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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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ガール・シンギング・ガール

 今年の新宿にとって、いま降り始めた雪は初雪のはずだった。


 東南口の待ち合わせが、何人かの友人を伝ううちに東口になってしまった事を指摘された僕は、いつもより大きな音を立てて携帯電話を閉じた。寒さに耐え切れずマフラに顔を埋めながら、喧騒で溢れかえる甲州街道沿いの歩道に立ち尽くして薄曇の空を見上げた。そして、それに気付いた。

 僕の目の前を通り過ぎる人達は、地面を見て、携帯電話の画面を見て、友人の顔を見て、そして恋人の顔を慈しむ。見上げれば広がる空には、誰も視線を向けない。


 きっと僕はこの街で、降り出した雪に初めて気付いた人間に違いない。でも、それで何が変わるのだろうか。少なくとも僕自身は変わらないし、変わらない僕は目の前を通り過ぎる人たちの顔だって、一瞬の後には忘れてしまうのだから。

 排気ガスで汚れたガードレールに腰をかけると、僕は空を見上げたまま溜息をついた。


 吐く息は白く、幻にもならずに消えた。


 彼女は、東南口から東口へ向かう途中、階段を降りた場所にある広場でたった独り、歌っていた。

 細い道路とパチンコ店のネオンを背にして、彼女は独り、胸に手を当て、目を瞑りながらその小さな身体から懸命に言葉を紡いでいる。独り、楽器も無く、彼女の声はそのままで、その想いのままに街に響いていた。

 その場所はストリートミュージシャン達が演奏をする場所としては、当たり前すぎるほどに当たり前なので、普段であれば見慣れた光景の一つとして、僕もさして気には留めなかった筈だった

 その日、その時に限って、何が気になったかと言えば、それは誰も周囲に集まっていなかったからだ。それどころか誰も彼女を、彼女の歌声に振り返りもしない。まるで其処には誰も居ないかのように、彼女の目の前を、歌っている彼女の目と鼻の先を、何かに追われている通行人達が横切って去って行く。彼女は、自分の存在を心から叫んでいる様に見えるというのに、その存在は降り出した雪が路面に溶けるかのように、とても儚げであり、その歌に誰一人として応えていなかった。


 だから、僕は彼女が気になったのだ。


 僕は彼女から少し離れた場所にある、灰皿が備え付けられている木の下に佇み、煙草に火をつけた。友人達との待ち合わせまでは、まだ十分以上ある。それまで彼女の歌声を聞いていても良い。僕にとっては、そう思える価値の歌声に聞こえた。


 人込みで今にも見えなくなりそうな彼女を見つめながら。


 なぜ彼女は唄っているのだろうと、考えながら。


 誰も気付かない、どうしてだろう。


 誰も気に留めないのは、何のせいだろうか。


 それでも彼女は歌っているし、人々は去っていく。


 それでは、僕はいま何をしているのか。


 果たして、僕は皆に気付かれているのか。


 彼女は僕に、気付いているのだろうか。


 自らの歌声が聞かれずにいる事に、何を感じているのか。


 と、その時。彼女はそれまで世界を閉ざしていた瞼を開けると、肩にかかる栗色の髪を揺らしながら周囲を見回した。何かを探しているのだろうか。懸命に、歌いながら、自分に気付いている人を探す、歌いながら、歌いながら。彼女から若干離れた場所に居る僕には、人込みが邪魔をしているせいか彼女は気付かない。

 そんな彼女の目を見て思った。彼女は哀しんでる、自分の歌を聴いてもらえない事を嘆いている、と。しばらくすると彼女の悲しい瞳は、その色を湛えたまま再び世界を拒絶した。


 友人達との約束の時間は、二十分以上過ぎてしまっていた。でも、それでも伝えるべきだと思った、僕が聞いていたことを。彼女の歌を聴いていたことを。それで、あの瞳の寂しさが無くなるのならば、そうしなければいけないと思った。

 僕が歩き出そうとした、その時。


 彼女は、雪に霞みそうな白いコートを折り曲げて、


 しゃがみ込み、両腕に顔を埋める。


 僕の目の前には人の群れが溢れ出して、


 行く手を阻み、一時だけ僕の視界を奪う。


 雪は白い光の結晶として、


 その瞬間だけ僕の視界を奪うイルミネーションとなった。


 その一瞬で、彼女と歌声は其処から居なくなった。


 僕はしばらく、忽然と彼女が消えた場所に視線を固定したまま、其処に立ち尽くしていたらしい。

 友人達からの催促するメールには無視を決め込んだ。ふと、居なくなってしまった彼女は、きっと寂しいままだったのだろうか。僕が声をかけられるならば、もっと早くそうするべきではなかっただろうか。

「あなた、もしかして妹が見えていた」

 その声に振り返ると、見知らぬ女性が僕に声をかけていた。問いかけの意味とそれに対する返答を、時計の針が六分の一程度移動する間考えてから、僕は答えた。

「……彼女、貴女の妹さん、ですか」

「そうです。真紀、妹です。わたしの」

 僕は、いきなり声をかけられた事に対する不信感よりも、この大勢いる人込みの中で何故、僕にだけ声をかけたのか、その意図を図りかねていた。

 僕はついさっきまで歌声を奏でていた彼女の姉と名乗る女性に顔だけでなく身体を向けて、問いかけるべき質問を考えていた。

「あなた以外には、真紀は見えていなかったはず、だわ」

 しかし、僕の問いかけより早く、その女性は言葉を続ける。僕以外に、この場で真紀が見えていなかった。何故。

「でも、人が沢山いますよ、この場所には。僕意外に誰も見ていない、気付いていないというのは、信じられない」

 正直な感想。しかし、正直であるがゆえに当初に僕が感じた感覚とは違う。感覚ではなく論理的な帰結。

「あなただけが、真紀を見ていました。歌が聞こえたのかな」

 彼女は、雪で濡れ始めた前髪を横に流す。

「聞こえました、独りで唄っていましたね」

「そう……、真紀も喜んでくれたかしら……。あの子ね、人に歌を聴いてもらうのが好きだったの。不器用だから、歌でしか気持ちが伝えられなかったの」

 そう答えた彼女は、顔をあげて空を見上げる。

「歌手になるんだ、って言ってた」

 雪は未だやまない。

「いろんな人、大勢に人に、歌でわたしの気持ちを伝えたい、って言ってたの」

 肩にかかる程度の、そしてすぐに溶けて消えてしまう雪であっても、それでも、その白さを感じることが出来て、その白さを何かに例える事が出来るのは人間だけだろう。


「真紀はね、一週間前、あの場所で死んだの」


「死んだ」

 勿論、信じられる訳が無い。真紀はあの場所で歌っていたではないか。僕はこの眼で見ていた、この耳で聞いていた。そして、その瞳は寂しかった。

「そうよ、死んだと言うよりも、殺されてしまったと言ったほうが、良いかしら」

「……でも僕は見ていました、確かに」

 僕の抗弁は受け入れられない。

 彼女は真紀が歌っていた場所に視線を移す。

「何が、いけなかったのかしら。ううん、きっと何も悪いことは無かった。ただ、浮浪者の機嫌が悪かったから? たまたまナイフを持っていたから? その日に偶然、真紀が歌っていたから?」

 彼女の言葉は止まらない、それは僕に向けられたものではなく、空に向かって、其処に居る誰かに向かって。

「判らない、わたしには判らない、判らない、判らない……」


 判らないを繰り返す、そんな日常に現れる非日常を、僕らは見過ごしている。人間が生きていく中で、自分のテリトリに今まで無かった異物が入り込む感覚。外聞していたものが、現実になる瞬間。それは何時か訪れるし、意地の悪いことに足音を忍ばせてやって来る。


「ちょっと待って。じゃあ、さっき迄あそこで唄っていた彼女は……」

 僕は、真紀が歌っていた、歌っていた筈の場所を指差した。彼女は僕が指差した場所へ、雪が目の前を落ちていく間だけ目を向けると僕を眺めるかの様に、振り向いた。その口元は微笑んでいたけれど、瞳からは想いが溶けて流れはじめていた。

「自分の気持ちを受け止めてくれる人がいる、それは嬉しい事よね。でも、自分が居なくなってからも、それでも、真紀にとって幸せな事なのかしら」


 結局、彼女とはそれ以上話をしなかった。彼女は半ば自問である問いを僕に投げかけた後、背を向けて人込みの中へ消えていった。その肩と髪と、彼女の心は、降り続く雪で濡れていた。

 彼女は、これからもこの場所で妹を想い、見守り続けるのだろうか。僕にその答えを出す権利なんて、あるわけ無かった。


 僕は、友人達が待ち受けているであろう飲食店へ向かう。いま僕が見たこと、話したことは彼らに伝えるつもりは無い。

 気持ちを言葉にして話したところで、友人達には単なる怪談として受け取られてしまうだろうから。

 それよりも、きっと思い上がりだろうと思うけれど、その時の僕は、人の想いを大切なものして感じていたかったから。

 たとえその想いが、今この街に振り続けている雪のような、そんな想いであったとしても。

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