第肆拾漆話 Trip last in a beginning
ふと、目が醒めた。
まず視界に飛び込んできたのは――あまりに見慣れた、自室の天井。
寝起きで、まだよく働かない頭を枕から持ち上げ、ゆっくりとベッドの上に半身を起こし、ぼーっと部屋の中を眺める。
その目に映るのは、特に何か変わった様子もない、いつもと全く同じ、当たり前の光景。
夏也は、首をひねって自室の窓へ視線をやる。――窓の外にはすぐ、隣家の――千恵の家の、千恵の部屋の窓がある。
今はカーテンが閉まっていて、中の様子をうかがい知ることはできない。
次に、時計に目をやる。
壁にかかったアナログ式の時計は、8時を指している。――アナログ式では午前か午後がの判別はつかないが……辺りがすでに明るい、ということは恐らく午前8時。
夏也はそこでハッとして、机の上のデジタル時計にあわてて視線を移す。
間違いなく、午前8時の表示。――そして曜日は……
「や、やべぇ、寝過ごした!? が、学校! つーか、なんで誰も起こしてくれなかったんだ!?」
夏也は慌てて跳ね起き、急いで着替えようとして――いつもの場所に制服が無いことに気づく。
「あれ? 俺また風呂かどっかで脱ぎっぱなしにしたか?」
昨日、自分はどこで制服を脱いだだろうか……?
「昨日は……」
昨日は、……そう、学校をサボり、とある知識を求めて教会へ出向き、そして――。
「あれ? それで俺……どうしたんだっけ?」
思い出そうとしても、記憶に霞がかかったようでよく思い出せない。
「まあ、いいや。とにかく制服だよな」
夏也はトランクスにシャツだけの格好で、階段を降りる。
「母さん、俺の制服知らない?」
そのまま廊下を歩き、食堂に顔を出した。だが、そこに母の姿はなく、代わりに珍しく夏也の祖父が食卓についていた。
だが、平日のこんな時間だというのに食卓には朝食の皿は一枚も乗っておらず、父も兄の悠もそろってまるで葬式の最中のような暗い表情を浮かべ、俯いている。
それが、夏也が食堂に顔を覗かせるなり、揃って凄まじい形相でこちらを見た。
「うぉ、な、何だよ……」
「夏也。――覚えていないのか、自分が何をしでかしたのか」
鋭く訪ねたのは、父だった。
「お前の浅はかな行動が何を引き起こし、それがどんな結果を招いたのか、覚えていないのか?」
「へ?」
父の問いに、間抜けな声を上げた夏也の横っ面を、不意に立ち上がった祖父が、力いっぱい殴り飛ばした。
「この、愚か者が!」
我慢ならない、とばかりに何度も何度もその頬を打つ。
父も、兄も、それを黙って眺めているばかりで、いっこうに止めようとはしない。
「――っ、てっ、な、何を……っ!」
「……夏也。俺、今行ってる大学、退学することになったんだ」
悠が静かに言った。
「は?」
「――バンドも、抜ける。神主の資格を得られる学校に移る事になったんだ。本当なら、神職の親族とか、コネがないと入れないところらしいんだけど、その辺は融通を利かせてくれるらしい。でも、当たり前の入り方をしても厳しいところなんだ、――到底遊んでる暇なんかないだろうからね」
「私も、引継ぎが終わり次第、警察を辞めることになっている。……あの山に、新たにお社を建てて、そのお世話をすることになったからな」
続いて、父。
「……道場も、今居る師弟たちの受け入れ先が決まり次第、閉鎖することになった。……千恵様の、お世話を言いつかったのでな」
最後に祖父が。よく分からない事を言う。まるで冗談のような事を、深刻な顔でのたまう。
「は、……千恵、様?」
「……彼女の両親には、謝っても謝りきれないというのに。……謝ることすら、許されないとはね。ましてや千恵様や那由他様ご本人に至っては――」
「あのような辛い選択をさせねばならなかったのだ。こんなことで償いになるとは到底思えぬが……、せめて、精一杯お仕えせねば」
悠が尋ねる。
「それで……彼女は?」
「龍神様が、一週間の猶予を下さった。……この先、あの方たちがこの地を離れる機会はもうないだろう。せめても、最後くらい2人でゆっくり楽しんでいただかねばと思っての、……温泉宿をとった。もちろん、費用はこやつの小遣いから差っ引いての」
――ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。
規則正しく刻まれる音。スプリングの効いたかすかな振動が、座席を通して身体に伝わる。
となりの座席で、窓辺に肘をついてこくり、こくりと彼が船を漕ぐのも無理はない。こちらも、先程からまぶたが重くて仕方がないのだ。
けれど、貴重な景色を見逃したくなくて、必死に閉じようとする瞼を開けているのだ。
「あ、……見えてきた」
頂きに白い雪をかぶった青くそびえる美しいシルエット。
「……こんな近くで見るの、初めて」
天気の良い日であれば、度々目にすることのできるそれだが、やはり間近で見ると迫力が違う。
「……那由他、ほら、あれ。富士山」
思わず那由他を揺り起こし、千恵は窓越しにそれを指差した。
「ん……、ああ、すまない。つい寝入ってしまったようだ。――ああ、そうか。そう言えば……永いことこの地に暮らしながら、この山を間近に見るのは私もこれが初めてだったな」
そびえ立つ山を、窓越しに見上げ、那由他が感心する。
「なるほど、確かに綺麗な山だな」
「うん。……でも、富士山を通り越したらもうすぐ小田原だし、熱海もすぐだよ。新幹線を降りて、電車を乗り換えなきゃ」
未だ、目を覚まさない夏也を置いてくるのは少々後ろめたいものがあったが、彼の祖父と父とに散々頭を下げられ、せめても、と言って勧められた旅行。行く先は、伊豆だ。
綺麗な海を見て、海の幸を楽しみながら温泉を満喫する。
確かに、そんな贅沢が出来るのは、次は当分先になるだろう。……那由他と旅行。初めての事で、その誘惑に抗いきれず、千恵と那由他は朝早くから新幹線に乗り込み、こうして朝日とともに富士山を眺めている、という訳だ。
「――でも、良かった。……皆、消えていなくなっちゃったんだと思っていたのに。あっちの世界で元気でやってるって聞いて、ちょっと安心した」
扉の存在を語った後、龍神が教えてくれたこと。
「あっちの世界でなら、他の皆も今よりずっと自由に暮らせるし、那由他もまた、ちゃんと地霊の主をやれるんだよね」
そこは、人ではないモノノケ――こちらの世界では確かなものを持たない存在が棲まう世界なのだという。
細かく分ければ、魔界だの天界だの、他にも色々あるらしいが、とにかく人外の世界であることは間違いない。その二つの世界を不法に行き来しようとする者が居ないか見張り、そういう輩を取り締まるのが、異界の扉の番人とやらの主な仕事であるらしい。
異界で、人外の存在相手に千恵がその仕事をするのは難しい。――だからこそ、あちらの世界の番人は那由他が。
こちらの世界――人界で、人ではない那由他がそれをするのもやはり難しい。――だからこそ、こちらの世界の番人は千恵がやるのだ。
……とはいえ、千恵だって一人では何もできないから、橘家の人々の力を借りながら、ということになるだろう。
「そのせいで、悠兄が学校やバンドを辞めなきゃならなくなったり、夏也のお父さんやお祖父さんまで仕事を変わらなきゃいけなくなっちゃったのは、さすがに申し訳ないんだけど」
事情を父たちから聞いた悠も、当然師範や夏也の父も気にすることはない、と言ってはくれたけれど。
「……お前は、橘夏也を恨んだりはしていないのか?」
「ううん。……だって、普通に現代を生きている人が、突然モノノケだなんだって言われたって、簡単に信じられない気持ち、分からなくもないからさ。それに、今回のことは……夏也の気持ちに気づけなかった私にも、多少なりとも責任はあるんだし」
千恵は、那由他の肩に頭を預け、もたれかかる。――彼の体温は、程よく暖かい。
「それにさ。……思っていたのとは少し違うけど。頑張れば、私もそっちへ遊びに行けるようになれるんだし。……その、逆だって」
「……まあ、そうだがな。――しかし、あの指南役だとかいう男。どうも私は信用ならん。私は構わないが、……もしもこちらで千恵に何かあっても、当分私はお前を助けに駆けつけてやれない身になってしまう。それが……どうも、な」
――千恵の目には、穏やかで優しげな男性のようにうつったのだが。……しかし、まがりなりにもあの応竜様に仕事を任せることのできる存在だ。ただ、見た目通りの存在であるとは限らない。
「でも、“彼”なんでしょう? 番人を募集してたのって。そりゃあ、ただの人間だった私が神様なんてとんでもないものになろうっていうんだから、生半な事じゃないのは覚悟してるけど。……そんな、那由他が駆けつけなきゃならない程の事は――たぶん、ないんじゃないかな?」
「……それはそうだろうが。……そうではなくて、だな。……なぜあの男がお前の指南役なんだ。私にはまた別の者がつくと言っていたが……」
那由他が珍しく、眉間にしわを寄せながら、指で窓辺をコツコツ叩いてイラついているらしい態度を顕にする。
「あの……、もしかして那由他、――妬いてる?」
千恵の問いに、那由他はフイッと視線をあらぬ方向へと逸らした。――どうやら図星らしい。
「あの、でも、まさか……。那由他と私の事情は知っているはずだし……、何もないと思うけど。私だって、浮気とかするつもりないし、何かあったら裏拳でも跳び膝蹴りでも食らわせてやるし」
張り切って言う千恵に、那由他は苦笑する。
「おいおい、相手は神だぞ? ……でも、そうだな。お前なら躊躇いなく相手を殴り飛ばすだろうな」
「……でも、さ。それでも、会えない間が心配だって言うなら、さ」
千恵は、少し那由他から視線をそらしながら小さく呟いた。
「先に、契約をしちゃえばもう、……そんな心配、する必要なくなる、よね?」