第二章【30】「黒の覚悟を」
私はこの男のなにを知っていたのだろうか。
私たち姉妹は暮男さんに引き取られたけれど、ほとんどの生活を共にしていない。
彼の体質故に共同生活など不可能で、私たちは別のアパートを借りて支援だけを受けていた。時折街で鉢合わせたら軽く話す程度で、特に直近の一年に至っては、私が家を空けていたからまったく接点がなかった。
だけど果たして、それらがなかったとして。もっと傍に居られたとして。
私は彼に近付いていただろうか?
私は彼を知ろうとしただろうか?
そんな「もしも」に意味はない。
私は彼を知らない。それが避けようのない事実として、今この瞬間に立ち塞がっている。
貧乏神であり、一夜百語の首領であり、大妖怪がしゃどくろ。それらの彼が教えてくれた情報以上のモノを、私はまるで知り得ていない。
彼の好きな食べ物はなんだろうか。彼の利き腕は右で合っているだろうか。
彼が私たちを引き取ったのは、責任感だけだったのだろうか。彼と私たちの両親は友人らしいが、どんなことを話していたんだろうか。特異な存在である彼とどう付き合って来たんだろうか。
彼は、中居暮男は、なんの為に。
私はなにも知らない。
だから、
「――あ」
今この瞬間、目の前で顕わになった彼を、私は知る由もなかった。彼を取り囲む十四の骨手が、深い黒色に塗り潰される、この光景を。
私は彼の背後で茫然と座り込み、目を見開いていることしか出来なかった。
なにも出来ない。なにかを干渉するつもりも起きない。
それでも、なのか。それ故、なのか。
突如襲い来る体内の激痛に、私はうずくまり右手で胸元を握り締めた。
「か、ハ――!?」
胸の奥に、突き刺すような痛み。まるで臓器を刃物で直接刺されたような、鋭く入り込む激痛だった。
重ねて大量の発汗、指先の震え、そして呼吸が止まる。いや、正確には、呼吸をしているのに息が苦しい。どれだけ酸素を吸い込んでも、無意味に吐き出されていくような。
「ヅヅヅ、ヅっ!」
握り締めた胸元、手のひらの内側に在る石の欠片へ祈る。
――神守の神具を発動。痛みの、悪症状の肩代わりを。対象は触れている地面へ。
そうすることで、胸の異変が肩代わりされる。正体不明の異常は、触れていた大地へと流動する。
「――っ、か」
一連の変動は、問題なく執り行われた。
すぐに呼吸は安定し、刺すような痛みからも解放された。
だが、安堵の息を零すよりも早く。
「ッ」
視界に広がった異変に、息を詰まらせた。
「な、――に」
うずくまり、見下ろした大地。数々の戦闘で巻き上がり、掘り起こされ、ぐちゃぐちゃになった土草。
それらが、黒く変色していた。
色濃い黒に、塗り潰されていた。
「なに、が」
顔を上げる。
黒色の変異は、私の周囲だけに引き起こされていた。
辺り一帯の土草は元の色を保ったまま、ただ当たり前に夜の影を落としている。その中で僅かに、私を取り囲む大地たちだけが、影より深い黒色で塗り潰されている。
まるで、切り取られて穴が開かれているかのように。
まるで、あの男の腕と同じように。
「――っ」
それでようやく思い当たった。
コレは肩代わりによって起こされた現象だ。
私の胸の痛みを引き受けた大地が、その原因によって黒く染められたんだ。
「どういう、こと?」
神守の神具は、受けた傷や痛みを肩代わりさせることが出来る。斬り傷を受ければ斬り傷を、打撃を受ければ打撃によるダメージを、他のモノへと移すことが出来る。
それは地面に対しても同様だ。私が裂かれていれば地面も裂かれ、潰され砕かれていれば地面が沈み亀裂が入る。対象の強度や性質によって受ける痕跡に多少の差異はあるけれど、大凡そのままのダメージに返還される筈だ。
じゃあこの黒色はなんなのか。
そんなの、こう考えるしかない。
――これが私が受けた痛み。その本質だったって。
「……中居、暮男」
こんなの知らない。知らされていない。
一体、なにが引き起こされている?
「黒音お姉ちゃんっ!」
銀色の髪を振り乱しながら、妹が私の傍へ駆け付ける。
私と同じ肩代わりの力を使っているから、真白の身体そのものには傷一つ見当たらない。けれど黄色い着物がズタズタに裂かれて、肩口や削られた面から、隠し着ていたアンダースーツが覗いている。
もっともそんな傷痕など見せられなくとも、何度も立ち向かってくれていたのを見ていた。自由を奪われ潰され続けながら、ただ見ていることしか出来なかった。
「真白」
その名前を口にしてようやく、私はゆっくりとその場に立ち上がれた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
そんな私のことを、真白は変わらず、お姉ちゃんと呼んでくれる。
「……貴女は、どうして」
ああ。
どうして、この子はそんなにも。
「お姉ちゃん?」
「……ええ、大丈夫よ。肩代わりでなんとかね。真白は」
「全然大丈夫だよっ! って、この黒いの、ナニ?」
真白が足元を見下ろし、たじろぐ。
それは予想外の反応だった。真白も私と同様に、この異変を肩代わりによって乗り切ったのではないのか。
考えたけれど、すぐに駆け付けてくれたこの状況。私と違い、真白には影響がなかった可能性がある。
その証拠に、向こう側でも。
「――ガ、ぁ!?」
「ユーマ!」
胸を抑えて跪く片桐裕馬。恐らく彼は私と同じ状況にある。
対して、慌てて振り返る魔法使いの少女。彼女は変わらず立ち続け、痛みに蝕まれている気配はない。
少し離れた木の根元でも、ぐったりと倒れて安定した呼吸を繰り返しているリザードマン。傍に控える片桐乙女も眉を寄せ、不安げに状況を見守っている。
私と片桐裕馬だけに、異変が引き起こされた。そう結論を出し、
すぐに違うと、気付いた。
「――え?」
予想外にも、もう一人。
「感動の再会だね。黒音、真白」
言って、振り返る中居暮男。
その額から、口元から、真っ赤な血流が伝い落ちていた。
どころか、身に着けた衣服にも赤黒い染みが浮かび上がり、じわじわと広がりを見せている。
「……一体、なにが」
なにが起こっているのか。
私や片桐裕馬に襲い掛かっているのは、あの男の力ではなかったの?
だったらどうして、あの男自身が血を流しているの?
「中居、暮男。貴方は――」
「……まったく。君は最期まで、お父さんとは呼んでくれないんだね」
「――っ、なんで」
なんで、そんなことを。
突然の言葉に口籠り、上手く返答が出来ない。どころか意味が分からず、動揺させられてしまう。言葉も状況もなにもかもが滅茶苦茶で、思考がまとまってくれない。
それが、彼の狙いだったのだろう。
「悪いね、黒音」
「な」
混乱する私へ、容赦なく。
ゴボリ、と。
――胸中に、黒塗りの腕が突き刺された。
「……っ、が」
「お姉、ちゃん?」
口内に広がる鉄の味。堪え切れず無様に吐き出して、顎を真っ赤に伝わせてしまう。不思議と痛みを感じるよりも先に、背筋が凍る程の冷たさが胸の内で暴れ回った。
今もまだ突き立てられた腕から、その冷たい闇が浸食を続けている。
胸を貫くだけに収まる、小さく細い黒腕が。
「……あ、ああ」
あまりに一瞬の攻撃。まるで対応出来ず、まんまと胸を貫かれた。
伸縮も大小も自由自在。なるほど強大さに目を奪われてばかりだったけれど、小さくするのもお手の物。どころか縮小させることで素早く的確な一撃を叩き込んで来るなんて、自由度が高いにも程がある。
遅れてズブリと、小さな腕が胸元から引き抜かれた。
握られた黒い拳は、指の隙間から白い光を零している。その光が、拳の内側に奪い取った力の存在を、ヤツが私を攻撃した狙いを明らかにしている。
私の、神守の神具を、奪った。
「――ッ、どご、までッ!」
あの男は、どこまで私をコケにすれば気が済む!
「が、ご……ッッツ」
加熱する怒りに、けれども身体は応えられない。
全身から力が奪われ、傷口から浸食する冷たさが熱を消失させる。真白に支えられて、立ち続けているのがやっとだ。――いや、それすらも私は。
待ち受ける最期は、直後に身体から失われた。
私を支える妹の腕を伝って、体外へと放出された。
「っ、っっっツツツ!!!」
彼女の胸元で光を放つ神具。
もう一つだけ残された肩代わりの力が、その傷を私から真白へ。そして真白を経由して、地面へと流し込まれる。
やがて大地に小さな穴が開かれ、その周辺を深い黒が覆う。それで終わりだ。私にも真白にも、傷一つ残らない。
ただその異様な痕を、土草へ色濃く刻みつける。
「っ、……は、ぁ。お姉ちゃん、コレって」
「分かる訳、ないでしょう」
ふらつく真白を、今度は私が支える。
肩代わりの過程で、真白がソレを受け取っている。あの傷や冷たい闇を、その身に受けている。この黒が体内を這いずっていたというのは、かなり堪える筈だ。
「真白。気は抜かないで」
「分かっ、てるっ。お姉ちゃんも、真白から、離れないでっ」
「ええ」
まだなにも解決していない。
私たちはその黒い腕を、それらを従えた男を睨む。
当然、神具を奪った中居暮男も、力を発動させている。
「こればっかりは僕も、こうするしかない。軽蔑してくれて構わないよ」
かざした右手の上で輝く、神具の欠片。その力によって、額や口元から零れていた血が消えてなくなる。
代わりに私のモノと同じく、彼の足場に広がる漆黒。いいや、敷き詰められたその色の広がりは、私の時より遥かに大きく深い。
土は腐っていくかのように黒ずみ、植物は枯れ果て倒れ伏せる。
あの冷え切った黒が、肩代わりによって大地を終わらせている。
――殺している。
「そういえば、黒音たちは肩代わりで武器の重さを軽減しているのだったかな。しっかり支えてあげなさい真白。君が手を離してしまったら、黒音が潰れてしまう。それともそうなれば、収納してある武器を全部吐き出せばいいのかな」
どうなんだろうか、と。
後ろ頭を掻きながら、眉を寄せて小さく笑う。
「……貴方は」
「――そんなことも分からないのに、お姉ちゃんから神具を奪ったの?」
私の言葉を、真白が遮った。
支え合った左腕の反対、空を握る真白の右手へ、大振りの銃が取り出される。遅れて私も左手へ銃を取り出し、男へ構えた。
真白が問いを続ける。
「ねえ、お父さんはお姉ちゃんを殺す気だったの?」
「そんなつもりはないよ。真白が支えていたからこその判断だ」
「真白が支えていたから、お姉ちゃんの胸を貫いたの?」
「真白なら肩代わりで助けてくれるだろうと、確信していたからね」
「だから、お姉ちゃんを殺したの?」
真白の言う通りだった。
男も、ただ押し黙った。言葉を返すことはしなかった。
「……そうでしょうね」
もはや聞くまでもない。
真白が肩代わりをしてダメージを消してくれるから、あの人は私に致命傷を与えた。
死なないだろうと想定して、私を殺した。
「お父さん、分かってる? 運が悪かったら、お姉ちゃんは死んでたんだよ?」
「……そうだね」
「お父さんが使ってるその力は、一体なんなの? ねえ、その黒いのはなんなの?」
「……なんだと思う?」
「貧乏神の力なんて、使ってないよね?」
目を逸らすことを許さない。
真白がその事実を、彼へと突き付ける。
「まさかとは思うけど、真白たちの本当のお父さんとお母さんを奪った力を。――最悪の不運の力を使った上で、お姉ちゃんを攻撃した訳じゃないよね?」
運が悪ければ、私が死んでいるかもしれない。
不運の力を発動した上で、その選択を実行したというのなら、――それは即ち。
「そうだね。その通りだ」
中居暮男は、真っ直ぐに私たちを見つめ。
そして、はっきりと口にした。
「――最悪、黒音が死ぬ可能性も考慮し、僕は神具を奪った」
それは、私たちの関係を完全に断絶させる言葉。
最期の繋がりを、彼が自ら絶ったに他ならない。
「ふざけるな!」
私は声を上げた。
もうなにも抑えられるものがなかった。
「結局、全部ッ!」
お父さんとお母さんを死に追いやったのも、ビルに居た人質の人たちを殺したのも、ずっと娘だの逃がすだの言っていた私さえも。
「全部、お前がッ!」
この男は、全てを踏みにじった。
中居暮男が、全部を台無しにした。
「……僕は言った筈だ。テロ事件の責任を取る為にあの場に居たと。尻拭いとして、人々や一夜百語の連中を殺したと」
今この瞬間だって、その延長線だよ。
男は私たち姉妹へ、宣言した。
「全ては僕が引き起こした事だ。必要であるなら、――君たちを殺すことも考えている」
――悪いがそれが僕の性分であり、僕の背負った責任だ。
男は背後の黒腕を持ち上げ、構える。
その内、幾つかの手のひらを私たちへと向ける。
「逆に聞かせておくれよ黒音、真白。君たちには、それだけの責任を背負っている自覚があるのかな? いいや、言い換えようか」
覚悟。
男はそれを、私たちに問うた。
「君たちに失敗する覚悟はあったか? 失敗を受け入れる覚悟はあったか? それらを全て呑み込んだ上で、選択し行動を起こしていたか?」
尋ねる彼へ、直後。
パッと輝いた色とりどりの光が、一斉に降り注いだ。雷撃や炎、閃光。撃ち放たれた複数の魔法攻撃が、彼へと叩き込まれていく。
けれど男は、振り返ることもしない。
十四の腕たちが、彼の背を守るように広げられ、その手のひらで魔法の全てを受け止める。
それだけで、何故か。
黒い手へと触れた魔法が、ことごとく消えて失われてしまった。
何事もなかったかのように、続く破壊の未来が閉ざされた。
「どうだい? 素晴らしいだろう?」
男はその現象を見ることもなく、当然のように口元を緩める。
誇らしげに両手を広げ、呼応した黒腕たちまでもが、蠢き広がりを見せた。
魔法使いの少女たちが声を上げている。再び青白い光線を撃ち放たれ、標的へと一直線に叩き込まれる。――けれどやっぱり、黒い手のひらに阻まれた途端、光線は音もなく消失した。
「これが僕の本当の力だ」
がしゃどくろ。そして、貧乏神。
その二つの力を有する、中居暮男。
――これこそが、彼が本来持ち得る力。
「この力の発動に、僕は自分の命と、周囲の君たちの命を賭けた」
その結果がその腕だった。
絶対的な不利をも覆し、塗り潰す。
全てを上書きし、殺す黒。
「力にも、結果にも、代償なきモノなど存在しない。成功と失敗は表裏一体であり、救いの裏には犠牲がある。君たち子どもには格言のように聞こえるかもしれないが、なんてことはない、当然の事実だよ」
それを弁えていたか?
その上での選択を、決断を、行動をしてきたか?
男の言葉は、私たちを問い詰めている。
「危機意識を与える為に、危機を誘発する矛盾した姉。そんな姉の望みを叶える為に、平気で自分を殺し人道を外れる妹。両親を奪った世界を変えたかったか、黒音? ただ一人残された姉にしがみつきたかったか、真白?」
君たちの行動原理は、あまりに幼稚過ぎる。
君たちの望みは、あまりに非現実的過ぎる。
そんなものを抱いている君たちが口にする覚悟など、なんの想定も出来ていない、口だけの言葉でしかない。
「……もっとも、君たちの年頃ならよくある勘違いだ。そういった若さ故の過ちを僕は好む。本来はこうして問い詰めることもなく、遠くで見守っていたい主義なのだけれど、これもまた必要になってしまった事柄だ」
つまるところ、男は言った。
全てを諦め、逃げろ、と。
「主義主張を全て押し殺しなさい。感情も愛情も正義感も、そういったものも全部含めてだ。そうすれば僕はこの腕たちを、君たちの未来の為に振るおう」
そうでないなら。
「そうでないなら、僕は君たちの現在へ立ち塞がる。未来のない君たち姉妹を、ここで殺そう」
それが君たちへの、僕の覚悟だ。
「――――」
私はなにも言えなかった。真白でさえ押し黙り、なにも返すことはしなかった。
当然だ。
私たちは今この瞬間、この男に全てを殺されたのだ。
「――あ」
主義主張を、感情を愛情を、正義感を。それら全てを捨てた私など、私じゃない。そうしなければ未来へ進めないというのなら、それは彼の言葉通り、全てを押し殺すことに他ならない。
だからどの道、私たちはここで殺される。すでに殺されている。
問われているのは、生まれ変わるか、死に体で終わるかだ。
そして終わりを選ぶのであるならば、それは現実として私たちを死に至らしめる。
「――私は」
私は間違っている。
間違った私は死ななければならない。
きっとそれは正しい。
私は死んで、生まれ変わって、未来に進まなければいけない。そうしなければ未来へ進めない。その道こそが、間違っていない。
なのに、だっていうのに。
「……お姉ちゃん」
私を支えてくれる妹が。
真白がまだ、私に捕まっている。
「真白は、お姉ちゃんについていくよ」
死ぬも生きるも構わないと、そう言ってくれる。
どうして。
どうしてこの子は、そんなにも、真っ直ぐな瞳で私を見る。
そして私に選択を与えてくれるのは、真白だけじゃない。
閉ざされた漆黒の向こうで、一際眩い輝きを放つ。
立ち塞がる数多の障壁を越えて、その先の道を示している。
――煌々と明かりを灯す、焔が。




