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彷徨う雷雲   作者: 佐伯 蒼太郎
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8/26

修練


                (八)


「なあ、子供欲しくないか」


 マンションの一室。土屋は二年程前に結婚していたが、子供はまだなかった。


「え、なに?」


 キッチンで洗い物をしていた妻の薫は、よく聞こえなかったのか、聞き返してく

る。

 土屋はずっと考えていた。加藤が「美知子を頼む」と言ったことを。

 長い付き合いでもないのに、何故自分にそんな大事なことを託したのか。

 頼ってくれたことに面映い気もしたが、加藤の様な一匹狼には頼れる者がいない

のではないか、とも思う。

 もし、それが現実になったとして、薫は受け入れてくれるだろうか、他人の子を。

 いや、それ以前に自分自身がどう動くだろう。まだ何も起きてはいなかったし、

起こるとも限らなかったが、いざという時、あたふたしたくはない。

 あれから頻繁に加藤の所に顔を出すようになった。何かあった時に、少しでも力

になりたいと思ったからだ。

 加藤から実戦技ももっと教わりたかったし、美知子の無垢な笑顔も見たかった。


「刃物でも拳銃でも、大事なことは抜かせないことだ。懐や、ポケットに手を突っ

込もうとしたら、その時点で押さえてしまうんだ。一旦出させちまうと面倒なこと

になる。ただな、獲物を持った段階で相手は優位になったと油断するものだ、そう

いう心理までも利用するのが命がかかった戦いだ」


加藤はそう言って懐に手を突っ込む真似をすると、それを土屋が押さえるという練

習をした。

 土屋は柔道着を着ている。いままではスーツの上着を脱いで、ワイシャツ姿で稽

古を付けてもらっていたが、泥だらけのシャツを妻の薫に訝られていたからだ。


「馬鹿!押さえるって、ただ押さえたってなんにもならん。それ自体が攻撃になら

なきゃあ。殴るでも蹴るでもいいが、お前は柔道家だから打撃はあまりうまくない。

一番簡単で効果があるのは体当たりだ、パンチに体重を乗せるのは難しいが、体当

たりなら簡単に体重が乗る」


 そう言って、2メートルほどの距離から体当たりの練習を何回も繰り返させた。


「いいか、相手が吹っ飛んでも、見ていたらだめだ。相手の身体についていき、反

撃の機会を潰すんだ。相手の体勢が戻る前に止めを刺す」


 前と比べて、加藤の動きは荒っぽさを増している。目に殺気がある。


(もう、臨戦態勢なんだ。しかし何故逃げようとしない。逃げれば、かかわらなけ

れば、それで済むだろうに)


 土屋は雑踏の中で学生を守るために戦った加藤を思い出していた。


(そうだ、この人は逃げるってことを知らない。いや、逃げられないんだ)


そんなことを考えながらの体当たりを、「それじゃ、甘い!」と言って、加藤は躱

しながら土屋を投げ飛ばした。土屋はしたたかに頭を打った。 


「加藤さん、練習の時に頭から落とすのは勘弁してください。下が芝生でなくって

コンクリートだったら俺、死んでますよ」


「暴漢が相手でもそう言うのか! 柔らかいところに落としてくださいって」


 暗い河原の芝生公園のあちらこちらのベンチでは、恋人同士が肩を寄せ合い楽し

そうに囁き合っている。それらの世界のなかで、加藤と土屋の汗みどろの空間だけ

が、奇異な別世界をつくっている。土屋は終電の時間も忘れて、何度も何度も加藤

にかかっていった。


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