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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第92話 規定の詠唱、届かず

 集団で行われるグランド・アリアの儀式詠唱が始まってから、すでに三十分が経過していた。


 王都の中央広場を満たす詠唱の声は、今も止まっていない。

 中央に並んだ魔術師や詠唱士たちが規定通りの節を重ね続けている。


 その声の質も量も、これまで学院の実技試験で見てきたどの詠唱とも比べものにならないほど高水準だった。マルクは中央の第一陣で、最初から休まず詠唱し続けている。彼の声は、今も正確で美しかった。


 だが、効果が出ていなかった。


 アルドは広場の東の端から、自身の魔力感知に神経を集中させた。

 これほどの詠唱が続いているにもかかわらず、周囲を取り巻く精霊たちの気配が薄く存在が感じられなかった。


 魔術詠唱の声が周囲を、広場を満たしている中でも、精霊たちの応答はほとんど届いていなかった。わずかな反応がある瞬間もある。だが、現在起きている天災の規模に対して、その応答は遠く及ばない数だった。


 王都の空に、重い雲が流れてきた。

 地平線の彼方で、何かが低く唸っている。

 儀式詠唱が始まる前よりも、大地の揺らぎが増している気がした。


 広場の緊張が、まもなく臨界に近づいていた。


     * * *


 マルクは、自分の声が届いていないことを、おそらく誰よりも早く悟っていた。


 規定の節を完璧に唱えたのだ。

 声の型を一切乱さなかった。学院で培ってきた技術を、全力で注ぎ込んだ。

 おそらく、今まで積み上げてきた自分の力を一番発揮できた瞬間だと思う。


 それでも、精霊が応えない。

 あの水路の場面と、同じだった。

 規定を守った自分の詠唱では、届かない場所がある。


 隣に立つ詠唱士が、低く呟いた。


「このまま続けるのか?」


 不安がにじみ出ていた。


「続ける」


 マルクは短く答えた。

 やめるという選択肢は、今の自分にはない。

 だが、胸の中に、もう一つの選択肢が静かに芽生えていた。


(任意節を、入れるか)


 これほどの舞台で。これほどの人数の前で。規定外の詠唱を試みることは、マルクにとって、これまで考えたこともない行為だった。だが、規定通りの声が届かないという事実は、もはや疑いようがない。


 ためらいがあった。技術への自信はある。

 だが、任意節を使ったとき、自分の詠唱に精霊が本当に応えてくれるかどうかは、まだ分からなかった。「何か、聞こえた気がする」という手応えを、練習場の風の中で感じてきた。


 今の規模の場で、それが確かに届くかどうか——。また、規定外の詠唱を、この公式の場で行うことへの葛藤もあった。


 自分が守ってきたものを、ここで崩すことへの。それが躊躇いになった。


 迷いを抱えたまま、マルクは詠唱を続けていた。


     * * *


 その頃、広場の東端で、ノエルはまだ動いていなかった。


 石畳の上に静かに立ち、両足の裏で大地を感じていた。

 予備配置の詠唱士たちが、周囲でそれぞれに詠唱を試みている。

 だがノエルだけは、まだ声を出していなかった。


「まだ始めないのですか?」


 隣の詠唱士が、少し焦ったように言った。


「もう少し、待ちます。もう少し……」


 ノエルは静かに答えた。

 周囲の詠唱士たちが、それぞれに詠唱を試みながら、ノエルの様子を横目で見ている。その視線を受け流しながら、ノエルはそれに構わず、タイミングを計っていた。


 アルドはその横に立ちながら、ノエルが何を待っているのかを理解していた。

 彼女は精霊の声を聞こうとしている。

 今この広場で、何が精霊たちを遠ざけているのか、何が届かないのか、それを把握してから言の葉を紡ぐ。焦ったところで、届かない詠唱を重ねても意味がない、ということを、ノエルは本能的に悟っていたのだ。


 大地が、微かに揺れた。


 ノエルが目を細めた。

 足裏に、何かが伝わってくる。遠い、深い場所から、かすかな声のようなものが届いている。アルド自身の魔力感知にも、それが伝わってきた——精霊の感情に似た、断片的な何か。恐れ。疲弊。「来ないで」ではなく、「どうしても動けない」という感じの、閉じ込められた感覚。


「……閉じ込められてるんですね」


 ノエルが、ぽつりと言った。


「精霊たちが、大地の揺れに、押し込められてる感じがします。声を出したくても、出せない状態……」


 詠唱が届かないのではない。

 精霊が動けない状態にあるのだ。

 規定の詠唱は、正常に動ける精霊に呼びかけるための形式だった。

 今の状態に対しては、まず精霊たちを解放することが、先に必要なのかもしれない。


 ノエルはゆっくりと目を開け、足元の石畳を見た。


「まず、話しかけてみます」


 それだけ言って、石畳に膝をついた。


     * * *


 その瞬間、広場の中央で、マルクが詠唱の節を変えた。


 規定の型から外れた、一節。

 これまでの練習場で、風に向かって呟いてきた言葉に近い、自分自身の言葉だった。


「風よ、聞こえるか……」


 声は大きくなかった。

 けれど、中央の喧騒の中で、それは確かに異質な音として広場に漂った。

 隣の詠唱士が驚いた目で彼を見た。

 

 規定外の発声を聞いて、文官の一人が動きかけた。


 その瞬間だった。風が一瞬揺れた。


 ほんのわずかな変化だった。

 大きな効果ではない。

 しかし、これまで三十分間、まったく変化のなかった広場の空気の中で、確かに何かが動いた瞬間だった。


 民衆の中の何人かが、空を見上げた。

 マルクの表情に、ひととき、驚きとも確信ともつかない変化が走る。


 それと同じタイミングで広場の東端では、ノエルが石畳に手を触れていた。


 アルドは自身の魔力感知を通じて、わずかに何かが変わり始めているのを感じ取った。まだ小さい。まだ遠い。


 けれども、マルクの「風よ、聞こえるか」という一言と、ノエルの膝をついた姿が、ほぼ同時に広場に変化を生んでいた。


 異なる二つの動きが、別々の場所から、同じ方向へ進もうと手を伸ばしていた。


     * * *


「規定の声は、正常な精霊に届く。

 だが、閉じ込められた精霊には、別の声が必要だった。

 それに気づていたのは、隅にいた一人だった」

―― アルド、中央広場東端の配置にて

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