第肆拾壱話 hard fight
「やあ、どうも。……ふふ、待っていたよ」
学生服を身にまとった彼は、彼らしくない不敵な笑みを浮かべて、那由他の前に立った。
足元にあるのは、教会の鐘が釣られた尖塔の屋根。――尖塔、と名のとおり、円錐型の屋根の傾斜はかなりきつい。
それに。……現代建築の技術からすれば、そう高くもないが、それでもやはり低くはない。地上に立つのに比べれば、身に受ける風圧はいや増す。
そう風の強い日ではないが、あんなふうにだらしなくポケットに手を突っ込んで、平然と――それどころか余裕の笑さえ浮かべて――立っていられるような場所ではない。
少なくとも、ただの人間であったはずの、彼には不可能だったはずの芸当。
だが――。那由他が今、感じるこの気配が意味する真実を信じるならば、確かに可能だろう。
事実、那由他はその場所に彼と同様ごく当たり前に立っている。……ただ、違うのは目の前の存在に対する姿勢だけ。
あちらが、勝利を確信した余裕の笑みを浮かべるのに対し、那由他は歯噛みしながら無念の表情を彼に向ける。
「……成程。貴様の謀略家ぶりは健在、……いや、さらに磨きがかかっていた、というわけか」
那由他は苦々しく吐き捨てた。
「橘夏也の魂を、喰らったのだな。――京」
――魂の、契約。
契約者が魂を差し出し、それがモノノケのものとなった場合。契約者はその瞬間、人間という生き物ではなくなり、モノノケとしての生を歩むことになる。老いや寿命は無くなるが……もはや、次の生で人として生まれ変わる事はかなわなくなる。――永久に。
しかも、なお悪いことに……。
「京。……橘夏也の人格をどうした」
今、橘夏也の肉体に宿っているのは京の意識だ。――夏也の姿をした京が、ニヤリと笑う。
「さて。……どうしたんだっけかなぁ。一応、念のための保険として取っておいた身体だったんだけど。まさか彼女があそこまで戦えるとは思ってもみなかったからねえ、番狂わせに驚いて、僕も結構焦っていたからねぇ。よく覚えてないんだよねぇ。もう食べちゃったんだっけ、それとも無理矢理隅の方に押し込めてるんだっけかなあ?」
わざとらしく肩をすくめ首を傾げて見せる、実に京らしい仕草で、彼はお土産に貰ったお菓子の行方を思案するかの如く軽い調子でのたまった。
「ま、どちらにせよ。――これが橘夏也の身体である事実だけは変わらない。……たとえもう、人間とは言えない存在になっていようとも」
京は、そう言いながらその現実を見せつけるように、爪で自らの喉元を少し裂いてみせた。皮膚に、爪が食い込み、一筋の傷が刻まれる。
傷の深さを考えれば、すぐさま滲んでくるはずの血が――ただの一滴すら滴ることなく、傷は次の瞬間にはきれいさっぱり消え去った。那由他が感じる気配が、間違いなく正しいのだと。そう確信するには十分すぎる演出だ。
「――それでも。これはアンタの大事な伴侶候補の、大事な幼馴染みだ。さあ、那由他。アンタはどうする? 大人しく僕に喰らわれてくれるのなら、彼女は僕がイヴとして永遠に可愛がってやるよ」
那由他は、渋い顔をしながらも、それでも言い放つ。
「悪いが、それは断る。――千恵は、私のものだ。お前には渡さない。他の誰でもない、彼女のために」
彼女は、京に対しはっきりと嫌悪と拒絶の意を示した。そんな相手に、彼女を委ねるなど、決してあってはならない。
――那由他は一つだけ、夏也を救う手段を識っていた。だが、それは……。その、選択をするということは……。
那由他は瞑目し、牙を食いしばる。
記憶を取り戻す前ならば、もしかしたら躊躇わずその選択をしたかもしれない。……だが。
「そう? でも、僕には知ったこっちゃないし。彼女は、僕のものだよ、今度こそ……、ね」
わざとなのか、聞き覚えのあるセリフを口にして、夏也の顔をした京がうっそり微笑む。
そして。足元の屋根を、強く蹴り出し、那由他の懐に突っ込んだ。――足場の良くない場所で、自分より高い位置にいる那由他の腹部に自らの拳を叩き込むその所作は、間違いなく人間には不可能な動きと速度で。
那由他は本能的に反撃しようと振り上げた腕を、慌ててガードに回し、交差させた両腕でその拳を防ぐ。
ズン、と重たい衝撃が腕の骨をビリビリと痺れさせ、ジリ、と那由他の足元を後退させる。
その那由他の反応に、京は嬉しそうに微笑む。
「ああ、やっぱり。最初っからこの手で行くべきだったかなあ」
拳を防ぐ腕のガードの隙をつくように、京が脚を振り上げ、膝を那由他の下腹部にめり込ませた。
人外の力をもってして加えられた攻撃による衝撃は大きく、ましてや足元は不安定極まりない尖塔の屋根の上、那由他はこらえきれずに態勢を崩した。
足が、屋根の上を滑り、体が後ろへ大きく傾く。京は更にもう片方の拳を繰り出し、那由他の体を屋根板へ叩きつけるように殴り飛ばした。
那由他の背が屋根板を擦りながら斜面を滑り落ち、そのまま屋根から落下する。
途中、壁面を蹴りながら態勢を整え、両足で地面で着地を果たした那由他だが、苦悶の表情を隠すほどの余裕はなかった。
自分も屋根から身を躍らせ、更なる追撃を狙う京が、飛び降りた勢いに乗せ、飛び蹴りを繰り出してくる。
那由他は、それを片腕でガードし、もう片方の手で彼の足首を掴み、勢いのまま投げ飛ばした。
粒の大きい砂利が敷き詰められた地面を背で舐めながら、夏也の身体が藪へと突っ込んだ。ガサガサと、潅木の枝葉が派手な音を立てて舞い散る。
一応、受身を取ろうとはしたらしいが、流石にまだ体格の違う夏也の身体を完全に掌握しきれてはいないようで、身を起こすのに少々の隙ができる。
――絶好の、反撃の好機。だが、那由他は動けなかった。
夏也も、京も。那由他から見れば“なりたて”のモノノケ。ちょっと本気を出せば簡単に片付くはずの相手。だが、片付けてしまえない理由がある以上、那由他の反撃の手段はひどく限られてしまっていた。
京は、すぐさま体制を立て直し、再び那由他の懐に突っ込んでくる。――那由他は、それをガードし。京は、そのガードの隙をつくように、次から次へと追撃を繰り出していく。
だが、対する那由他はそれらをガードするか、前後左右に飛び退ってよけるか、はたまた彼の身体を捕まえて地面に転がすばかりで。
モノノケと化した夏也の肉体にとって、地面に転がされてできた傷など負傷のうちに入らない。その程度の傷など、瞬時に消えてなくなるからだ。
一方で、那由他にとって、なりたての彼らの攻撃によって被るダメージなど一つ一つを取れば大したダメージにはならないのだが、それでも、確実に蓄積されていくものはある。
相手に決定的なダメージを与えられない那由他にとって、戦闘が長引けば長引くほどどんどん不利になる。
外からの応援は――、もうしばらく持ちこたえれば、おそらく千恵たちが駆けつけてくるに違いない、が――
(千恵……)
今この場で繰り広げられている光景を、彼女に見せたくはなかった。
ほんの数刻前、京に囚われたもう一人の幼馴染みを救い出したばかりで。しかも2年前の残酷な真実を突きつけられたばかりだというのに。
彼女にとって、更に辛い現実となるであろうこの光景を、彼女の目に晒したくはなかった。
そうせずに済む方法は、ただ一つ。あまりの悔しさに、視界が歪む。
(何故……。どうして、また……・。私は、彼女との誓いを果たせず終わるのか……?)
数千の時を重ね、膨大な力を蓄え続けた那由他の命を費やせば、まだ。橘夏也を救える。今なら、まだ、間に合う。
けれど、それは同時に、彼女との約束を再び破る事にもなる。
決断をするなら、今だ。今しかない。早くしなければ千恵が来てしまう。
(――っ、ああ、くそっ!)
那由他は、覚悟を決め、その決断を実行に移そうとした――その時。
「お待ちください、那由他様!」
割って入ってきた人物が叫んだ。……聞き覚えのある声。
那由他は、その人物が誰であるかを認識すると、驚いて目を見張った。
「其方は……」
「申し訳、ございませぬ……・!」
どう見ても、尋常ではない乱戦の場に割り込んできた彼は、その場に這いつくばって土下座をしながら、那由他に向かって謝罪の言葉を発した。
「那由他様……。どうか、どうか……、この馬鹿者はお見捨てくださるよう、お願い申し上げまする……!」