◆ 第1話「掴めない人」
吉岡環は、よく「優しい人」と言われる。
「吉岡さんって、ほんと感じいいですよね」
後輩にそう言われて、環は軽く笑った。
「それ、褒めてる?」
「褒めてますよ。話しやすいし」
「そっか」
否定はしない。
誰かが困っていれば手を貸すし、頼まれごとも断らない。
でも、自分から踏み込むことはない。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
「吉岡さんって、あんまり怒らなそうですよね」
別の同僚が言う。
「怒るよ、普通に」
「想像つかないです」
環は少しだけ笑って、そのまま流した。
——見せてないだけ。
朝は決まった時間に起きる。
適当に整えて、家を出る。
通勤電車の中で、ぼんやり外を見るのが習慣だった。
スマホを見るわけでもなく、何かを考えるわけでもない。
(今日も普通だな)
それでいいと思っている。
会社に着くと、空気が少し変わる。
「おはようございます」
「おはよう」
軽く挨拶を交わして、自分の席に座る。
パソコンを立ち上げると、自然と仕事モードに切り替わる。
「吉岡さん、このデータ確認お願いしてもいいですか?」
「いいよ、送って」
無駄な会話はしない。
でも、話しかけられればちゃんと応じる。
その距離感が、ちょうどよかった。
昼休み。
「今日一緒に食べます?」
声をかけられて、少しだけ考える。
「今日はいいかな」
「了解です!」
軽く断っても、関係は崩れない。
それくらいの距離。
環は一人で外に出る。
特に行きつけでもない店に入って、
適当に注文して、静かに食べる。
誰かと一緒でもいいし、一人でもいい。
ただ、“選ばない”だけ。
恋愛も似たようなものだった。
「なんで別れたんですか?」
以前、聞かれたことがある。
「なんとなく」
「なんとなくって……」
困った顔をされたのを覚えている。
嫌いになったわけじゃない。
でも、近づきすぎると距離を取りたくなる。
「もうちょっと一緒にいたい」と言われると、
少しだけ息が詰まる。
でも、離れられると——
「……まあ、いっか」
そうやって終わらせてきた。
——面倒だな、と環は思う。
自分のことなのに、どこか他人事みたいに。
そんな日常に、少しだけ変化があったのは、
春の終わり頃だった。
「吉岡さん、今回のプロジェクト一緒になります」
上司に呼ばれて顔を上げる。
その隣に、一人の男が立っていた。
「朝比奈悠太です。よろしくお願いします」
少しだけ緊張している声。
でも、目はまっすぐだった。
「吉岡です。よろしく」
短く返す。
特に印象に残ることもない、はずだった。
作業を始めてすぐ、声をかけられる。
「吉岡さんって、普段どうやってデザイン考えてるんですか?」
少しだけ手を止める。
「そのときによるかな」
「直感派ですか?」
「どうだろ。あんまり考えてないかも」
いつも通り、適当に返す。
でも。
「それ、多分めっちゃ考えてる人の言い方ですよね」
思わず視線を上げる。
「そう?」
「はい。なんか、全部見えてるけど言わない感じする」
迷いがない言い方。
環は少しだけ間を置いてから言う。
「……よく言われる?」
「いや、初めてです。でもなんとなく」
(ああ、この人)
普通なら、ここで引く。
それ以上踏み込まない空気を察する。
でも悠太は違った。
「吉岡さんって、掴めないですよね」
その言葉に、環は一瞬だけ黙る。
「そう?」
「はい。でも、だからちょっと気になります」
まっすぐすぎる。
環は小さく笑った。
「気にしない方がいいよ」
軽く流す。
それで終わるはずのやり取り。
でも悠太は、少しも引かなかった。
「無理です、多分」
「なんで?」
「気になるんで」
シンプルすぎる理由。
環は、少しだけ視線を逸らす。
(どこまで来るんだろ)
観察しているつもりだった。
でも気づけば、
自分の方が見られている気がする。
そんな違和感を残したまま、
プロジェクトは始まった。




