第参拾伍話 make up one's mind
真っ暗闇の中、懐中電灯の明かりだけを頼りに歩く。
――もっと、荒れ放題の藪の中を行く覚悟で来たはずが、意外なほど道が整っている。
きちんとした道があるわけではないが、邪魔な下草は除かれ、飛び出た枝木の類も殆どない。
せいぜい、小石の類を踏みつけてしまわないよう、段差に足を取られぬよう気をつける程度で、坂道を登っていくのにさほど苦は感じない。
昔、昼間のうちに兄や千恵とでこの山へ入り込んだ時にはあれだけ背の高い雑草が生い茂り、伸び放題の枝葉が道を塞ぎ、そも、道がどこにあるのかさえ分からない有様だったというのに。
――それは、祖父からある話を聞かされた翌日のこと。
代々、橘家に伝わるという、やけに長ったらしい、怪談じみた話だ。
夏也の血には、ほんの僅かながら、外国の血が入っている。
それは、悠にも、父や祖父にも言えること。
……とはいえ、99.9%までは日本人の血で、ほんの僅か、数代前の先祖の一人に外国人が居たというだけで、実際夏也の外見にその面影は皆無だ。もちろん、悠や父、祖父も、見るだに日本人にしか見えない。
その、ただ一人の外国人、というのが。
かつて、日本が長い鎖国をやめ、開国したことでやって来たキリスト教系の祓魔師で。
永らくこの土地で祀られてきた土地神を封じた張本人なのだと。
――その結果、この地にもたらされた災いの数々の話とともに聞かされた、5年に一度、捧げられてきた巫女の話。
そして、その災いを一人でおさめた少女の話。
まさか、それがただのおとぎ話ではなく、現実の話だったなんて。
それも、その関係者が自分のすぐ身近に揃うだなんて。
あの日、遊び半分に山を登り、古びた祠を見つけて喜んでいた、まだ幼かった自分。
あの時は、考えもしなかった。
千恵のいとこだと名乗った男、若宮那由他が、まさにその土地神本人で。
物心つく前からずっと一緒に育った千恵が、その彼に差し出された巫女の生まれ変わりで。
……自分は、その2人を不幸にした張本人の子孫で。
それらを仕組んだのが、京、だとは……。
夏也は、先日の道場での出来事を思い返す。
『――私は知るべき事をきちんと知った上で彼女を支えたい』
あの時、彼はそう言って夏也の祖父に話を聞かせて欲しいと願った。
当たり前の話だが、夏也が千恵と幼馴染みなのは、家が隣同士で、親同士の仲が良かったからだ。
夏也の父と千恵の父がそもそも幼馴染みで、かつて千恵の母を巡って恋の鞘当てを演じた仲でもある。
……当然、夏也の祖父と、千恵の祖父との付き合いも長い。――千恵の祖父母は、既に亡くなっているが……
言うまでもなく、いとこ、というのは両親の兄弟の子供のことを言う。
千恵の父は一人っ子である。
だから、夏也は当然、彼を千恵の母方のいとこだと思っていたが……。
改めて思い返してみても、千恵から母方の親戚の話を聞くとき、祖父母の話を聞いた覚えはあっても、おじやおばの話は一度も聞いたことがない。
だから、あの日いとこがいたなんて初めて知って驚いたのだ。
あの日、語られた話。――祓魔師の失態によってもたらされた災いを一人でおさめた、最後の巫女、というのが愛羽家の人間だとまでは聞かされていなかったが、祖父は知っていたのかもしれない。
このあたりでは、結婚式といえばまだまだ親戚一同会しての披露宴が当たり前だから、千恵の両親の結婚式に友人・知人枠で出席していたはずの父や祖父は当然知っていたはずだ。
……千恵にいとこなど居るはずがないと。
――気づいて、いたのだろうか。彼が、人ではないと。……かつて自分たちの先祖が封じた土地神そのひとなのだと。
あの時、祖父はあの事件のことから始まり、千恵の生い立ちや彼女の性格や考え方まで、幅広く丁寧な説明を彼に話して聞かせた。
彼が、千恵のいとこなどではないと、気づいていたはずなのに。
『本当は、もう気づいているんだろう?』
昼間に聞いた、京の言葉が、耳奥で木霊する。
『当たり前の方法で、彼女が君に振り向くことはない』
夏也は、不必要に地面を強く踏みしめながら、歩を進める。
『……前世で彼女は、死にかけの那由他を救うための代償として、その命を差し出した』
千恵の前世の巫女。……その彼女から、“彼”を奪ったのは、夏也の先祖で。
それを救うために、彼女は命を懸けた。
『あいつは、命懸けで自分を救った彼女に心底惚れ抜いてる』
それは、夏也の目にも明らかだった。
だが、夏也が祖父から聞かされた話では、封印される前の当時から、既にそういう関係だったのだと言う。
それを引き裂いたのが、夏也の先祖の祓魔師だったのだと。
『命を懸けてでも救いたいと願った男と再会した彼女が、単なる幼馴染みでしかない君に、振り向いてくれるとは到底思えないんだよねえ、僕には』
――単なる幼馴染でしかない、どころか、憎い仇の一人であろう人物の子孫である自分に、彼女が振り向いてくれるとは……
これっぽっちも、思えなかった。
周りの木々が、ふと拓け、あの日と変わらぬ佇まいの祠が現れる。
ようやく辿りついた目的地を前に、夏也は一度、歩みを止めた。
祠に、懐中電灯の明かりを向ける。
警官が装備する、本格的な懐中電灯の強力な明かりが、古ぼけ壊れかけた祠を照らし出す。
『永久の時を共にし、自らの仔を産ませるための伴侶を迎えるために。……奴は彼女の肉体の時を止め、化け物の仔を孕める身体にしてしまうつもりなんだよ』
千恵は……そうと知りながら彼と共に居るのだろうか?
『ねえ、歳もとらない、化け物の仔を宿す女を、君は人間だと思えるかい?』
思えるはずが、なかった。
あの日、見上げるようだったその祠は、今では屋根を見下ろせるほどちっぽけだ。
だが、その存在感はあの日とはまるで別物に思える。
ここまでの道は、禁域とされながらも週に一度、この祠に貢ぎ物を収めるため定期的に村人が通っていた。
だが、ここから先、山頂へと続く道は、5年に一度しか開かれず、それも巫女に選ばれた者のみが行き来することを許された道だったという。
あの日、その隠された道を見つけようと、悠や千恵と探してみたが、夏也にはどれがそれかもさっぱり分からなかったが、今思えば千恵だけは、ある一点をぼおっと見つめていた。
当時の夏也には、他の景色と何ら違わぬように見えたそこには――。
ここまで登ってきた道と同様、簡単な手入れの施された道があった。
本当に最近、手を入れたばかりと分かる、道。
……2人で、この道を登ったのだろうか。
夏也は、山頂へと続く道へそっと一歩踏み出してみる。
恐る恐る、一歩、二歩、三歩と歩いてみても、何も起こらない。普通に歩ける。
――例えば、結界のようなものでも張られていて、弾かれるとか、ビリビリ痺れるとかするかもしれないと思っていたのに。
夏也は少しホッとしながら先へ進む。
(千恵の前世の巫女って、この山で五年もの間、奴と暮らしていたのか)
山の中で、たった一人、彼に血を捧げるために……。
(嫌じゃなかったのか? 化け物の供物にされて……どうして好きだなんて思える? 人間じゃないんだぞ?)
彼が、好人物であるのは……認めたくはないが、まあ……理解る。見目も悪くない……どころかかなり良いのも分かる。
だが、人間ではないのだ。
彼と共に在ろうとすれば人間でなくなる必要があるのだとすれば。
(そんなの、認められるわけねーだろ!)
『――僕は、人の精神を操る術も持っている。望むなら、彼女の心を君の物にしてやろう』
京の言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。
……那由他と千恵の関係は認められない。
けれど。
『……僕が欲しいのは彼女の血だ。それ以外に興味はないし、彼女から血を貰うときだけ貸してもらえれば、他は君の好きなようにするといい』
……京に、千恵を渡したいとも思えない。
だからと言って、人にはありえない能力を有する彼らに、今の自分の力で対抗するのはほぼ不可能に近い。
(どうすればいい……。どうすれば奴らから千恵を取り戻せる?)
あれからどれだけ歩いただろう。
不意にあたりが拓けた。今は闇に包まれているが、昼間は草はらが広がる長閑な風景が広がるのだろう。
――ここが、山頂なのだろうか。
何と言う事のない、どこにでもありそうな山中の風景の中に、夏也は腰を下ろした。
かつては、巫女以外の人間が足を踏み入れることが許されなかった場所に今、夏也は居る。
山登りは少々骨が折れたが、でも、それだけだ。何の障害も、問題もなくここまで来ることができた。
今と昔では、もう事情が違うのだ。
かつては確かに彼は土地神として役目を果たしていたのだろう。
それを知らず封印してしまい、街は災いを被ったが――。
今の彼はもう、土地神ではない。
彼が居なくとも、街は困らない。
(俺は、祓魔師の血を引いているんだ。……何か、何か方法はあるはずだ)
――グワァン、ゴゥン、グワァン、ゴォゥン……
教会の鐘の音が響く。――夜中の12時だ。
(……そうだ、教会!)
今はもう、建物の老朽化が進み、鐘のメンテナンスに業者がたまに訪れるのみで滅多に人の近づかない古びたそれだが――
(なにか、ヒントになるものが残っているかもしれない……!)
夏也は立ち上がった。
来た道を引き返しながら、夏也は決意する。
(明日、あそこへ行ってみよう。……何としても、奴らから千恵を取り戻すんだ!)
――グワァン、ゴゥン、グワァン、ゴォゥン……
鐘の音が、その決意を後押ししてくれているように、その時の夏也には感じられた。
気分が、なんとなく高揚してくる。
……その考えが、後であんな事態を引き起こすとは、この時は微塵も思わなかった。
その決意を、後で死ぬほど後悔することになるとは、これっぽっちも思ってはいなかったのだ。




