恋愛バトン
八月の太陽は、沈みかけている今のこの時間も暑さが和らぐことはなかった。新宿の街が電飾で灯りはじめ、太陽の明かりと電飾が混ざり合って霞んでいるように、敦子には見えてしまう。
汗ばんだ襟元をハンカチで拭いながら、敦子は映画館の横にある入り口から地下の喫茶店に入った。先客がいるのですが、と敦子は店員に断り、予約をしていた店内奥の座席へ向かう。そこには都心にはそぐわない紺色の和服を着た男性が坐っていた。
「お待たせ致しました、奇譚新報社の新井場敦子と申します」
遅れてしまい申し訳ございません、と敦子は謝罪と挨拶を兼ねてお辞儀をする。しかし既に坐っている男は、ああ、であるとか、ううん、といった珍妙なうなり声を上げたまま、敦子と視線を合わせようとせずテーブルの上の珈琲とケーキを凝視したままでなのである。
これは拙いことになったか、人身事故で電車が遅れたとはいえ初対面で行う仕事の席に遅れてしまったのは、当の敦子である。この仕事、相手の機嫌を損ねてしまっては何も始まらない。さあ、どうしたものか、と敦子が思案にくれていると男は、
――駄目だ、分かりませんね、どうしても理解できない。とテーブルに視線を固定したまま呟いた。
「ここのアイス珈琲は一杯九百円――する」
「……はい、それは、少し高いかもしれませんね」
「でもケーキと一緒に頼むと合計で千円になってしまうんだよね――」
敦子は横目でテーブルの上に置かれたままのメニュー表を見る。確かにその値段設定で書かれていた。この店自体は有名なので敦子も何度か訪れたことがある。
「でもセットで頼まれたのですよね」
「いや、セットで頼んではケーキが百円の値打ちしかないことに、なってしまうじゃないか」
「そうなるでしょうか」
「僕は商品に対してそんな失礼なことは出来ないと云って、別々に頼みました」
そう云うと、男ははじめて敦子に視線を向けた。分かったような、分からないような理屈である。敦子は、これは大変な変人を相手に初めての仕事をしなければいけないのかもしれないと気持ちを入れ替え、名詞を取り出し男へ差し出した。
「宜しくお願い致します、山郷――先生」
「先生」と呼んでみたものの、敦子には彼が作家なのか何の仕事をしているのかすら全く分かっていないし、今まで聞いたことも無い。出掛けに、編集長へ今から会う山郷という男は何者なのかを聞いてみると「なあに、先生さ、先生先生大先生様だ」と汗の滲む顔を扇子で扇ぎながら答えたので、そう呼んでみたまでのことである。
敦子は席について山郷先生と同じものを、セットで頼んだ。
「七月から新しく弊社で創刊した、レヲナルドという月刊の文芸雑誌がございます」敦子は鞄から先月創刊したばかりの雑誌をテーブルの上に取り出して、山郷先生の方へ寄せる。「その紙面で、著名人の方へ恋愛についてインタビューした内容を掲載しております」
「そのようだね。それで僕があなたのインタビューをうける、と」
「はい、九月に発売する分のものを。そのようにお願いを事前にさせて頂きました」
「聞いています」山郷先生はストローに口をつけながら続けた。「聞いたのは、貴女からじゃないけどね」
それは、そうだろう。実際、敦子でさえ聞いたのは一昨日の話なのである。創刊号とその次の第二号までインタビューの記事を担当していた同僚が、急病になり入院してしまったのだ。そこで、四月に入社したばかりで現在のところ受け持ちの仕事が少ない敦子にこの仕事が回ってきた、というめぐり合わせであった。入社してから初めて任された大きな仕事に、敦子はこれからのステップアップを目論んで熱意を抱いていた。そして、それなりに緊張もしていたのである。
「レコーダで録音をさせて頂いても宜しいでしょうか」
山郷先生が大仰な様子で頷くのを敦子は確認して、ボイスレコーダのスイッチを入れた。――では早速、と敦子は切り出す。
「最初の質問ですが……」
Q.初恋はいつでしたか?男?女?
「先生の、初恋というのは、おいつ頃のことだったのでしょうか」
敦子は山郷の方を見なら、ボールペンでノートに筆記できる姿勢をとりながら聞いた。
「初恋、ですか、いつでしょうね。どういうものが初恋なのか、僕には今ひとつ良く分からない」
「そうですね、例えば単に好きであるとかではなくて、恋愛として意識し始めた時期と仮定してみて下さい」
敦子が云うと、「仮定ね」と山郷先生は興味深げに敦子を見つめた。
「うん、そう考えると小学校の三年の時だったかもしれない。多分、そうなんだろうね」
「お相手はどのような?」
「ジュンというのが名前に付いていた気がする。名前よりも、庭で孔雀を飼っていた驚きのほうが記憶に残ってしまうんだね、人間と言うのは不思議な生き物だと思うよ、実にね」
敦子はノートに孔雀と書こうとして、漢字が分からないことに気付き「くじゃく」と平仮名で書いた。このメモだけ見れば、一体何の話をしていたのだろうと他人は思うだろう。
「念のために、男ではないよ。ああ、思い出した、ジュンコという名前だ」
Q.今までつきあった人数を教えてください。
「煙草を吸っても構わないかな」
先ほどから、山郷先生が右手を煙草の上で玩ばせていたに敦子は気付いていた。
「ええ、本当のところ、煙草の煙はあまり好きではないですけど」
「嫌いなものを我慢するのも勉強だと思いなさい」
――何が勉強なものか、と敦子は心のなかで毒づいた。そこは我関せずで、山郷先生は気持ちよさげに上を向いて煙を吐き出している。
「えっと、今までに付き合った人数だったね」
「はい、公表するのが無難な範囲で結構ですが」
「〇人だね」と上を向いたまま、山郷先生は嘯く。「そもそも、付き合うというのは何を持って定義するのだろうか?」
「定義、ですか」敦子は眉をしかめる。
「そう、一緒に何処かへ出かける回数が多いことなのか、肉体関係をもってからなのか、付き合うと宣言してからなのか。非常に境界条件が曖昧です」「と云いますか、一般的なところで」
「一般論では個人的な見解はだせないね、因って不定。つまり今まで付き合った人数は〇人」
――はぐらかされた。
Q.今好きな人はいますか?(いる人は)好きなところは?
「ところで先生、いまお好きな人というのは、いらっしゃいますか?」
「君だ」
「ところで先生、いまお好きな人というのは、いらっしゃいますか?」
「…………」
どうやら、いないらしい。
敦子は予め用意しておいたノートのチェック部分に、大きく×印を付けてページを捲った。
Q.好きな人とデートで行きたい場所はどこですか?
「そもそも、デートとデートで行きたい場所というのは本質として相容れないものだね」
「そうでしょうか?」
敦子は今までの経験を思い浮かべたが、どう思案しようても山郷先生には同意しかねた。どうやら、この変人は恋愛というのもについて独自の意見を持ちすぎているのではないだろうか、と敦子は考えつつある。
「例えば、好きな人と二人で行きたい場所、というのはあるんじゃないでしょうか。遊園地ですとか、そうですねえ……、海辺の公園とか。ありきたりですけど」
山郷先生は灰皿に煙草を押し付けると、空いた指先で一度だけ軽くテーブルを叩いた。煙草六本目。こうなったらこの席で何本吸うのか数えてやろうと、敦子は密かに決意していたのである。
「その行きたい場所というのに矛盾がある。二人でなければ体験出来ないものというものは、この世の中には無い。二人になりたければ、どこでもなれば良いし、なにか目的がある場所なら一人で行ったほうが効率が良い」
「体験と云うか、気持ちの共有とお考えになられては如何でしょうか」
「それは幻想です、もう一度よく考えてみなさい」
「はい、はい」
どうも先ほどから失礼な口調になりつつあるのを、自覚している敦子であった。何を云おう、この山郷先生先生大先生様からは威厳も何も感じられないのである。仕事としては不謹慎の謗りは免れないだろうが、まあ山郷先生も口調に拘っていない様子だし、大体彼の口調自体、色々変わって何だか変だ。それに、砕けた口調というものがインタビューを円滑にするならば良いではないか、と敦子は開き直っていた。
Q.こんな人は絶対無理!っていうのありますか?
「そうだね、例えば禁煙主義者とは無理かもしれないね」
「同感です、まったく逆の意味ですけど」
敦子は片手で鼻と口を押さえながら云った。ちなみに今吸っているのは八本目である。
「気が合うね」
Q.恋愛対象年齢は何歳~何歳ですか?
「先生は、恋愛の対象になる人って、どのくらいの範囲の年齢なんでしょうか」
時間も経ってきたので、敦子は珈琲の二杯目を頼んだ。二杯目は半額になっているらしい。山郷先生といえば、まだ一杯目の珈琲すら飲んでいないが、水のお替りは二、三回している。水が好きなのだろう、と敦子は無理やりに解釈した。
「君ね、その質問は非常に失礼だと僕は思うね」
「そうでしょうか」
「そうさ、人を年齢で括ってそれ以外は駄目だなんて、人に対する侮辱だ。僕は恋愛の対象になるなら、どんなに高齢な人でも愛するかもしれない。逆に、どんなに年齢が低くたって、愛するかもしれない」
「先生、それ犯罪ですから」
Q.浮気は許せますか?許せる人は、どこまで?
「例えば、例えばなんですけど、先生の恋人が浮気をしたとしますよね。浮気の定義は、っていうのは抜きの話で。そうなった場合、先生はその女性を許せますか?」
定義ということを予め封じてしまえば良いのだ、敦子と考えた。
店に入ってから既に一時間以上経過している、珍妙な和服姿の男性と、一応は仕事中らしい格好をしている女性。周囲からはどのように見えているのであろうか。
「そもそも、許す、許さないという二つの選択肢に絞る意味が無い。すこし許して許さない、許さないけれど一部分は許すこともあるだろう。人間の心理を二極化するのは如何なものかと思うよ」
――そうきたか。
敦子は山郷先生に冷ややかな視線を向けた。「次の質問ですが」
Q.同棲ってしてみたいですか?
「同棲は如何ですか? 実際にしたことはありますでしょうか」
「あるよ」
山郷先生の珍しくストレートな意見に、敦子は驚きを隠せなかった。
「ど、どなたとでしょうか」
「あれ、君は両親とか、兄弟とかいないの? まあ、何かの都合で一緒に住んでいない経験があるなら別だけど、普通は子供の頃は親と住むのじゃないかな」
「先生」
「なんだろう」
この、人を食ったような態度はどうにかならないものか。敦子はこの仕事を最後までやり通す自身が徐々に崩れていく気がしていた。「もう少し、真面目に、答えて頂けませんか?」
Q.あなたが愛情を感じた行動は?
「真面目にと云ってもね、素直に答えているつもりなのだけど」
「……では、真面目にお願いしますね。先生が愛情を感じられた行動というのは、どのようなものがありますでしょうか」
ここで山郷先生は暫く首を捻って考え込んでいた。敦子がレコーダを見て、正常に動作していることを確認すると、山郷先生の首は再び正面を向いていた。
「それは、ある」
「どういったときに、そんな行動があったのでしょうか」
「ムツゴロウさん」
「はい?」
何か、思いがけない、予想が出来なかった言葉を聴いたときの人間の反応というのは面白いほど画一化されてしまうものである。
「彼は凄い、僕はテレビから愛情を感じたね」
「……わたしの質問の方法が間違ってるのかしら」
山郷先生は口を少し動かして、冷笑を浮かべていた。
「うん、そう思うね」
Q.愛と恋の違いは何だと思いますか?
「辞書を調べなさい」
「ですよね」
Q.一番長く続いた恋愛は?
「恋愛の続いた期間は……、って付き合った人数自体が不定ですから、〇ですよね」
「その通り」
敦子はため息をつく。こんなインタビューが記事になるのだろうか、甚だ不安になる気持ちを抑えきれないのであった。
「先生、もう飽きてきたんでしょう」
「そんなことは無い、実に興味深いよ。それに次が最後の質問だろう?」
Q.究極の選択です 。
一生、人を愛することしかできなくなるのと、
人から愛されることしかできなくなるのと、
どちらかを選ばなければならないとしたら、どちらを選びますか?
「そう、これで最後の質問です。無条件の二者択一で、先生は、人を愛することしかできなくなるのと、人から愛されることしか出来なくなること。どちらを選ばれますか」
そうだ、これが最後の質問で、これさえ終わればこの変人とももう会うこともないだろう。もっとも、会社に帰ってから録音した内容をもう一度聞かなければならないかと思うと、敦子は憂鬱極まりないのであるが。
「それは、困るね、死んでしまうじゃないか。人を愛することしかできなくなったら、呼吸が出来ない、食べれない、寝れない。人から愛されることしか、というのも一緒だね」
「――先生、分かりました、ええ、分かりましたとも」敦子は頭を垂れて、前髪の隙間から山郷先生を睨み付ける。さすがの山郷先生も「何が?」と答えた声は多少震えていた。実に恐ろしきは女性の怨念である、山郷先生はそう考えているに違いないと敦子は思った、いい気味である。
敦子は椅子から腰を上げてノートをテーブルに叩き付けると、乾いた紙が堅いものを叩く音が店内に響いた。
「次からは質問の内容を詰めてから、インタビューしたいと思いますっ」
「それが、良いね」
「こんな回答考えるの、山郷先生だけだと思いますけどねっ」
結局、山郷先生は、敦子の数え方が間違っていなければ、十三本の煙草を吸っていた。
山郷先生は、敦子よりも店を先に出てしまった。帰り際にレシートを持っていってしまい、敦子が経費で落としますからと云ったのだが、山郷先生はレシートを右手に持って宙で揺らしながら「猿芝居を見てもらった御礼に、これくらいは払うよ」と云いそのまま帰ってしまったのだ。
敦子は初仕事と山郷先生に振り回された疲労で暫く動けなかった。
――まったく、なんて非常識な人だったのかしら
ただ、仕事である以上、今の会話内容を記事に仕上げなくてはならない。自分にそんな事が出来るのだろうか。出来たとして、それが読者に受け入れられるのであろうか。
「ただいま終わりました、編集長……」
店を出て地上へ上がると、敦子は携帯電話で社内にいる編集長へ完了報告の電話をかけた。
「お疲れ様、でどうだった? まあ、宿題は二、三日中に提出するように」
「宿題?」
なんだか、今年の四月に学生生活を終えて以来、久しく聞いたことの無い言葉だ。敦子はなにか、心の中で胸騒ぎが起こり始めるのを感じた。
「あれ、奴は何も云わなかった? 困った奴だなあ」
――猿芝居を見てもらった御礼に、これくらいは払うよ
「奴って、山郷先生のことですか?」
「ああ、違う違う、奴は社内の人間。俺と同期でさ、法務部にいるよ、無理云って頼んだわけだ、これが」
敦子はもう少しで携帯電話を落としそうになってしまった。それに、何か地面が揺れている気がする、目眩、いや、それとは違うものだろう。
「実はさ、九月発行の第三号の記事、とっくにあがっててさ。君に書いてもらうのは十月発行の第四号からなの。いきなり書かせるのも可哀相かなあなんて思ってさ、で、まあ、リハーサルも兼ねて、OJTってやつ? やってみたわけだ」
「――編集長」
「お、どうした、勉強になったか」
「わたしが、そちらへ、戻るまでに、覚悟を、決めておいて、くださいね」
何か云い掛けている編集長の口をふさぐように通話を切ると「馬鹿にしてるわ」と敦子は呟いた。そういえば、九月発行のは第三号、だから山郷先生だったわけだ。なぜ気付かなかったのだろうか。自分の馬鹿さ加減を敦子は呪いたくなった。
しかし、編集長の頓珍漢な仏心は、それはそれとして、まあ方法がどうあれ、とても認めたくはないけれど、敦子にとって決して厭なものでは無かった。「馬鹿にしてるわ」と今度は少し微笑みながら、敦子は先ほどより大きな声で云ってみた。
既に日は落ちて、あたりは暗かった。そして、いま駅まで歩いている敦子の目に映る新宿の明かりは、霞んで見えることはなかった。




