」
視線が集まる。
黒金結愛が、まっすぐ手を挙げていた。
金色のメッシュが春の光を受けて揺れる。
彼女はにっと笑った。
「私も学級委員やりたいです」
一瞬、教室がざわめいた。
「え、黒金さん?」
「意外」
「どうした急に」
「学級委員ってキャラ変じゃない?」
そんな声が飛ぶ。
黒金は悪びれもせず言った。
「内申点、欲しいです」
そのあまりに率直すぎる理由に、教室に笑いが広がる。
だが、冗談で言っている顔ではない。
むしろ堂々としていた。
「いいとこの大学行きたいし。評定、大事じゃないですか」
その言い方が妙に現実的で、何人かが逆に感心したような顔になる。
「黒金さん、そういうのちゃんと考えてるんだ」
「そりゃ考えるでしょ」と本人は肩をすくめた。
普段の明るさの奥に、しっかりした芯がある。
たぶん、そういうところがこのクラスでも浮かずにいられる理由なんだろう。
如月先生も少しだけ困ったように目を細めた。
「参りましたね……。雪城さんで決まりかと思っていましたが」
黒板には、すでに『雪城凛花』の名前がある。
黒金はちらりと俺の方を見た。
……いや、気のせいか。
その視線の意味まで読む気はない。
「どうする?」と葉山が後ろで小声で囁く。
「知らない」
「モテる男は大変だねえ」
「違う」
「いや合ってる」
うるさい。
如月先生はしばらく考えたあと、なぜかこちらを見た。
「氷凪くん」
嫌な予感しかしない。
「どちらと一緒にやりたいですか?」
……何を言っているんだ、この先生は。
教室中の視線が俺に突き刺さる。
どちらを選んでも角が立つだろ、それは。
凛花は静かに立ったまま、無表情を崩していない。
黒金は分かりやすく期待した顔をしている。
葉山は絶対に面白がっている。
前の方の女子たちまで、完全に見物モードだ。
「え、どうするんだろ」
「これ答えづらすぎでしょ」
「氷凪くんかわいそう」
「でもちょっと気になる」
気になるな。
俺は数秒、言葉を失った。
どう答えても得がない。
沈黙が伸びる。
そして、その沈黙を破ったのは。
「いいですよ」
雪城凛花だった。
教室の空気が、ぴたりと止まる。
凛花はまっすぐ前を向いたまま、落ち着いた声で言う。
「私は譲ります」
「雪城さん?」
如月先生が確認するように呼ぶ。
「黒金さんがやりたいのなら、私は問題ありません」
その声音は穏やかで、いかにも大人びていた。
黒金が目を丸くする。
「え、本当? いいの?」
「ええ」
凛花は小さく微笑んだ。
「どうぞ」
それを見たクラスメイトたちが、感心したような空気になる。
「雪城さん大人……」
「さすがって感じ」
「余裕あるなあ」
「やっぱ格が違う」
そんな声が聞こえた。
黒金はぱっと表情を明るくし、勢いよく頭を下げる。
「ありがとう、雪城ちゃん!」
如月先生は軽く息をつき、結論を出した。
「では、女子の学級委員は黒金さんにお願いします。氷凪くんと一緒に、今年一年よろしく」
黒板の名前が書き換えられる。
氷凪青。
黒金結愛。
結愛は嬉しそうに「はいっ」と返事をした。
教室の空気も、どこか和やかになっている。
真凛が小さくガッツポーズしているのが見えた。
俺は特に何も言わず、ただ小さく息をついた。
面倒な役目が増えた。
それが率直な感想だ。
だが、その瞬間。
なぜかもう一度だけ、凛花の方を見てしまった。
彼女は静かに席へ座っていた。
横顔は変わらず整っていて、いつも通りの凛とした表情に見える。
誰が見ても、ただ自然に譲っただけのようにしか見えないだろう。
けれど。
その白い指先が、机の端をほんの少しだけ強く握っていたのを、俺は見逃さなかった。
……別に、それが何を意味するのかまでは考えない。
考える必要もない。
ただ、いつも完璧に見える雪城凛花にも、そういう小さな感情の揺れがあるのだと知っただけだ。
如月先生は何事もなかったように次の連絡事項へ進む。
「では次に、年間行事予定を配ります。春の模試日程、保護者面談、夏期講習、校内実力試験、文化祭、秋の記述模試、進路面談。三年生は行事も多いですが、どれも受験と無関係ではありません。配られたものは必ず目を通してください」
プリントが前から後ろへ回される。
紙の擦れる音が教室を満たす。
「特進コースは五月の校内実力試験から席次がかなりシビアに出ます。誰が何位だったか、隠そうと思ってもだいたい伝わります。ですから、今さら外聞を気にするくらいなら、最初から努力してください」
それは厳しい言い方だったが、事実でもある。
教室の空気が少しだけ引き締まる。
受験はまだ先のようで、もう始まっている。
如月先生は配布物の説明を終えると、最後に教卓の前で視線をめぐらせた。
「三年生は、誰にとっても特別な一年です。楽しいこともありますし、苦しいこともあります。ですが、できれば後悔の少ない一年にしてください。以上です」
静かな言葉だった。
なのに不思議と、それだけで教室全体に一本、芯が通った気がした。
ホームルームはそのまま、教科書の配布や提出書類の確認へ移っていく。
だが、教室のどこかにはまだ、さっきの余韻が残っていた。
黒金は上機嫌で真凛と小声で何かを話している。
「やば、結愛ほんとにやったじゃん」
「まあねー」
「内申点って便利な言い訳だね」
「うるさいし」
そんなやり取りが聞こえる。
葉山は後ろからシャーペンの先で俺の背中を軽くつついてきた。
「おめでと、学級委員様」
「うるさい」
「いやー、今年のA組も面白くなりそうだわ」
「そういう問題じゃない」
「青にとっては全部そうだよな」
全部、とは言わない。
ただ、余計な波は立たない方がいい。
そう思っているだけだ。
けれど、否定しきれない自分もいた。
新しいクラス。
新しい役目。
そして、今までより少しだけ近くなった人間関係。
望んだわけじゃない。
それでも、春は勝手に始まっていく。
窓の外では、風に揺れた桜の花びらが、校庭へ向かって静かに散っていた。
高校三年生。
人生を決める最後の一年が、こうして始まった。
そして。
雪城凛花は、誰にも気づかれないように小さく視線を伏せた。
本当は。
ほんの少しだけ。
氷凪くんと、一緒にやってみたかった。
そんな子どもっぽい感情を抱いたことが、自分でも少しだけ意外だった。
けれど、もう譲ると言ってしまった以上、今さらどうこう言うつもりはない。
今年は同じクラスだ。
それだけで、きっと十分。
……たぶん。
そう自分に言い聞かせながら、凛花は静かに教科書へ視線を落とす。
その横顔を見た者は誰もいない。
だから教室の誰も知らない。
学年一位の完璧な才女が、この春の始まりに、たった少しだけ心を揺らしていたことを。




