人質
(九)
土屋は久しぶりに加藤を訪ねた。
仕事がたてこんで残業が続いたからだ。
加藤はぼんやりとした目をしている。
何か足りないような気がしてあたりを見渡す。
美知子がいない。
「みっちゃんどうしたんですか」
土屋は聞いた。
「やりやがった!」
そういって一枚の封筒を土屋に投げてよこす。
それには『明日の二十一時に佐伯組事務所に来い』とあり、地図が同封されてい
た。
この街を二分する暴力団組織は、興隆会と佐伯組だ。勢力的には興隆会の方が大
きい。
「なんでまた」
「この間の続きだろう。なんにも知らねえってのに」
「警察に言ったら......みっちゃん危ないかな」
「絶対に警察には言うな。連中、俺がなんの関わりも無いと分かれば、理不尽なこ
とはしないだろう」
ここ二三日、加藤は美知子を背負って帯で縛っていた。何か嫌な予感がしたから
だが、美知子は嫌がった。
「とうちゃん、暑いよ〜」
「我慢しろ!」
「降ろしてよ〜」
加藤も暑かったし、仕事の邪魔になってはいたが、悪い予感は消えることなく加
速度を増していく。
リヤカーを引いて公園のそばを歩いていた時、美知子が「おしっこ」と言った。
公園の中のトイレに行き、男子用トイレに連れて入ろうとしたが、美知子は嫌が
った。
こんな生活をしていても、美知子だけは普通の世界で一人前に生きていけるよう
にと、一人で用を足せるよう今迄躾けてきたのだ、それをいきなり男の方に行けと
言ったので嫌がったのも無理はない。
その時、一人の中年の女が入ろうとしていた。
「悪いけど、こいつをお願いします」
そう頼むと、にっこり微笑み「ええ、いいですよ」と頷いてくれた。
ひと安心すると、加藤自身も尿意を感じ、トイレに入った。早くすませて出て来
て待ったが、美知子の出て来る気配がない。
「お〜い、ミチ!」
声を掛けても返事はない。そして、女も出てはこなかった。
加藤は女性トイレに駆け込んだが、そこには二人ともいなかった。
(やられた.......)
悔やんでも始まらなかった。
橋の下に戻って来ると、寝床にこの封筒が置いてあった。
加藤の横顔は緊張しているように見える。けれども焦りの表情はない。ここで焦
ってみても仕方が無いと、肝を据えているようだ。
今日は練習は休みだ、とても教えてくれと言える雰囲気ではない。
土屋は一升瓶のフタを開けると、二つの茶碗に注いで黙って加藤に手渡した。加
藤は黙って酒を口に運ぶ。土屋も口にする言葉を見つけられないでいた。
沈黙を先に破ったのは加藤だった。
「ミチは.......美知子は俺の子じゃないんだ」
土屋は、驚きはしなかった。そんな気がしていたからだ。
しかし、まさか加藤の口からそれを聞くとは思わなかったので面食らう。
「あれは俺のダチ公の子だ......死んだ、いや、殺されちまったダチ公の......」
「えっ!」
加藤は静かに語り始めた。
加藤は38年前に東京の立川に生を受けた。
父親は帝国海軍軍人であったが、大戦終了後、英語が堪能だったために横田基地
で通訳として働いた。
米国と戦い、敗れ、生活のためとはいえ、ついこの間までの敵国の元で働く変わ
り身のきく男だった。
武道が好きで、柔剣道の段持ちだった。
「戦は時の運。勝つこともあれば、負けることだってあるさ」
小さな加藤にあっさりとそう言った。
加藤はその父の影響をうけ、多様な武道を習い、自衛隊に入った。加藤の格闘技
センスを認めた上官は、白兵戦用の徒手格闘研究室に入らないかと誘った。
徒手格闘は自衛隊格闘術の三部門(徒手格闘、銃剣格闘、短剣格闘)の中のひと
つで、日本拳法をもとに柔道の投技、合気道の関節技を採り入れた内容で構成され
ている。
しかし、格闘の技術は日本だけが持っている訳ではない。世界中の軍隊も同じ様
に訓練しているので、絶えずその裏の技を研究しなければならなかった。
徒手格闘は一本取る格闘技とは違い、相手の息の根を止める、正に殺人技であっ
た。
殺人術と護身術を研究する部門、それを格闘研究プロジェクトチームという。
加藤はそのチームの一員として推挙された。
殺人術を研究するという恐ろしいチームには、どんな強面が集まって来るのかと
興味があったが、みなスマートで、テニスの選手だと言われれば信じてしまいそう
な連中だった
世界でも強いと定評のある軍隊の格闘技や武術の資料を山と積み、それらの共通
点と相違点を拾い出す。
また、集められた映像を協議しながら見て、気がついたことがあれば、それを道
場で試してみる。
グループの中で、ひときわ技の切れる男がいた。
武井といい、山形県出身で、学生時代は空手で全国チャンピオンになったことも
あるという。
長身で手足が長く、日本人離れした彫りの深い顔をしていた。
武井とは馬が合い、終業後も道場に残ってあれこれ研究したり、一緒に飲みに行
ったりしていた。
『ニュートラル』という名のカフェには、アルバイトの綺麗な女の子がいた。女
の子の名前は綾といった。
世の中では若い女が髪を染めるのが流行りのなか、彼女の腰まである長い黒髪は、
その長身と肌の白さと相まって、世間と隔絶した世界の女性に見えた。けれども、
一旦口を開くと明るく軽快で、それでいて知性を感じさせた。
『飲みに行くか』と、どちらともなく決まると、二人とも口には出さなかったが、
綾に会いたくて、足はニュートラルに向かうのだった。
加藤は「寝る」と言って毛布をかぶる。
「明日の夜、私も一緒に行かせてください」 と土屋は言う。
「お前が一緒に来てどうしようってんだ、お前には関係のねえことだろう?」
加藤は毛布に包まれたまま、ぼそっと言った。
「なにか手助け出来ればと思って」
「邪魔になるだけだ、もう帰れ。お前、俺んところばかりきて、奥さん寂しい思い
してるんじゃないのか? ちったあ大事にしてやれ」
土屋は言われるまま帰りの電車に乗った。
暴力団の事務所に一人で行くというのは、どんなに怖いものだろう、だからこそ
一緒に行きたいと思いはしたが、確かに足手まといになりそうな気もした。
(何時になったら足手まといにならない男になれるだろうか)
加藤とは一生を通じて付き合いそうな何かを感じながら、そういう想いがどこか
らか湧いて来た。