第2話 馬の名前は大事ですから
――二年後。
フェーニクス帝国は、グライフ王国より少し早く春を迎えたところだった。
行商人達がせわしなく行き来する帝都ナハティガルに着いた後、リーゼロッテは市場で肉と野菜を買い、これまた市場で買ったパンに挟んで、馬を引きながら頬張る。その姿に、洗練された帝都の人々は好奇の眼差しを向けていた。
二年間の流浪の旅を経て、リーゼロッテの身形は小汚く変わっていた。帝都に来るまでも整備されていない街道や山道を馬で走っていたというのもあるが、そもそも着ていた服は男物である上に雨や泥で汚れてぼろぼろ、髪だって切りっぱなしの散切りだ。女だということは体の丸みで分からなくはないが、どちらかというと賊に身を窶した少年と見間違えてもおかしくなかった。
そんなリーゼロッテが向かう先は、帝都の中心にある城――の闘技場だ。
フェーニクス帝国では、毎年春に帝国騎士闘技大会が開かれる。かつてリーゼロッテは、帝国出身の臣下からその話を聞いたことがあった。
(参加する権利は広く認められてるし、上位に残れば帝国騎士に叙される)
流浪の身になったリーゼロッテにとって、それは帝国での上等な居住権を獲得するまたとないチャンスだった。
「……しかし、馬っていうのは物々しいな」
城の近くまで来た後、下馬したリーゼロッテは馬を撫でてやる。王子妃時代に馬車を引いてくれた馬といえばシャインだったし、グライフ王国を出て以来、二年間の流浪の旅を支えてくれた愛馬でもあった。
「ごめんね、シャイン。悪口じゃないんだよ」
ブルル、と鼻を震わせながらつぶらな瞳を向けられると「じゃあ森へお帰り」とは言えない。
とはいえ厩舎に勝手につなぐわけにもいかないし……。そう悩んで立ち止まっていたリーゼロッテは、城門のほうから歩いてくる人影に気が付いた。
限りなく黒に近い色の団服に金の飾緒、襟には不死鳥の紋章をかたどった金銀2色のバッジに真鍮製のボタン――帝国騎士だった。
「すみません、帝国騎士の方ですよね?」
「ん? うん」
彼は、騎士にしては妙にフランクに頷いた。帝都内には「騎士優先」と書かれた看板が複数見られるように、帝国騎士といえば“騎士様”と呼ばれるほどには他の貴族よりも立場が上にあるが、彼に権高な雰囲気はなかった。
「私の馬を引き取っていただくことはできますでしょうか」
「うん? ああ、君の馬なの?」
彼は無遠慮に手を伸ばしたくせに、撫でながら少し驚いた顔をした。
「……いい馬だね。気難しくないとおりこして模範生みたいに穏やかで」
「そうですね、私が知る中で最も穏やかで乗り手を選ばない子でした。気が優しいので戦馬には向かないと思いますけど」
後半は付け加えないほうが引き取ってもらえる可能性は高かったが、戦争に出されるのは可哀想だとも思ってしまった。
「ん、分かった、いいよ。うちで引き取ろう」
「そんな即断していただいていいんですか?」
馬が一頭増えるとなればそれなりのところへ話を通す必要があるはずでは。リーゼロッテは驚きを顔に出したが、彼は「大丈夫大丈夫」と頷きながら手綱を引くだけだ。
「帝国はいつだって戦馬不足だからね、ってことは馬が不足してるってことでもあるし。むしろそれなりの手続を踏めば謝礼がもらえると思うけど」
「ああいえ、それは構いません」
正規の手続を踏むと必然リーゼロッテの素性も明かすことになる。さすがにフェーニクス帝国の人間がグライフ王国の王子のその元婚約者(しかも二年前)の名なんて知るはずもないだろうが、そんな人間が馬を寄進したことを変に勘繰られては困る。
「そう? それなら俺の馬ということで手続するよ」
「あ……、ありがとうございます!」
むしろそうしてもらえるほうがありがたい。そうして頭を下げながらそっと胸元を盗み見る。
その胸についている階級章はただの平騎士だが、略綬の華やかさがその実力を物語っている。どうやら随分お偉いさんに声をかけてしまったらしい。
(しかもこの若さ……見た目のわりに相当な実力者なのかも)
穏やかな笑みはそこらの野花のようで、到底強そうには見えないが。はて、とリーゼロッテは失礼にも首を傾げた。帝国には不思議な人もいるものだ。
「では――あ、申し訳ないついでに、よろしければ闘技大会の受付場所も教えていただいてよろしいでしょうか?」
「闘技大会に? 出るの、君が?」
「はい。上位に入れば帝国騎士に叙され、また優勝すれば報奨もあるとうかがっておりますので」
リーゼロッテは大真面目に告げたのだが、彼はぷっと吹き出し、そのままククッと声を押し殺した。
「……なにか?」
「いや、失礼。君のような飛び込みで優勝を狙う者を初めて見たから」
「例年、飛び込みの優勝者はいないのですか?」
「そうだね。例年優勝は第一部隊のナーハ・アームング大騎士と相場は決まっているよ」
そう聞くと怖気ついてしまうだろうとでも言いたげだったが、リーゼロッテはきょとんと目を丸くすることしかできなかった。
「でも私が出場するのは初めてですから」
大真面目にそう告げれば、彼は再び押し殺したような笑い方をした。
「……それは、そのとおりだ」
怪訝そうに眉を顰めると、彼は胸の略綬をひとつ外して差し出した。
「闘技大会の受付は城門を入って左手の奥。もう締めきっているけれど、これを見せれば大丈夫だよ」
「え?」
目を丸くしたまま略綬を受け取ってしまったリーゼロッテはいささか呆気に取られてしまったせいで「……ありがとうございます?」と疑問形になったうえで改めてまじまじと彼を見つめる。しかし彼は「本当だから、大丈夫大丈夫」とどこか見当違いの返事をしただけだった。
「じゃあ、俺はこれで」
「あ、はい。よろしくお願いします」
馬を引きながら立ち去ろうとする彼にもう一度頭を下げ――ハッとリーゼロッテは顔を上げる。
「すみません、あの、名前を――!」
大事なことを忘れていた、と慌てて彼に駆け寄る。彼は「ああ、うん」と想定していた反応かのように振り向いたが。
「この子の名前はシャインと言います。どうぞ優しくしてやってください」
「……クッ」
やはり、笑い出した。笑い上戸なのだろうか、なんて明後日の方向の感想を抱いてしまう。
「分かった、そう伝えるよ」
「それから、貴方のお名前もおうかがいしてよろしいですか? こちらの略綬をお返しできなくなってしまいますので」
「……シュトルツだよ。頑張ってね、お嬢さん」
“お嬢さん”……。かつて王子妃候補の公爵令嬢、以後は少年と間違えられる流浪の身だったので、そう呼ばれるのは少し新鮮で、リーゼロッテは変な気持ちになってしまった。
だが、それだけだった。
「シュトルツ様ですね。度々お手数をおかけいたしました。ありがとうございます」
今度こそしっかりと頭を下げ、闘技大会の受付へと駆ける。
その後ろ姿を、シュトルツは面白いものでも見たような目でじっと見ていた。