第二章【31】「冷たく沈む」
心臓が動きを止めた。
突き刺すような痛みに襲われ、思わず胸元を抑える。だがそれ以上に息が苦しく、堪え切れずに跪いた。
どれだけ荒く呼吸を繰り返しても、酸素が取り込まれてくれない。停止した血流が、必要不可欠な養分を送ってくれない。
やがては視界すら薄っすらと、暗がりに呑まれていく。
「……ユーマ! ……ーマ!」
サリュの声が、遠くなる。
肩に触れている彼女の小さな手が、感じられなくなってしまう。
暗闇に落ちていく。何度も落とされた、死の淵へ。
「……ガ、あ」
だけど今日はいつもより深くて、――冷たい。
コレは、一体。
寒い暗がりが、意識を呑み込んでいく。
それを、
「悪い裕馬。手荒にいくぞ」
「……あ?」
不穏な宣言が耳に届いた、直後。
ズブリと、冷え切った身体に熱が差し込まれた。
「が!?」
あまりの温度差に、焼きごてを突き立てられたと錯覚した。熱された五つの突起が体内で広がり、暴れ回り、痛みと熱さで意識が握り戻される。
その異物が手のひらだと気付いたのは、大切な臓器を奪取された後だった。
脱力した身体が、遅れて紫電の光に包まれる。再起動は胸の空洞を治療し、体内にリズムを戻してからだ。
「ご、ぼォ!」
血塊を吐き落とし、ようやく正常な呼吸を貪る。鼓動が一際力強く脈打ち始め、それを合図に血流が循環されていく。言葉通り、生き返った心地に肩を下ろした。
顔を上げれば、目を見開き真っ青な顔色のサリュ。
それから右手で赤黒い肉塊を握り潰した、頬を血に濡らす姉貴だ。
「な、なにをしやがった」
「心臓の掴み取りだ。感謝しろ愚弟」
「……とても感謝する内容には聞こえねぇが」
しかし言い知れない実感がある。恐らくそうしなければ、不味いことになっていたと。
それ程までに、あの冷たさは。
「今のは、中居さんの」
ゆっくりと立ち上がり、彼を見据える。
十四の黒腕に囲まれた男は、未だに遠くで君臨し続けている。
あろうことか敵対する俺たちに、サリュという脅威に背を向け、近くに控える姉妹たちへと向き合っている。
到底理解の出来ない愚策だ。少なくとも、俺が見る限りでは。
「オトメ、ユーマは大丈夫なの?」
「ああ、とんでもない手段に見えただろうが、処置は出来た」
「分かった。――なら、もう一度ッ!」
「やれ、サリュ」
姉貴の頷きに応え、サリュが右手を突き出し構える。今一度、その手のひらは標的へとかざされ、淡い光を灯す。
そして黒腕たちへ、複数の魔法攻撃が撃ち放たれた。
先程骨手を貫いていた雷撃、真っ直ぐ空を裂く閃光、燃え滾る炎の弾、放電迸る黒槍。ありとあらゆる光の連撃が、ただ一人の男へと降りかかる。
だがその全ての攻撃が、後になにも変化を残さない。
大きな腕や人型を撃ち抜くことも、衝突によって爆散することも起こらない。
事象に移ろいは皆無。現状という暗闇が、視界の先で蠢きを続ける。
「掻き消された、のか?」
その黒腕たちに阻まれ、指先へと触れた瞬間。全ての攻撃が消失したように見えた。
標的の男は、それに振り向くことすらしない。何事もなかったかのように、そうなるべくして消え去ったと主張するように、当然の態度で背を向け続ける。
何故だ。ついさっきまで、優勢なのは俺たちだったのに。
「なにをしやがった」
要因は間違いない。あの腕だ。
アレは、あの黒にはナニかがある。
がしゃどくろじゃない。もっと違う、なにか別の。
「――貧乏神の力、か」
姉貴が、そう言葉をこぼした。
貧乏神。
「貧乏神だって? アレが、あんなモノがか?」
「にわかには信じ難いがね。だけど暮男本人から聞いたことがある。貧乏とは貧しく欠乏すること。それは時に、金銭だけには限らない、と」
その在り方は、言葉を変えれば不運の神。
不幸神、疫病神。
中居さんは自分を、そう例えることがあったという。
「アレは恐らく、そういった不運を引き起こす黒だ」
「不運って、それでサリュの攻撃をなんとか出来るってのかよ」
「そいつは私も本人へ問い詰めたいくらいさ。だが、他でもない神を名に持つ特異の存在。肩代わりの神具も然り、それ程の力を持っていても不思議ではない」
憶測に過ぎず、けれども納得するしかない。原理など分かる筈もないのだから。
ただあの男は、サリュの魔法へ抵抗する力を発現させている。
それが現実としての脅威。
「オトメ、どうすればいい?」
尋ねる間にも、続け様に雷を撃ち放つ。結果は変わらず、深く黒い手のひらによって阻まれ消え失せる。
姉貴は口元に手を寄せ、呟いた。
「不運、不幸。魔法の消失は現象によるモノなのか? とても単純な硬度で防いでいるようには思えない。なにより単純なエネルギーであるなら、サリュの魔法を防げる筈もない。などと考えたところで、正体不明のアレに対して出来ることは一つしかないか」
そして一つの指示を告げる。
「――サリュ、魔法の出力を上げてくれ。最大火力だ」
「……オトメ。でも、それは」
「悪いがそれ以外に試せる手段がない。向こうもそれは、覚悟の上だ」
「――分かった」
そのやり取りが示す結末を、想像出来ない筈がなかった。
サリュが最大火力を発揮する。その意味を。
「っ」
けれどそれを否定することも出来ない。俺にはそれに勝る策があるわけでもなく、力があるわけでもないのだから。
でも、簡単に呑み込める話でもない。
だってあの人は、名前も知らないただの脅威ではないのだから。
「……姉貴」
「奴はがしゃどくろだ。清算させる罪があり、退けざるを得ない力を持っている。ここで奴を逃がすことは出来ない」
分かっている。
彼が行ったことは許されない。
あの力は看過出来ない。
その上、敵対してしまった以上、これを終わらせるには……。
「――焔よ」
呼応するように。
ゆっくりと、少女の細腕が夜空へと掲げられた。
その小さな右の手のひらに展開される複数の光。
赤い線にて円を描き、折り重なる魔法陣。
――そしてその手に、煌々と燃え盛る輝きが灯される。
しかし、
「ん、っ」
サリュが小さく声を上げ、眉を寄せる。
直後、異変が引き起こされた。
顕現した焔が過剰な揺らめきを見せ、周囲に無数の火の粉を振り撒いた。紅の輝きも強弱を繰り返し、一帯に落とされた影を明滅させる。
「なによ、コレっ!」
開いていた左手で右腕を掴み、息を詰まらせるサリュ。その指先に力が込められ、目付きが鋭く焔を睨む。けれども焔はより激しさを増して暴れ、遂には無数の火柱が宙を焦がした。
とても尋常ではない焔の挙動。それがサリュの意図ではないことは、見るに明らかだ。
「サリュ、どうした!」
「分からないっ! 焔の制御が出来ないの! こんなこと、今まで一度もなかったのに!」
制御不能の焔は、やがてサリュの頬すらも火柱をかすめた。
一度もなかった。そんな異常がここで起きるのか? まさかサリュがなにかを間違えてしまったのか? この状況で、初めて?
それこそ有り得ない。よりにもよって、ここで失敗を知るなんて、そんな不運は。
「――まさか」
すぐさま思い当たり、視線を移す。
離れた場所に立ち、俺たちに背を向けていた筈の男を。
中居暮男は、
「悪いね。流石にそれ程の攻撃は、許容出来ない」
静かにこちらへ向き直り、俺たちへと右手をかざした。
淡い光に包まれた、その手のひら。そこに在るのは、小さな石のペンダントだ。
「やってくれたな暮男。神守の神具を奪ったか!」
姉貴が声を上げ、それを理解する。
神守の神具。肩代わりの力。
遅れてもう一つ、気付く。
男が君臨する地点、その周辺。彼を取り巻く一帯の地面が、黒色に塗り潰されていることに。
そして、
「やれやれ。君を潰さないと、おちおち話し合いもままならないな。――消えておくれよ、魔法使いのお嬢さん」
宣告の後。
再びサリュへと、十四の腕が撃ち放たれた。
それも、ただの焼き回しではない。恐らく先程のように、簡単にはいかない。正体不明の黒腕たちが、重苦しい負の圧力を放ち襲い来る。
「ッ、焔よ!」
サリュは迫る黒腕へと右手をかざし、声を上げた。
響く号令は、未だ手の内で暴れる焔へ。すると無数に分裂した炎の柱が、一斉に腕たちへと放出された。
その数、七つ。腕の本数には大きく及ばない。おまけにリリーシャを打ち倒した焔に比べれば、破壊力も遥かに劣っている。
だが別たれた炎は、その全てが必殺の火力を滾らせている。鬼血や骨手程度の硬度では、一瞬たりとも持ち堪えることは敵わない。
そこまでの威力で、ようやく。
「はあああああああッ!」
焔と黒腕が、正面から衝突した。
開かれた手のひらへと直撃した炎柱。その威力に五本の指は大きく反らされ、腕は制止を余儀なくされた。どころか手の甲や腕に亀裂が入り、黒塗りの奥の骨身が晒されている。
それだけじゃない。とても一本の腕では支え切れず、二本の腕が束となり、ようやく炎と撃ち合っていた。サリュが別ち放った七つの炎柱を、十四全ての腕で持ち堪えている。
僅かにサリュが優勢かに見える状況。このまま撃ち合い続ければ、サリュの炎に黒腕が耐え切れなくなる。
しかしそれは、このまま撃ち合えばの話だ。
「ッ、また制御が!」
その時は突然だった。
衝突していた炎が、またしても分裂を始めたのだ。黒腕へと真っ直ぐ続く炎の線が、途中で枝分かれをして火の粉を散らせる。地面を削り、空気を焼き切り踊り狂う炎は、当然中心となる一撃の威力を低下させてしまう。
結果、ギギギと軋みをこぼしながらも、腕たちが前進を始める。あろうことか、サリュが押され始めていく。
「なんで、なんでッ!」
声を上げるが、勝手の効かない炎は更に別たれ、出力を低下させていく。それでもと右手に一層光を灯し、抗うサリュだが、迫り来る黒を留めることが出来ない。
重ねて、事態はそれだけで終わらない。
「ぐ、うっ」
強く結ばれた唇。
その端から、赤い雫が顎を伝った。
「サリュ!」
なにかの攻撃か、それとも魔法が制御出来ない代償なのか。
咄嗟に駆け出そうと、右足を踏み出す。
瞬間、プツン、と。
「――は?」
頭の中でなにかが切れた。
突然視界が揺らぎ、平衡感覚を奪われる。
合わせて踏み出した右膝に痛みが走り、ガクリとその場に膝を付く。続く二歩目を踏み出すことが出来ない。
どころか、今のままでは立ち上がることさえも。
「か、は」
頭部と足が紫電と共に治癒される。こうしている間にも、ほんの僅か手の届かない距離で、サリュが苦悶の表情を浮かべている。
額から、新たな血の線を落としながら。
そして同時に、その時が来る。
「ッ!?」
一つ、炎の柱が消滅した。
立て続けに二つ、三つ。残りの四つは未だに放射を続けているが。
均衡が崩れ落ち、即ち六本の腕が解放された。
果たして今のサリュに、俺たちに、すぐさま対応出来る手段があるか?
「下がれ、サリュッ!」
叫ぶ。
少なくとも、俺が盾になればいい。サリュさえ無事で済めば次がある。俺は無事で済まなかったところで、よっぽどのことがなければ元に戻る。だからこの身体であの腕を受け止めればいい。それが俺の役目だ。
なのに、身体が動かない。
動いた途端に、崩れ落ちる。
「――が、ア」
踏み出した左足が、音を立てて力を失った。倒れた身体を支えようと地面に着いた右腕が、変な方向に曲がった。再生したと思っていた右足も何故か逆向きになっていて、また頭痛に襲われ視界が真っ赤に染まった。
呼吸、胸を刺す痛み。空気と一緒に喉を競り上がって来る血反吐は、恐らく肺の奥からだ。鉄の味、と思ったら音が消えた。立ち上がろうとしたらまた足が動かなくて転がって、ほんのそれだけで指や内臓がひしゃげる。
「なん、で」
サリュは目の前に居るのに。ほんの少し歩みを進めるだけで、今度こそ守ることが出来るのに。どうして、こうも阻まれる。
――決まっている。
それはこの、全身に纏わり付いた冷たさだ。
けれど、その要因を知ったところで、活路を見出すことは出来ない。俺にはどうすることも出来ない。
「……裕馬、サリュを、頼むぞ」
耳に届いた姉貴の声は、弱々しく擦れたものだった。
この場に居る全員が、その力によって痛めつけられている。そのナニかに対して成す術もなく、されるがままに血を流している。
俺も姉貴も、サリュでさえも、この状況を打破することが出来ない。
「……サ、リュ」
なんとか立ち続け抗うサリュを、転がり見上げることしか出来ない。
だけどそれも限界だ。
「っ、ユーマ」
遂に、サリュの右手から光が失われた。続けられていた炎の魔法が断ち切られ、彼女の向こう側で、全ての腕が解放される。
迫る黒腕たちに、成す術はなく。
振り向いたサリュは、血に汚れ青ざめた顔色で、
――ごめんなさい、と、そう呟いた。
だから、
続く巨大な爆発は、彼女が引き起こしたものではない。
突如視界を覆い尽くした、真っ赤な爆炎。激しい衝撃を振り撒き、地面や森の木々たちを大きく削り取る。
腕たちはその炎に根元から呑み込まれ、俺やサリュも後方へ吹き飛ばされた。
完全に隙を突き、更にはすぐさま消滅しない程の威力。明らかに黒腕への有効打となったその爆発は、俺の知り得ないものだった。
「――なに、が」
ただ、一つだけ。
鼻につく火薬の臭いには、覚えがある。
それは魔法や異なった常識による発火ではなく、この世界の理によって引き起こされたモノだ。