別れ
(十四)
二年が過ぎた。
武井と食堂で昼食をとっていた。
「今度、里帰りするんだけど、一緒にこないか? 山形には美味い酒もあるし、い
い温泉はあるし、女はベッピン揃いだぜ」
そう誘う。
「ファミリーの里帰りに、関係無いのが一匹混じったらおかしなもんだろう」
「関係ない? 馬鹿言うな。お前のことは親父やおふくろにも、しょっちゅう話し
ていたんだ。前から連れてこいって、耳に タコが出来るほど言われていたんだか
ら、連れて行くって言えば、大歓迎だぜ」
その頃、武井の言うことに、妙に素直になっている自分を感じていた。
それはやはり家庭を持っているという、武井の自負や責任感が彼に厚みを与えた
ものなのだろうか、それとも加藤の引け目なのか、それは分からなかったが、加藤
は「うん」と返事をしていた。
その日は空気の乾燥した、秋晴れの良い天気だった。
道中で、紅葉などの景色も見られるだろうと思うと、子供の様に浮き浮きした気
分になっている自分に苦笑した。
美知子は加藤に良くなついていて、加藤が武井の家に行くと「おじちゃ〜ん」と
言ってよちよちと歩いて来た。
遊びに行く度に大きくなっているのが分かるほど、子供の成長は早い。加藤は、
いつの間にか、美知子の成長を見るのが楽しみになっていた。
武井のワンボックス車に、弁当や、飲み物が入ったアイスボックスを積むと、武
井がハンドルを握り、加藤が助手席、綾と美知子が後部座席に収まる。
世田谷のアパートを出発して、ごみごみとした首都高速を抜け、東北自動車道に
入ると、車の数も減り、ゆったりと走ることが出来た。
途中のサービスエリアに車を止めて食事をしたり、休憩したり、焦ることのな
い、ゆったりした時間が過ぎる。
休暇を三日取ったので、今日は山形に着ければいいのだ。
二人が同時に休暇を申請したので上司の顔は曇ったが......
街を過ぎ、田畑が過ぎるとまた街が現れる。それを何度かくりかえし、山形自動
車道に入る。
美知子はチャイルドシートをむずかり、綾に外してくれとぐずった。
「少しだけよ」と言われて、ベルトを外してもらうと、運転席と助手席の間から顔
を出し、武井と加藤の顔を交互に見ながら「パ〜パ、お〜じちゃん」と声をかけ
る。嬉しくてしかたがないらしい。
武井はバックミラーで綾を見ながら「危ないじゃないか」と言うが、綾は「少し
くらい大丈夫よ」と返す。その何気ない会話が夫婦らしさを醸し出している。
事故か渋滞なのか、道路が急に混み出してきた。その時、追い越し車線を走って
来た外車が、ウインカーも点けずに急に割り込もうとした。武井は急ブレーキを踏
むとクラクションを思い切り鳴らす。
ベルトをはずしていた美知子が、顔を前の座席の背にぶつけて火のついたように泣
き出した。綾は美知子の頭を抱いてやり、ヨシヨシとあやす。
その車は尚も前に入ろうとする。
「あなた、入れてあげなさいよ」
「あんな無茶な入り方があるか!」
加藤も怒っていた。何より美知子を泣かせたことに。
シルバーメタリックのその車は、窓がスモークのために運転手の表情は分からな
いが、後ろの座席にも何人かの影が見え、その影がこちらに視線を送ったのが気配
で分かった。
後ろに空きはいくらでもあるのに、どうしてもこの車の前に入ろうと隙をうかが
い、武井は絶対入れてやるか、と意地になっていた。
武井は俺に似ている、と加藤は思う。
(引かない奴だ。いや、引けないんだ)
仕事で道場に行く時には、あくまで研究のためなのだが、武術を型としてやって
みるのと、実戦として捉えるのとには随分と差がある。だから、ある程度自由に乱
取りをやったりするのだが、加藤に技を決められると、それを返せるまでやめよう
とはしなかった。
「おい、もうやめろよ。綾さんや、みっちゃんもいるんだから」
加藤はそう言ったが、火のついた武井は聞く耳を持たない。
その外車がまた突っ込んで来た。今度は武井はブレーキを踏まない。
『ガン!』
ワンボックスの右側面に外車の左前部が軽く当たった。
「もう、やめろ!」加藤は怒鳴る。
外車は急に速度を落とすと、加藤の車の後ろについた。
身体を捻って後ろを見た加藤は、助手席の男が携帯電話をかけているのを見た。
(4人)しかも普通の連中ではない。運転している奴は、スキンヘッドにサングラ
ス、そのくせダークスーツを着ている。
車は目的のインターチェンジに近づき、料金所へと本線から分かれる。
(ついて来るな!)そう願ったが、シルバーメタリックはぴったりとついて来た。
武井は料金を払うと前方の広い路肩にハンドルを切る。
「止めちゃダメだ!」加藤は叫んだ。
「話をつけてやる」と武井。
車を止めると後ろの車も少し離して止め、4人が同時に出て来た。皆、いいガタ
イをしている。どう見てもカタギの人間には見えない。
武井がドアを開けて出て行く。
「やめて!」綾は叫んだ。
「大丈夫です。喧嘩はさせません」
加藤はそう言うと、武井の後から車を降りた。
武井は、つかつかと男達の所に行くと、「親玉は誰だ」と大声で怒鳴った。
「なんだ、お前? 人の車に傷こさえといてその偉そうな言い草は」
「傷? そっちが勝手にぶつけて来たんだろう。新手の当たり屋か?」
「てめえ、ふざけた口聞いてるとただじゃすまねえぞ」
後ろにいた四人の中ではもっとも紳士的に見える男が前に出て来る。
加藤は状況を冷静に見ていた。何かあったら、すぐに出て行けるようにと。
しかし、今は綾や美知子がいる。出来ることなら荒れずに済ませたいが、相手を
見ると、そうもいきそうになかった。
その時、料金所を出た車が、連中の車の後ろに止まった。
一台、二台、三台、暴力団の集まりでもあるのだろうか。(さっきの携帯はこい
つらを呼んだのか)各車から数人づつ、十五人が二人を取り囲み、睨めつけた。
紳士風が口を開く。
「うちのが荒っぽい運転してすまなかったなあ、でも、あんたも入れてくてたら良
かったのに、意地が悪いよなぁ」
「ウインカーも点けずに割り込んで来て、よくそんなことを言えたもんだな。修理
し終わったら請求書を送るから連絡先を教えとけ」
(こいつは本当に引かない奴だ)
しかもこれだけのヤクザに囲まれていても全く臆することがない。肝の太い男だと
加藤は思う。けれども、どう、この場を収束させたらよいのいかとも.......
「まあ、どっちにしろ、ここじゃあゆっくり話も出来ない。次の信号を右に曲がっ
て左に登ると、ちょっとした広場がある。そこで続きをやろうじゃないか」
紳士風が言う。
「なんでここじゃ駄目なんだ? えっ、人目が気になるんだろう。裏街道を歩いて
るお兄さん方にゃあなぁ」
若いのが、武井の言葉にカッとなって言った。
「なんだ、怖じ気づいたのか! チキン野郎」
(いけない、武井はこういう言葉に熱くなる男だ)
加藤が一歩前に出た。
「あんた達はどうしたいんだ、非はそっちにある。いちいち場所を移して話すよう
なことじゃないだろう」
「だから、その『非』について話そうって言ってるんじゃないか。こっちの車に乗
ってくれ」
「加藤、いいよ。行ってやろうじゃないか。お前は車にいて、二人を見ていてく
れ」
そのやりとり聞いていた綾が「行かないで、行っちゃ駄目!」と叫ぶ。
「心配するな、すぐ戻って来る」
「だめ、それなら私も一緒に行く」
綾は嫌な予感がした。
(女の私が一緒なら相手も無茶なことはしないだろう)そう思った。
「お前が来ても役にはたたない。ここにいろ」
「いや! 一緒に行く。加藤さん、悪いけどここで美知子を見ていてくださらな
い」
「お前一人で大丈夫か」加藤は武井を心配して言った。
「ああ、話をつけるだけだからな」そう言って、連中の車に乗った。
相手が悪かった。保険で済ませられるような連中でないことは分かっていたけ
れども、武井はどう話をつけるつもりなのだろう。綾がついて行ったのは良かっ
たのか、悪かったのか.....やはり、俺も行くべきだったのか。
想念が雲のように湧きあがったが、(まあ、どう転んだとしても、三十分もす
れば戻って来るだろう)そう思った。
何かあったとしても、武井の腕は半端ではないことをよく知っていたからだ。
その頃、暴力団の車の中では良からぬ会話がなされていた。
「組長、あいつどうするんです?」
「まあ、ちょっと脅してやって、200万くらいふんだくってやりゃあ、それで
いい」
興隆会組長石口はニヤリとしながら言う。
関東の暴力団組織のなかでも一二を争う武闘派で、ステゴロ(素手の喧嘩)で
は負けを知らなかった。
今の組も暴力で築いたと言っても過言ではない。組員達は、その無類の強さに
憧れてこの組に入りたがったが、一度火のついた石口の凶暴さを知ると、その、
あまりの非情さに恐怖した。表にあらわれない殺人が、どれほどあるのかも分か
らなかった。
このインターチェンジは、街から外れた山の中にあった。
指定された場所は、一度山の中を突っ切る国道に出て、再び山の中に入った鉱
山の跡地で、ススキの生えた広場の中に、鉱山時代に使っていたバラックや、施
設の残骸があった。トランペットを吹いたとしても、誰の耳にも届かないような
所だった。
「お前等は先に行ってろ」
石口は確かにそう言った。
そう言って、どこかは分からないが、他の三台は、暴力団の会合場所かなにかに
向かったと武井も加藤も思った。
他の三台は行かせた。それを見ていたから、(いざとなっても、三、四人なら
武井の相手じゃない)と加藤は思っていた。
ところがそこに着いてみると、四台共揃っている。そういえば、石口が頷く様
な仕草をしたのを覚えていたが、それが、他の連中に『来い』との合図だとは気
がつかなかった。
石口が名のある組長になれないのは、残忍であるということと、金にも、やり
口が汚いためだった。
他の組からも武闘派と恐れられてはいたが、決して尊敬の念をもって見られた
ことはない。
武井は(やられた)と思ったが、冷静さを崩さない。
車に綾を残して一人出た。
「さて、どうするかな」
石口はもったいぶってそう言った。
「どうするも何も、ぶつけて来たのはそっちだぜ」
料金所のそばと違い、誰の目もない。それがヤクザ連中の表情に(好きな様にや
れる)という余裕をみせている。
「おい、舐めた口聞いてんじゃねえぞ」
そう言って、若い組員が武井の襟首を掴んで吊るし上げようとした瞬間、武井は
右手でその腕を掴んで、少し身体をひねった。
「アアッ!」
痛みに悲鳴を発して組員は跪いた。
何が起こったか分からなかった。しかし武井が『何かをした』ということは分か
る。
「ふざけやがって」
他の若いのが殴り掛かった瞬間、上半身を後ろに引き、その拳を避けながらの足
刀が脇腹に入って悶絶した。
「こっ、このやろう!」
三人が同時にかかった。最初の男の突きを、身体を捌きながら裏拳を顔面に
入れ、左から来た奴には左足刀を蹴り込む。一人がいつの間にか後ろに回って、
首を締めにきた。脱力して、すっと身体を落とし右膝を着くと、男は勝手に宙を飛
ぶ。
あっという間に五人を倒され唖然とするヤクザ共。
今度は五人が武井の回りを円陣に囲い、最初の様な余裕はどこかに飛んで、警戒
しながら回り出した。
武井は、自らスタスタと近づいて行く。我慢しきれなくなった奴は攻撃せざるを
えなくなり、思わず手を出す。
武井は『先の先』を専らとしていた。手を出すのは向こうが先だが、攻撃の
『気』はこちらが先なのだ。
今迄は手加減していたが、そうすると一度倒した奴がまた復活する。それにこの
人数、ましてやカタギでない連中。
(遠慮はいらねえ、本気でいく)
武井は心のスイッチを切り替える。
パパパン! 目にも止まらぬスピードの突きや蹴りが、正確に急所を捉え五人を
倒してゆく。
うずくまって胃液を吐く者、腕を掴まれて肘に腕刀を喰らった奴は、関節を折ら
れて腕をブラブラさせている。
それを見ていた石口は、驚愕した。
(こいつは一体なんだ? ただのヒョロヒョロのはったり野郎じゃねえ)
「お前等の敵う相手じゃねぇ! 俺が相手をしてやる」
石口がそう言って上着を脱いだ。
(こいつは出来る)武井は石口の立ち姿を見てそう思う。
武井はやはりスタスタと近づく、相手の制空権をわざと犯してしまうのだ、する
と相手はどうしても動かざるを得ない。
顔面にストレートがブンッと飛んで来る、とともにワンテンポおいて武井の臑を
狙って左足で蹴りが来る。
(喧嘩慣れしている!)視線を上に集中させて、見えにくい低い蹴りを出す。分か
っている奴でなければ、こういう一見地味な闘い方はしない。素人なら一撃でやら
れているだろう。しかし武井には見えている。日夜、素手の戦いを研究しているの
だ。素人は、くる攻撃そのものに神経が集中するが、出来る奴は全体を見る。
ストレートを内受けしながら、蹴りを右足を上げて避けると、その足で水月(み
ぞおち)に中足を蹴込んだ。前に出て来る力に対するカウンターとなって、思わず
膝を着く石口。
それでも顔をしかめながら立ち上がって左右を連打してくる。
しかしダメージを負っているためか、拳に威力がない。右拳を掴むと、石口の前
を横切るように頭上に上げてクルリとターンし、石口の関節の逆を取る。石口の身
体は海老の様に反り、武井は逆を取ったその腕を自分のくるぶし目がけて投げ落と
した。合気道でいう四方投げだ。
後頭部から真っ逆さまに落ちるために非常に危険な投げで、練習では受け身が取
れるように投げるのだが、今は実戦なのだ。思い切り叩きつけ、そのまま相手の腕
を離さずに、顔面に手刀を落とそうとしたその瞬間。
パンッ!
緑の山なみに乾いた音が響いた。
武井の動きが止まる。部下が(組長の危機)と背後から拳銃で撃ったのだ。
ゆっくりと横に倒れる武井。
「あなたぁ!」
車から綾が絶叫しながら駆けてくる。
「ばかやろう!」
したたか後頭部を打って、よろけながら立ち上がった石口は、拳銃を持った部下
を思いきり殴りつけると、「ステゴロにゃあステゴロだ!」と怒鳴った。
石口のプライドだったのだろう。
綾は武井にすがって、ドクドクと血の流れ出る銃創を押さえているが、武井の顔
は見る間に青くなっていった。
「チッ、面倒なことしやがって。金づるが消えちまったじゃねえか」
そう言いながらあたりを見回す。
「おい、身体を持て」武井の身体を部下が二人がかりで、頭と足を持って持ち上げ
る。
「なっ、何をするのですか! 救急車をを呼んでください!」 綾が叫ぶ。
「あそこだ」
石口が無表情に指差した場所には、古びたコンクリートの貯水槽があった。一辺
が2メートルくらい大きさで、鉄板で出来た蓋があり、入水と排水のバルブが付い
ていた。
蓋は太い針金で縛られていたが、錆びてボロボロになっている。
石口は針金を外すと蓋を開けた。深さは2.5メートルほどあった。
ここに入れろ、と指図する。
部下は貯水槽に武井を投げ入れた。
ドサっという鈍い音が貯水槽の中で反響する。
「あなた!」綾は泣きながら貯水槽に走ると、中に続く鉄製の梯子を降りた。
それを見届けた石口は、バタンと蓋を閉め、針金で縛り直す。
「おい、バルブを開けろ」
そう言われた部下は「えっ?」っという顔して躊躇した。その言葉の意味を確認
しようと、石口を見る。
「ばかやろう! 片方残したら厄介なことになるだろうが」
石口の有無を言わせぬ冷たい視線に耐えきれず、部下の一人がバルブを開けた。
ドッという音と共に水が流れ込む音が聞こえる。
薄れ行く意識の中で、水の冷たさに状況を覚った武井は、痛みを堪えながら梯子
を登り蓋を開けようとする。何回か上下させると、針金で縛られた蓋はバタンバタ
ンと緩み出し、もう少しで開きそうになったところで急に重く動かなくなった。
石口は蓋の上に乗ると、外国製の細巻きタバコを取り出し火をつけ、遠い山並み
を見ながら美味そうに吸い込んだ。
もう八分目くらいまで水が上がってきた。
武井は綾の腰を抱くと、最後の力で頭の上に持ち上げる。自分はどうなろうと
も、綾には少しでも生きていてもらいたかった。
蓋にへばりつくように息をしていた綾の口に水が流れ込み、武井はもう完全に
水没していた。
石口は蓋を見ている。コンクリートと蓋の間から水が溢れ出た。
腰を抱えていた武井の力が、段々弱くなっていくのを綾は感じる。暗い水中
で、武井の頭を抱いた綾は、最後の口づけをした。