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「おつかわし屋事調べ 山姫さまの涙」  作者: しきもとえいき


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1/7

始まりの始まり 「山神様は乙女の神様」


 人の命も獣の命もさほど高くない江戸初期。

 鳥獣の話が分かる不思議な力を持つ娘のお市は、木曽路の麓にある宿場のおつかわし屋という馬借座で、美男子の弟の藤次郎に、大番頭で祖父の右腕であった辰吉や母のお福に心配と色々な迷惑を掛けつつも、老馬のアオと甲斐犬の黒丸を供連れに、山犬に襲われていた商人を助け出すなど、人と獣を助けることに暇がない。

 今日も今日とて、おせっかいの虫がむずむずと騒ぎ出し—— 

 危ない目に会いながらも、動物たちの力を借りて何とか事件を解決していく、お市と藤次郎の姉弟が繰り広げる、和風ほんのりファンタジーとミステリー。

 ひしひしひしひしと、宵闇が背中を追っている。

 鬱蒼と木々が生い茂り、更なる昏い影を投げ掛ける奥深い山の道なき道であるのに、小間物屋の茂平は息せき切って、音をなるべく立てないように走っていた。


 早鐘の如く鳴り響く自分の鼓動が外に漏れ聞こえるのではないかと怖れながら、止まることなく只管速足で峠を下っていく。 

 しとどに吹き出し滴る汗を拭いもせず、背中の行李の重さも気にする暇もない。

 峠とは言え、街道から大きく外れている獣道である。


 仕入れに少しばかり手間取ってしまい、出立が遅くなってしまった。

 それを取り返そうと近道を進んでいたのだ。

 そしてあれに出くわしてしまった。

 見かけた途端に出来るだけ音を立てず、急いで逃げた。


  自分が居た事は多分気付かれているだろうが、何処に居るか迄はまだ見極められていない筈だ。

 茂平はそう自分に言い聞かせつつ、萎えそうになる体と心に喝を入れ乍ら、足を動かし続けた。

 見つかったら――頭に過る悪い考えと背中に疾る悪寒を振り解こうと必死に走る。


 梅雨も明けようかという時節、宵の刻限とは言え蒸し暑い。

 だが茂平の体は震えていた。

 尋常では無い大粒の汗を掻き、頭巾を濡らし、着物の襟足は水をかぶったようになっている。


 わおーんと遠吠えが一つ。

 それに応えて二つ、三つと遠吠えが重なっていく。


 恐怖の主の声が木霊する。

 かなり近い。

 夜の闇に紛れて忍び寄り、疾る風かと見紛う程速く、地を駆け追って来る喰らう牙を突き立てる情け容赦のない餓えた獣。

 山中では出逢ってはならない、純然たる死の恐怖そのものであった。


 茂平は汗で曇る眼を拭いつつ、必死に目を凝らした。

 己の命を助けてくれそうなものを、血眼になって探しているのだ。


 散々ぱら旅をしてきて、奴らの活餌と成り果て、野晒しになったままの憐れな人の亡骸も目の当たりにしたことがある。

 自分はああはなりたくは無い。

 狼とはいえ所詮は山犬である。

 牙の届かない高い処へ、登ってしまえば大丈夫だ。


 そう何度も茂平は自分に言い聞かせた。

 幸いにして目線の先に、齢を重ねた大木が見えた。

 あれだ。あの大木なら登りやすそうだし、高さも十分にある。


 茂平は、焦りと安堵を代わる代わるその顔に浮かばせながら夢中で走った。

 足元が良く見えない暗がりの中、先程までの注意力を散らし全力で走り抜け、やはりというか当然というか、何か固いものに足を刈り取られ、受け身も取れぬ程、激しく躰を打ち付け、むっとする土と草の匂いを鼻先に、倒れこむ。

 その拍子に風呂敷包が放り出され、大きな音を立てて箱が壊れて中身が辺りに散乱した。


「あああぁっ」


 茂平は躰の痛みすら忘れて、かき集めようと焦った。

 折角仕入れた京下がり物の上等な髪飾りである。失くしてしまえば大損だ。

 慌てて拾おうと身を起こしかけ、顔が苦痛に歪む。

 右足に激痛が走るのだ。挫いたか折れたかは判らないが、満足に動きすらしない。


 ぐるるるる。

 直ぐ近くで唸り声が聞こえ、草叢がガサガサと音を立てはじめた。

 しかし、痛む脚は動かず、肺臓もふいごのようで、息を整える事すら侭ならない。

 どうにか、這いずり背中を木の幹に預けると、歯の根も逢わぬほど怖いにも拘わらず、腰の護り刀を抜いてやっとこ構えた。

 構えた刀の切先は、カタカタと小刻みに揺れて震えている。

 取り落とさない様、強く握りしめて茂平は祈った。

 全身全霊を賭けて、助けてくれるように祈った。


「お助けを。菩薩さま、お地蔵さま、山神様。あっしは善良な男です。誰も騙していません。盗んでも殺してもいません。御頼み申します」


 元々信心深くは無いのだが、今はまさしく神仏にすがる以外に助かる方法は無い。

 心の奥底から祈った。

 祈りもむなしく、薄闇の中に恫る眼が幾つも浮かび上がり、徐々に大きく数も増え、その分絶望感も増してゆく。

 遂に四本足の死の影が眼を爛々と輝かせ、鼻に皺を寄せながら、低い唸り声をあげ次々に姿を現した。牙をむき出し、一定の距離をとって茂平を睨んでいる。

 直ぐに襲いかかって来ない処が、更なる絶望と恐怖を呼んだ。

 ぬかりなく獲物を品定めし、確実に仕留める方法を探っているのだ。


「うわっー、来るなっ、く、来るなぁー」


 あらん限りの大声で叫びながら、守り刀をやたらめったら振り回す。

 かちゃん。

 汗に塗れた手から、無情にも守り刀が滑ってあらぬ処へ飛んで行ってしまった。

 茂平は、刀を握り締めていた筈の手を、あんぐりと見た。

 途端に、狼達が殺気を孕む。


「ひっ、おた、おたすけ……」


 声にならない叫びをあげつつ、喰われようとしたまさにその時、


「お止しっ。何してるのっ!」


 と強い口調の若い女の子の澄んだ声が飛んできた。

 同時に茂みから飛び出してきたその姿は、顔までは判らないが、間違いなく痩せっぽちの女の子の姿である。

 そんな女の子が、牙を剥いて殺気立ち、唸りを上げている狼の群れに物怖じもせず、対峙しながら力強くきっぱりと言い放つ。


「だから、お止しなさいって言っているの」


 途端にぴたりと唸り声が止んだ。


「人を襲っては駄目よ。人を襲ったら、鉄砲を持った怖い人たちが、わんさか来て、あんた達を追い立てるわ。棲み処を追われ、毛皮を剥がされ踏み付けにされるの。そんな事にはなりたくないでしょう」


 女の子は静かに優しく、悪戯小僧を叱りつけているような、そんな口調であった。   

 足元には何やら低い唸り声を上げている真っ黒な影が寄り添っている。


「ほらっ。御免なさいして、お帰りなさい」


 驚いたことに殺気を放っていた狼達は怒られた子供の様に、くーんと泣きながら一斉に草叢の中に消えていった。


「あの子達はもう襲ってこないから安心して下さい。体は大丈夫ですか? 怪我が酷くなければいいのだけれど……」


 駆け寄って覗き込む女の子の、涼やかな声が、茂平の耳元に届く。

 茂平は、安心したやら恐ろしいやらで、気が遠くなり、女の子が眼前で何やら話しかけているのだが、聞き取れず、ぼんやりと、


(ああここの山神様は乙女の神様だったのか)


 そう思いつつ、気を失った。




ファンタジー要素はだいぶ低い、ローファンタジーです。この後主人公たちのお目見えです。


読んでいただき有難うございます。素直に嬉しいです。

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