第10話「君が来なくなるまでの話」
朝比奈悠太がいなくなって、数日が経った。
オフィスは、変わらない。
「吉岡さん、これ確認いいですか?」
「いいよ」
同じやり取り。
同じ空気。
(……静かだな)
前から、こんなものだったはずなのに。
(こんなに、何もなかったっけ)
ふと、視線が動く。
隣の席。
当然、誰もいない。
(たったそれだけなのに)
小さく息を吐く。
手は動いているのに、どこか集中しきれない。
(……めんどくさいな)
そう思いながら、また仕事に戻る。
朝。
「朝比奈くん戻ったんだって?」
「さっき見たよ」
そんな声が、自然と耳に入る。
(……戻ったんだ)
手は動いている。
いつも通り、仕事をしている。
でも。
(なんで、そんな普通なの)
少しだけ、思考がズレる。
「吉岡さん、おはようございます」
聞き慣れた声。
顔を上げる。
そこに、悠太が立っていた。
「……おはよう」
それだけ返す。
周りの空気と同じ温度で。
「おかえり」
軽く付け足す。
「ありがとうございます」
いつも通りの返事。
いつも通りの距離。
(……それだけ?)
それ以上は、何もない。
周りが普通に会話している。
笑っている。
(普通だな)
そう思う。
でも。
(なんでこんなに引っかかるんだろ)
午前中。
何度も視線が向く。
でも、目は合わない。
(前は、もっと来てたのに)
そんなことを考えている自分に気づく。
(……めんどくさいな)
小さく息を吐く。
昼休み。
声をかけることはなかった。
向こうも来ない。
(別に、いいけど)
よくないのは、わかっている。
午後。
仕事は進んでいる。
でも、頭に入ってこない。
(なんで普通にしてるの)
(何も言わないの)
(……なんで)
小さく苛立ちが溜まる。
夕方。
一区切りついて、席を立つ。
行き先は、なんとなく決まっていた。
屋上。
ドアを開ける。
少しだけ風が強い。
誰もいない。
はずだった。
「……吉岡さん」
振り返る。
悠太が立っていた。
「……何」
少しだけ、冷たくなる。
悠太は少しだけ困ったように笑う。
「なんか、来る気がして」
(なにそれ)
少しだけ、苛立つ。
「……戻ってきたんだ」
やっと出た言葉。
「はい。一旦区切りついたので」
あっさりした言い方。
(それだけ?)
「どれくらい行ってたの」
「一週間ちょっとです」
「……は?」
思っていたのと違う。
(短い)
(じゃあ、あの感じ何だったの)
一気に、何かが崩れる。
「……なんで言わないの」
低くなる声。
「言おうとは——」
「そういうのいいから」
遮る。
「なんで、いないの」
空気が止まる。
悠太が少しだけ目を見開く。
「普通にいなくなるし」
「何も言わないし」
言葉が止まらない。
「……こっちは、勝手に」
少し詰まる。
でも、止めない。
「……いなくなると思ってたのに」
静かに落ちる。
風の音だけが残る。
悠太は、ゆっくり息を吐く。
「……言おうとはしてました」
「でも吉岡さん、聞かないから」
少しだけ柔らかい声。
「……聞かなくても言うでしょ普通」
即答。
「そういうとこ、ずるいんだよ」
少しだけ震える。
沈黙。
距離が、少しだけ近い。
(もういいや)
一歩、詰める。
悠太が息を止める。
そのまま。
環が、キスする。
一瞬だけ。
すぐに離れる。
「……なにしてんの」
自分に言うみたいに。
悠太は少しだけ黙る。
それから、静かに言う。
「……俺、待ってましたよ」
環は目を逸らす。
(ほんと、ずるい)
小さく息を吐く。
「……じゃあ」
少しだけ言葉を選ぶ。
「ちゃんと来て」
「今度は、いなくならないで」
悠太は少しだけ笑って頷く。
「はい」
帰り道。
隣に人がいる。
それだけで、少し違う。
最初は思っていた。
来なくなったら、どうなるんだろうって。
でも。
(来なくなる前に)
(自分から行けばいいだけか)
そう思えた。




