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彷徨う雷雲   作者: 佐伯 蒼太郎
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三人の世界


               (十一)


 気がつくと街頭の暗がりに転がされていた。

 体中の激痛はいまだ尽きることをしらず、朦朧と激痛との意識のなかに、優しく

微笑む綾の顔が浮かんだ。それが、痛みを逃れるために自らが生み出したものなの

か、痛みから救うために彼女が現れたのかは、考える余裕すらなかった。


 あの日は綾の誕生日だった。

 バースデイパーティーを開くので、加藤と武井にも是非来て欲しいと言った。

「女友達も来るの」と、しかも自分の住むマンションでやると。


(警戒心がないのか?)


 加藤がドアを開けると「わあ! いらっしゃい!」と歓声が上がり、少し広め

のワンルームの部屋は、花が咲いたように賑やかだった。

 綾と3人の女友達、それだけで加藤は身の置き場に困る。そういう場所で音頭

を取れるような人生は送ってこなかったのだ。


「加藤さんって、綾から聞いて想像していたよりワイルドでカッコいいですね」


などと言われると、もう、どうしてよいか分からなくなってしまうのだ。


(武井のやつ、早くこないかな)


 武井は何時までたってもやってこない。

「七時頃から始めるから」と綾に聞いたことを忘れるはずもないのに、もう七時

四十五分になる。


「じゃあ、武井さんがまだだけど、始めちゃいましょうか?」


女の子の一人が言って、加藤の買って来た、少し奢ったシャンパンで乾杯をし

た。


(あいつが時間に遅れるなんて......しかも綾さんの誕生パーティーに)


 何かあったに違いないと加藤は思う。


「自分、ちょっと見てきます」


そう言って部屋を出て、少し息がつけた気がする。別に探す宛がある訳ではない。

ただ、駅まで行ってみるだけだ。

 マンションを出て、歩き出そうとした瞬間、武井の姿があった。二本のステンレ

スポールで出来たフェンスに、大きな花束を持って腰掛けている。

洒落っ気のない武井にしては上等なジャケットを着ていた。


「どうしたんだよ、こんなところで」


「これ」


そう言うと、花束を加藤に差し出した。綾が好きだというカスミ草だ。


「自分で渡せよ。こいよ、みんな待ってるぜ」


「俺はいいよ、ほら、渡してくれ」


 そう言って花束を加藤の手に握らせる。


「なんでだよ」


「なんとなくさ」


 押し問答になりそうな気がしたので、


「じゃあ、気が向いたらこいよ、待ってるから」


そう言って加藤はマンションに入った。


(あいつ、俺に譲ろうとしている。死ぬ程好きなくせに)


 綾には「武井はそこまで来たのですが、急用が出来たとかで帰りました。

 「これ、あいつから」そう言って花束を渡した。

 そうとしか言いようがなかった。あいつは絶対に上がってこない。そういう男な

のだ。

 夜も更け、一人が「電車が無くなるから」と席を立つと、後の二人も追従して去

り、綾と二人きりになった。

 加藤は自分のプレゼントを渡すのを忘れていることに気づき、リボンの掛かった

本を手渡す。前に綾が読みたいと言っていた本だ。


「わぁ、有り難う。ケストナーね! うれしい!」


そう言って加藤に抱きついてきた。

 他に誰もいないことが、綾を大胆にさせたのだろう。

 加藤は綾の目を見る。こんなに近距離でじっと見つめたことはなかった。

 綾は目を閉じた。

 加藤は唇を重ねると、綾の腰と背を抱いた腕に力を込め、傍らのベッドに押し倒

す。 

 綾も次の動作を待ってじっとしている。 

 けれども、そこから先には進めなかった。  

 彼女の太ももを枕にしてうずくまると、もう、それ以上のことは出来なかった。

 フェンスに腰を掛け、淋しそうに、うなだれていた武井の顔をどうしても消し去

ることができない。


(あいつは、あそこに来るまでは、パーティーに参加するつもりだったのだ。あそ

こまで来て『俺に譲ろう』と決めたのだろう)


 しばらくそのままでいたが、綾は加藤の頭を膝に乗せたまま上半身を起こすと、

ベッドに腰掛け直してケストナーを読み始めた。

 朝の光を迎える迄、お互いが色々な想いを抱きながら時間は過ぎて行った。

 綾の柔らかな膝枕の感触に浸ろうと思ったが、その頬に触れていたのは冷たいア

スファルトだった。


「どうしました?」


 サラリーマンにそう声を掛けられ、自らの状況を思い出した。


「いや、ちょっと、酔っぱらっちゃって」


「酔っぱらったって、あなた、酷い血だ。救急車呼びましょうか?」


「なんでもないよ」


 そう言って立とうとしたが、身体中が軋むように痛んだ。


「ふらふらしているじゃないですか」


「なんでもないって言ってんだよ!」


 どうにかこうにか立ち上がると、ビルの壁を支えによろよろと歩き始めた。

 身体のダメージよりも、美知子がどうなっているのか、それだけが鉛のように加

藤の心を支配して重く淀んでいた。

 ようやく橋が見えるところまで来た。普段なら大した距離ではないのに、今はと

ても遠く感じる。


「とうちゃぁん」


 声が聞こえた気がした。目を細めて見る。


「とおちゃぁん!」


 橋の下から小さな影が飛び出して来てこちらに走って来る。

 走れるようになって、まだ一年くらいしか経っていないのに、時々転んでは起き、

一生懸命走って来る。ツギをあててやった、黄色いズボンの膝が泥だらけになった。


「ミチ、みちこ!」


 加藤は緊張の糸が切れ、すぅっと何かが自分の中から抜けて行くのを感じた。

 足を引きずりながら走った。美知子は涙と鼻水で、顔がぐしゃぐしゃになっている。

 ようやく加藤の胸のなかに飛び込むと「わ〜ん」と大声で泣きはじめた。

 加藤も抱きしめながら泣いていた。

 しばらく泣いて泣き疲れると、まじまじと加藤を見る。


「とうちゃん、どうしたの?」


「うん? ちょっと転んだだけさ、なんでもないよ」


 ただでさえ汚いシャツが、血が乾いて赤茶色のシミになり、顔はパンパンに腫れ

て、手もグローブの様になっていた。

 でも、そんなことはどうでも良かった。美知子に何事も無かったというだけで、

リンチを受けたことも、何もかもが、一瞬頭から消え去った。

 落ち着いてから美知子に聞いた話を繋ぎ合わせると、どうやら組員の誰かの女房

と一緒にいたらしい。

 食事も満足に与え、遊んでもくれたと。しかし、「お父ちゃんのところに帰りた

い」と言って泣くと「当分帰れないよ!」と怒鳴りつけたという。

 寝床に横になった加藤の腕の中で、美知子がスヤスヤと寝息をたてている。

 加藤は頭のなかで、あの佐伯組事務所で将棋を指していた二人のことを、記憶を

巻き戻し、スローモーションで見ていた。

 手前にいたのは佐伯組の組長だろう。

 組長と将棋を指していた男。忘れもしない、美知子の父親を、加藤の親友を、そ

して加藤が初めて心底愛した綾を殺したヤクザの集団の中にいた一人だ。


(痛い目にはあったが、あそこに行った甲斐があったぜ)


 加藤は忘れていた高ぶる気持ちを押さえることが出来なかった。


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