光の世界
機体は雲の絨毯の上を飛んでおり、下界の様子は殆ど見ることができない。
時折訪れる雲の切れ目のみが俺達が空に居ることを教えてくれた。
『現在高度3000メートル、時速320キロ』
無線から聞こえる声は長く前線から遠ざかっていたとは思えないほどしっかりしている。
曹長が操縦する一式陸攻は基地を飛び立ってからずっと右斜め前方に見えている。
右斜め後方には零戦が付いており、自機を含め曹長を先頭にした三角形を作っていた。
俗に編隊飛行と言われる体系である。
本当は我々零戦が前を飛んで護衛したいのであるが、如何せん経験不足のため到着地点までの道のりが分からない。
つまり、曹長の空間把握力は目が見える俺達よりも上ということなのだ。
改めて実感させられる事実は感嘆というより、人が鳥に感じる憧れに類似するものであった。
ふと、目をつぶってみた。
当たり前だが世界は黒く染まる。雲の中に突っ込んだ時のような感覚が身体を襲った。
空間での位置を見失うことによって起こる嫌悪感であった。
人によっては極度に神経をすり減らされ、結果、自分を見失ない墜落してしまう可能性もある危険な状態である。
でも……〝怖い〟という感覚は不思議と感じなかった。
暗闇の中で始めに見つけたものは〝ぬくもり〟であった。
お前か……?
問は答えを求めていたのではない。
何故ならそいつは言葉を発することはできないのだから。
無意識の内に順応していた機体の揺れは、愛機が俺を労わってくれているようである。
言葉の代わりという事なのか、その健気な動きは一層の暖かさを心に伝えてくれる。
愛機との繋がりをベースに俺の感覚は木が枝を伸ばすように周囲へと拡大されていく。
すぐ下方で感じる潤いは雲、長く形を留めない乾いた布は風であろうか?
右後方の仲間からは愛機と似た、けど方向性の違う愛情が感じられる。
どうも、この零戦達はまだお母さん気分でいるらしい。
俺達の行う動作一つ一つに対し、〝心配だ〜〟という感情が流れてくる。
更に両方の零戦から伸びる枝を辿ると完熟した果実に行き着いた。
果実は俺の左前方に実っている。
果実からは虫のようなものがひっきりなしに行ったり来たりしている。
枝が果実に近づくと虫の数匹が枝に止まった。
〝しょっぱい潤い〟〝冷たい潤い〟
遠い異国の海が見えた。
虫が外の情報を運び込んでいるのであった。
これが曹長の見ている世界……
俺が更に枝を伸ばそうとしていると、ふと真っ白で雪のような脆さと気高さを持ったような蝶が枝に降りた。
蝶は枝の上で羽をゆっくりと上下させている。
────これは褒美だ────
〝小林さん〟の声が聞こえた気がした。
その瞬間、蝶から光が溢れ出した。
光は半径数キロに及ぶ周囲の情報を伝達する。
風の色────湿度による重さ、速さ、方向
空の色────気圧、湿度、気温、高度
蝶の情報は虫とは比べ物にならない精密さを持っていた。
風の色が変わる空間が4つ。
その中でおそらく機体がある位置に発生している風が4つあった。
内、3つは自分を含めた味方編隊、後の1機は……っ!
『敵機、後方上方!!』
俺は悲鳴に近い声をあげながら操縦桿を思いっきり右に倒した。
俺と愛機は真下に広がる雲海に身を投じる。
本来なら身を呈してでも護衛対象を守るのが俺の役目であるのだが、今回は場合が場合だ。
既に敵機は有効射程の内に入ろうとしている。
今更、曹長と敵機の間に割り込む暇はなかった。
しかし、ある意味でその心配は杞憂だと言えた。
前方では護衛対象である曹長が、零戦と同レベルの操縦性能で下方への離脱を行っていたのである。
俺が感知できた敵を曹長が感知出来ていないわけはなかった。
『……ぐわっ!』
短い声が無線から聞こえた。
────この攻撃で犠牲になったのは編隊の三番機位置を飛ぶもう1人の零戦乗りであった。
雲中に飛び込んだ現在でも〝蝶の光〟は状況把握を可能としている。
風の塊のうちの一つが、紅い空気を出しながら散った。
『これより高度200まで降下し、逃走する。我々の最優先事項は救助である。────但し、任務に支障がでる事態に遭遇した場合、これを全力で排除する』
曹長の命令は対面上逃走を支持しながら、実際はこちらが優位な位置に敵をおびき寄せる〝作戦〟であった。
『降下!』
指示がでた。俺達2機は一糸乱れぬ動きで地面に接近する。
強烈なマイナスGが体を襲い、機体から飛び出ようとする身体を固定具が必死で押さえつける。
────機体を操ろうとするな。言う事を聞かせるんじゃない、言う事を聞いてもらうんだ。────
敵機が雲の下に出てきた。
そいつは直ぐに獲物を見つけ、同じく降下を開始する。
目の前には地面が迫っていた。しかし、まだ機首は上げない。
背後に突き付けられた銃口は濃厚な殺気を放っている。
今、耐えなければ一瞬後に命が絶える。
まだ、まだだ……まだまだ
高度計など見る余裕はない。
見えるもの、否、感じるものの全ての神経を目の前の地面に限定させる。
後方から迫る敵機がぼやけた。外の風景がぼやけた。乗っている感覚が消えた。
身一つで落下しているようである。
木の葉が見え、大地の砂が見えた。
今だ!
そう、感じるのと同時に力の限り操縦桿を胸元に引きつける。
重い
自由落下に近い降下により、操縦桿は乾いた大地にそびえる大木のように根をはっている。
「……っ!」
食い縛られた歯が圧力に耐えかねて欠けた。
口から出た血が若干緩まった頬を真横に流れる。
俺は笑っていた。
『高度5メートル、時速600キロ』
位置エネルギーから変えられた運動エネルギーは零戦の最高時速を超えさせていた。
主翼にはシワがよっており、空中分解を起こさなかったのが不思議な状態であった。
俺達が水平飛行に入ってまもなく後方で派手な爆発が上がった。
運動性能で劣る敵の戦闘機は機首の持ち上げに失敗し、地面に激突したらしい。
俺達は再び高度を上げ、本来の任務に戻った。
『生存者を確認。数は3つ。仲間だ』
敵機の来襲から五分後、水平飛行に入ってからでも四分後。
俺と曹長は乾燥した大地の上を巡航速度で飛行していた。
高度は1000メートル。これは、通常時に小林さんが地上の〝光〟を認識できる最大高度である。
『これより私は救助の為に着陸する。2番機はその間上空警戒を頼む』
「了解」
曹長が緩降下していくのを見届けながら俺も機体を高度500まで降下させる。
俺はスピードを落としていく曹長を中心に一定間隔を保ったまま輪をかく旋回を行う。
目を閉じた
また、機体を中心に枝を伸ばし始める。するとまたあの蝶が現れ、光を発し始めた。
二回目となり、若干身体が感覚を覚えていたのか、枝の伸びは先ほどより速い。
今の俺が枝を伸ばせた範囲は三次元空間で自分を中心とした半径5キロ圏内。
先ほど枝を伸ばした時にはあまり意識しなかったが、あの異様なまでの感知力は小林さん有ってこそ、なせるものであったのであろう。
〝下方へ〟
声が聞こえた気がした。しかし、それは小林さんのものではない。
では誰か?
俺の内側に何か熱いものが湧いた。
勘、戦闘機乗りとしての勘。それが言葉を伝えていた。
少しずつ上方へのを警戒薄れさせ、同時に下方への警戒を濃くしていく。
警戒の密度を調整すると、次は濃い警戒を行っている下半分の警戒範囲を広げていく。
「敵機発見! 反応2つ。低高度で高速接近中です!」
直線距離で8キロ地点。俺の警戒にそれは反応した。
────2匹の肉食獣はその牙に紅い潤いを求めていた