第90話 果実の種、芽吹く
儀式詠唱の朝が来た。
王都の空は、まだ夜と朝のあいだの色をしていた。
仮設宿舎の廊下には、いつも以上に早く起きた魔術師/詠唱士たちが行き来している。
誰もが緊張を抱えながら、それぞれの準備を進めていた。
低い声で確認し合う者、黙って装備を整える者、窓から空を見上げる者——それぞれの方法で、今日という日を迎えようとしていた。
ノエルは、日の出よりも前に目が覚めた。
眠れなかったわけではない。ただ、自然に目が開いた。ここ数日の重い空気の中で、今朝の目覚めは、不思議なほど穏やかだった。着替えを終えてから、ふと、学院の中庭のことを思い出した。
脳裏に浮かんだのは、植木鉢だった。
* * *
出発前に、学院に寄ることにした。
王都までの道は、学院を通る方が近いことを、アルドが前日に確認していた。
荷物を持ったまま中庭に向かうと、ノエルは迷いなく、あの庭の隅へと足を向けた。
宿舎を出る前に「学院に寄りましょう」とノエルが言ったとき、アルドには理由がすぐに分かった。
あの植えた種のことを、ノエルも気にしていたのだ。
春の日に、二人で土に埋めた。夏のあいだも秋になっても、何も変わらなかった。「来年も一緒に見たいです、あの果樹園」という言葉を交わしたあの前夜も、まだ何も出ていなかった。
レイが「十日あれば、果実の種だって、もう少し育つかもしれない」と言ったのが、今から十日前だった。
植えた土の中から、小さな白い芽が、一本、出ていた。
ノエルは、そこにしゃがみ込んだ。しばらくの間、何も言わなかった。ただ、その小さな白い突起を、じっと見つめていた。
芽は細く、頼りなく、それでも確かにそこに立っていた。まだ葉も開いていない、ただの小さな白い突起に過ぎない。だが、それが在るということが、今朝のノエルには、何よりも大事なことのように思えた。
「芽が出ましたよ!」
ひと言、それだけ言った。
その声が、朝の空気に静かに溶けて消えていった。
そのひと言の中に、これまでの日々が全部詰まっているような気がした。
種を埋めた春の日。何も出ないまま過ごした夏。帰ってきたら見ようと約束した、あの前夜。そのすべてを経て、今朝、この細い白い芽がそこにあった。
アルドも隣にしゃがんだ。小さな芽を、ノエルと並んで見ていた。
レイが、その後ろにふわりと気配を立てた。
「芽が出たね」
レイの声は、いつも通り軽やかだった。
けれども、その軽やかさの奥に、これまでに感じたことのない種類の温もりがあった。
春にこの種を埋めたとき、レイはどこかで見ていたのだろうか。
「ちょうどいい日に出たんじゃないかな」
ノエルは芽をじっと見つめたまま、言った。
「儀式詠唱の日に、出てくれたんですね……」
それが偶然であるかどうかは、誰にも分からなかった。
だが、そういうことは、往々にして、偶然ではないとアルドは思っていた。
精霊たちが、世界の変化を人間よりずっと前から感じていたように、土の中の種も、何かを感じていたのかもしれない。
今日、グランド・アリアの儀式詠唱がある。
そして、ノエルが歌う。その気配を、土の下で感じ取って、こうして芽吹いたのだとしたら——アルドはそれを証明できないが、否定もできなかった。
ノエルはしばらく芽を見つめてから、そっと土の表面を指先で触れた。詠唱の型を取るわけでも、言葉をかけるわけでもなく、ただ触れた。
「待っててください。帰ってきたら、またお話ししに来ますね!」
その言葉に、アルドの胸がじんと痛くなった。
痛みというより、温かさが溢れてくるような感覚だった。
旅の間に、精霊に話しかけることを覚えた少女が、今、まだ芽も開いていない植木に向かって、「帰ってきたら」と言っている。
帰ってくる、という言葉。それを当然のこととして口にしている声の確かさ。王都の広場の隅に配置されても、世界規模の儀式に臨む前夜にも、この声の調子は変わらなかった。怖くても行く、と言っていた。
今日もそれと同じだ。
アルドは筆談ノートを開こうとして、止めた。何も書かないままでいた。
今この瞬間に言葉を加えると、何かが薄まる気がした。
「師匠、泣いてるんですか?」
ノエルが横を見て、静かに言った。
アルドは首を横に振った。泣いてはいない。
ただ、目が熱い。
「なんか、目がうるんでますよ」
アルドはまた首を横に振った。
ノエルは小さく笑い、芽の方に向き直った。
「私も、ちょっと、うるんでますけど」
そう言いながら、立ち上がった。
荷物を持ち直し、王都の方角を向く。
秋の空が、少しずつ明るさを取り戻してきていた。
広場で待つ詠唱士たちのことも、隅の配置のことも、今はどこかに消えていた。
この小さな芽の前では、そういうことが全部、少しだけ遠くなった。
「行きましょう」
ノエルは歩き出した。アルドも立ち上がり、その隣を歩いた。
レイの気配が、二人の後ろで静かに揺れている。
学院の門をくぐるとき、ノエルが一度だけ振り返った。
中庭の方を一瞥し、それから前を向いた。
その目には、心配な揺らぎではなく、覚悟の光があった。
植木鉢の小さな芽が、朝の光の中に残された。
一本だけ、真っすぐに、天を向いて立っていた。
今日、ここで何があろうとも、その芽は、昨日と変わらず、土の中に根を張り続けるだろう。約束は、帰ってきたときに果たせばいい。
それで十分だった。
* * *
「種が芽吹いた日に、儀式があった。偶然かもしれない。
でも、精霊たちは、偶然をあまり作らない」
―― アルド、学院中庭の朝に




