第7話:辛いと云うこと
綺麗と呟いた声が聞こえて、隣を歩いていたはずの小さいのが居なくなっていることに気付く。声のしたほうを見れば、伝統工芸のような硝子細工が少なく並んでいた。
「硝子が久しぶりに入りましてね、少しずつやり始めたんですよ」
店主らしい男が目を輝かせるネイシャに説明すれば、彼女は増々惹かれたらしく、じっと商品を眺める。確かにどれも綺麗だ。俺の国で見るようなごてごてした装飾が入っておらず、ただ単純に硝子を溶かし、シンプルな模様で縁取り終わらせている。物がないというのも原因かもしれないが、これはこれでもともと西大陸の様式なのかもしれない。
「ほら、この小瓶など、自信作でしてね」
そう云って差し出したのは、薬だけしか入らなさそうな、用途に悩むような小瓶だった。しかし綺麗に透かされた硝子の紅は美しく、この辺りでは見られない植物の蔦を連想したのか、小さいのに細かい細工が施されている。この辺りに植物が戻って来るようにとの願いでも込められているのだろうか。たぶん硝子も少量しか入って来なかったからの作だろう。おふくろが彫刻師だからか、こういう細工は子どもの頃から嫌でも目に入って来たが、これはこれで確かに綺麗だった。
「わぁ、綺麗……!」
ネイシャはよっぽど気に入ったのか、小瓶を受け取ってくるくる回しながら太陽に透かす。だがそこで店主の笑顔が目に入ったのか、バツが悪そうに小瓶を返す。
「あ……、ごめんなさい、私……」
お金がないと正直にぼそぼそ云うネイシャだが、目は小瓶から離れていない。俺は一歩後ろから眺め、小さく溜め息を吐く。ネイシャもあちこちで働いているから、金がないわけではない。ただ俺に悪いからと自分で使う金を最低限に抑えている。俺ができることなんて金の免除ぐらいだから俺に任せておけば良いものを、こいつは変なところで気を遣って俺を困らせる。何を云っても無駄だとわかっているので放ってはいるものの、気が引けているのは事実だ。金銭面の援助、それがどんなに下らないことか、一緒に居るとよくわかって来た。北大陸へ行ったとき、アリカラーナの金がそう簡単に換金できるものではないと知らず、金がなくて困窮したことがある。金の大事さはこれでもわかっているつもりだ。でもいくら金があっても、できないことのほうが多いのだと、気付かされたのも北大陸だ。
どうにかしてあげたいのか、困り顔の店主とネイシャに、俺はもう一度小さく溜め息を吐いてようやく近付く。
「──幾らだ?」
「あ、あの、50ルクスですが……」
「悪い、これしかない」
「す、すみません、これだけのおつりが……」
銀貨を渡すと、店主の困り顔がさらに深くなる。まだ出回ったばかりの貨幣は一応西大陸に行き届いている。だがそれも最近まで戦地だったここまで金が行き届くには随分時間がかかる。そういうのは流石に半年ほどこの町に居て理解していたことだった。カーヴレイクでもよくあることだが、こればかりは俺もすぐにどうこうできない。
「じゃあ、こっちもくれ。それでちょうどだろう」
云ってもう一つ、紫の小瓶を手に取る。たまたま目に入ったのだが対になっているのか、こちらの装飾は逆に彫られている。値段は同じだから、二つ買えばちょうどのはずだ。
「あ、ありがとうございます!」
「リュース」
「帰るぞ」
「う、うん」
ありがとうございましたと頭を下げる店主に軽く頭を下げて、ネイシャは慌てて付いて来る。
家に帰るとネイシャはひたすら小瓶を眺めていた。確かに綺麗は綺麗だが、そんなに眺め続けていられるものだろうか。
「だって、リュースとおそろい」
「……はぁ」
思わず溜め息を吐いてしまう。そんなことで喜ばれても困るんだが。
おそろいにするために買ったわけではなく不可抗力だ。包んでくれた袋ごとネイシャに渡せば、私は一つで充分だからリュースが使ってとひとつ返された。自然と紫の小瓶は俺が持ち、紅の小瓶はネイシャが持つことになっていた。
「ありがとう、リュース」
「はいはい、もうわかったから」
俺ができるのはそれぐらいだ。やろうと思えばやれるとは思うものの、俺に一番ないのはそのやる気というもので、 今までの人生でやったことのない料理についてはさっぱり手を出していない。洗濯や掃除ぐらいなら、うちの侍従ハヴァーズが酷く役に立たない時が多いため、必要に迫られてやることはあった。まぁやっている途中で「何してるんですかー、ビル様!」 とか云って取り上げられることが多かったものの、着る服がなければ洗うしかない。
だが自分のために料理をするというのは、必要に迫られないからやることがない。腹が減った時は何所かで食べれば良かったし、残念なことに薬を飲まないといけない俺は、食事をさぼることがあまり許されず、本邸から呼び出しを喰らうことが多かった。だから家事面では、ほとんどネイシャががんばっている。
もちろん今まで祠に引きこもっていた所為で、生活能力はほとんどゼロだった。それでもネイシャは「普通」に暮らすため、ルリエールたちに教わって基本的な生活ができるようになっていた。俺は金を出す、ネイシャは家事をする。自然そういう分担になってしまった。ネイシャはあちこち顔を出して働きもするから、俺もそれなりに手伝うことは手伝うものの、力にはなっていない。
ネイシャのちまちまとした働きでもらう給料なんて、まだ貧しいこの国では物価も高く、自分が欲しいものを買うのもいっぱいいっぱいだ。ネイシャの給料からすれば当たり前かもしれないが、この小瓶一つですら随分な贅沢なのだろう。金の件では変に遠慮などすることないのに、律儀にネイシャは申し訳なさそうにする。必要なものぐらい欲しいと云えば買ってやる。俺にはそれぐらいしかしてやれることがない。
「リュースはお薬を入れたら良いかもしれないね、すぐ倒れちゃうから」
「おまえね……」
「私は何を入れようかなー」
あまりにも簡単にぶっ倒れすぎると最近自分でも気にしていたのだが、ネイシャにまで云われたら終わりだ。文句の一つも云いたくなって振り返ってれば、なんともまぁ満足そうな顔をしているので自然と口が閉じる。
なんでそんなことで、嬉しそうな顔をできるんだろうか。
俺はなんとなく、自分の足元に目が行く。レーイが作ってくれたアンクレット。俺はもらってすぐ、レーイにもアンクレットを作った。この細工に比べたら、子どもの遊びみたいなものだが、それでも俺にとって唯一大切なもの。同じようなものなのだろうか。
足元のアンクレットから、あの時のネイシャと同じように、つい小瓶を眺めてしまう。レイヴンによって本当にピルケースにされてしまったそれには、いざと云う時の錠剤が入っている。俺が普段飲まなければならない薬はこんな小さな瓶に入るほど少なくないため、発作用にとレイヴンが入れた。からんからんとなる小瓶の薬は、喜ぶべきかまだ使われていない。
「莫迦じゃねぇの……」
ネイシャに買った小瓶も、ここには残っていなかった。持って行ったのだということは想像できる。嫌われてはいない、むしろ依存に近い形で一緒に居た。それは良くないことだとは思ったものの、こんな別れを望んでいたわけではない。
寝起きの頭で隣室に行くと、そこにやはりネイシャの姿はない。いつもならば既にばたばたと動き回っていて、というか走り回る音で目が覚めるのだが、今日はやけに朝から静かで、やっぱり大人しく宿に居れば良かったのかもしれないとさえ思う。
──おはよう、リュース!
そう云って俺を見る姿はなく、がらんとした部屋に生活感もなくなっている。初めて来た時と同じ、がらんとした何もない部屋だ。
ここに居ようかと思ったものの、なんとなく感傷に浸っている自分が莫迦らしくなって、俺は外に出る。ここからカーヴレイクまでちょっとした距離があるから、適当に距離を測りながら町に向かうのが習慣だった。
時刻は9歴過ぎ。あれ、なんだっけ。……9時か。どうも時刻やら距離やらは母国単位だから、いまいち慣れない。ついでに日照時間が短い西大陸は、日が昇ってからまだ1歴ほどしか経っていない。たいてい寝坊ばかりしている俺だが、今日は随分早いほうだ。流石に疲れきっていたらしく、帰ってからそのままぶっ倒れるように眠ってしまった。おかげでゆっくり休めたし、堅苦しい服ともさよならできたおかげか、体調は悪くない。
後ろからごろごろっと音がして、
「お、ビル! 早いじゃねぇか」
外に出た俺に声をかけて来たのは、ここから俺の歩幅で2000歩ほど北にある農家の親爺だ。相変わらず名前は覚えていない。
「ああ、はよ」
「カーヴレイクに行くなら乗せてやろうか、これから納品に行くんだよ」
「あー、助かるかも。良いのか」
農具や野菜が積んであっても人が乗れる程度の場所があれば、それは立派な足である。ここ数年でダルシーの後部は人員用になったようだ。ちょっと待ってろと快活に、俺が乗るスペースを空けてくれる。農家用だからなのか、ルリエールがたまに使うダルシーよりも大きめである。
珍しく良い天気ではあるが、この国の冬は異様に寒い。もっと西に行ったらこの時期は半端ないそうで、寒さにも暑さにも弱い俺としては、まだここらの気温で助かっている。と云っても、港に近寄れば近寄るほど寒いから大して変わらないのかもしれないが、困るほどのものではない。
「ありがと」
「気にすんなって、ついでだついで」
そう云って大笑する親爺に甘えて、俺はひとまずカーヴレイクに向かう。
昨日ルカに見せてもらった資料は、それなりに役に立つ。あいつらがだいたい何所に居るのか、後は俺の読み次第で地図を製作するしかない。ひとまずあいつの意思を確認するため、俺は俺にできることをしなければならないのだから。
・・・・・
リヴァーシン神国は大陸の一部であり、土着の神が居るとされているため、今まで誰もその神の怒りを買うことをしないように生きて来た。信仰しているわけでない国でも、とにかく女神とやらに深入りしないよう付き合って来た。だから内部の情報はごく限られており、侵入するのもなかなか難しかったらしい。
一番居る可能性が高いのはもちろん例の教会だが、あれだけの襲撃をしただけに天帝の部下が既に治安を任されており、そこにリヴァーシン残党たまに出て来るものの、ヤオン=ヤードまで過激な者はもうほとんど居ないそうだ。
将軍の部下がまだ捜してくれているらしいが、未だネイシャ発見の連絡はなく、期待は薄い。
そこでルカが貸してくれた本から神官が居そうな場所を捜すため、俺は珍しく真面目に調べものをしている。あれだけ「女神」に執着していたのだから、きっと関係のある場所に居るとは思う。だから正確にリヴァーシン神国というものを地図に起こして、本と照らし合わせる作業が続いた。これだけ真面目に勉強みたいなことをしたの、随分と久しぶりのような気がする。
ネイシャは女神女神と呼ばれてはいるものの、あくまでネイシャは女神ではない。女神の声を聞き民に届けるという特別な耳を持った、正確に云うならば女神の使者だ。土着の神というのが実際の女神なのだろう。居るか居ないかは問題ではない、その女神が居るとされている場所とか、ひとまずその女神関連の場所に居ることは間違いない。
自然ルカの家に入り浸るものの、当の本人は仕事でだいたい昼間は居ないから好き勝手させてもらっている。敢えてルカの居ないときに長居させてもらうのは決めたわけではないものの、自然とそういうのが暗黙の了解になったため、俺もできる範囲のできる時間で調べものをする。一番は本が持ち出せれば良かったのだが、多過ぎて諦めた。戦禍でだいたいなくなってしまって、これだけの本があるところはルカの家しかない。しかも情報が割と閉ざされているリヴァーシンの本を持っているのは、とても珍しい。……あいつ本当に何者なんだろう。やっぱあんまり深入りしないほうが良さそうだ。
俺がルカの家に居るのも、みんな周知の事実となっていた時、近所の文具屋セオドアが訪ねて来た。
「ビル、ちょっと手伝えよ」
ものすごく集中していたのか、気が付けばもう13時だ。日が短い分明るいうちに済ませて起きたいのだが、あと2時間ぐらいで暮れてしまうから、もう今日は終わりにしても良いか。
「なんかあった?」
「良いから来いって」
俺がここに居る間、文具屋に行く機会は非常に多くい。いろいろと注文をつけているうちにセオドアも遠慮をしなくなったのか、俺への扱いが商店並みに気易くなっていた。気付けば顔馴染みだから遠慮もない。たぶん年上なんだけど。
セオドアに引っぱり出された先には、ルリエールと一緒にベンが居た。ベンは八百屋で、俺の近所の親爺が毎朝野菜を届けている店の若主人だ。そう、初めて俺がネイシャに会った時、大陸に着いてすぐ巻き込まれた初めての戦争の時、リヴァーシン側の自治組織の代表をしていたやつだ。八百屋だと聞いた時は割と驚いた。八百屋が反旗を翻して立ち上がるほど、リヴァーシンは窮状に陥っていたのだ。今はカーヴレイクに店を構えているが、いつしか家族みんなでリヴァーシンに帰るのが目標らしい。
「おお、ビルまで来てくれたのか!」
いつも暑苦しいというか、男らしいというか、底抜けに明るい男だが、今日はいつも以上にテンションが高い。
「何、どしたの」
「それがな、生まれたんだ!」
「……それはおめでとう」
「ああありがとう、今みんなに知らせているところだ」
ベンはじゃあなと走り去って行く。また誰かに知らせに行ったのか、それとも妻のもとへ戻ったのか。ちょうど俺が初めてこの町に来た頃に妊娠したらしいベンの妻は、ようやく出産の時を迎えたという。普段から愛妻家で町のみんなにからかわれていたが、子どもが生まれたら子煩悩になりそうである。すっかりカーヴレイクの一員だ。
ぼんやりとベンを見送る俺に、セオドアがぽんと肩を叩いた。
「ってわけで今日は祭りだ、盛大にやるぞ。明るいうちに準備しておきたいから手伝ってくれ」
それで手伝えよと云って来たのか。俺は小さく溜め息を吐くも、否定はしない。
生まれたばかりの赤ん坊を、俺はついこの間見たばかりで、あまりの小ささに笑った。こんなに小さくてはそう簡単に生きていけないとわかったからだ。健康時である妹にですらそう思ったのだから、俺たちが生まれた時はいったいどれだけ貧弱だったんだろうと思う。
この町の人は新しい生命の誕生を喜ぶ。ついこの間まで簡単に失われていたからか、戦争を知らない子どもたちが生まれることを、まるで我が子が生まれたように喜ぶ。
「ビルさん、お手伝い、できそうですか?」
ルリエールに尋ねられて、俺はああと小さく頷く。あまりに詰め過ぎても良くない。特にルカの家は狭い上に古いから、あんまり閉じこもっているとぶっ倒れる可能性もある。だからもうやめようと思いながらも俺は、やはり不思議と考えてしまう。
まるでネイシャを忘れてしまったかのように、時は動く。レーイが居ない世界が進むように、この町もネイシャが居なくても進む。
先に去って行くセオドアをついぼんやり見ていると、目の前で小さな手が動いた。
「ビルさん? また体調でも悪いんですか?」
「いや、悪い。ぼうっとしてただけ」
「……ネイシャの手がかりは、結局わかりそうですか?」
「俺の言語能力だから進みは遅いけど、神官が行きそうなところを捜してる」
会話するのはこうしてできるが、何せ異国の古文書である。かじっただけの俺には、読むのも苦労する。なんとなく内容を理解して飛ばせれば良いのだが、気になるところはやはりきちんと知っておきたくて、たまにルカが居るときは大人しく世話になっている。ウィリアムズに教えてもらった言語を、そのウィリアムズと血が繋がっているかもしれない奴に教わるとは思いもしなかった。変な感覚に陥りながらも、少しずつ地図を広げてある程度の目星を幾つかつけている状況だ。
ネイシャが殺されることはない、そうわかっているからこそゆっくりできるわけだが、俺はわけのわからない焦りを感じていた。最初はどうしてかわからなかったが、最近ぼんやりとあいつのことを思い出していると、この焦りの理由がよくわかった。
──私はロウリーンリンク、女神リヴァーシンの化身であり、この身を捧げるもの。
ネイシャがまたあそこに居ることを妥協してしまいそうで、またあの時に戻ってしまいそうで、俺は正直にそれが怖かった。一度でもあいつが掴み取ることのできた他の道を、塞いでしまったのではないかと。
「ビルさん、今日はなら、お休みしましょう」
そう云って目の前で笑われると、俺も気が抜ける。
「切羽詰めても、良くない答えばかり出て来るでしょうし。少し息抜きしないとお身体にもさわります」
懸命に俺を休ませようとするルリエールに、俺は小さく吹いてしまう。相当必死だったルリエールは当然反論してくるだろうと思ったものの、驚いたような顔にこっちが驚く。
「ビルさん……」
「なんだよ」
「久しぶりですね、笑ったの」
云われて俺の焦点は、次第にぼやけ始める。えっと、どうだったけ。俺そんなに笑ってなかったっけ。もともと無愛想だと云われるから滅多に笑うことはないだろうけど、それでも久しぶりだと云われるほど笑っていないのは、初めてではないだろうか。
「ネイシャのことでいっぱいなのはわかるんですけど、根を詰め過ぎていて心配だったんです。だから……」
笑う余裕ができただけでも嬉しいと、ルリエールは泣きそうな顔をしながら云う。なんでそんなことで泣くほど喜んでくれるのか、俺にはいまいちわからなかったものの、そのこと自体は煩わしく感じられず、むしろ云われてすっきりとしている。
なんと返したら良いか悩んでいると、ルリエールの足がいきなりするりとふらつく。
「ルリ……!」
咄嗟に俺はルリの手を掴んで体勢を整えさせたものの、彼女はすぐ俺の手を弾いた。まるで拒絶するような動きを初めて見たので、俺は宙に浮いた自分の手をぼんやり見てしまう。しかしルリのほうが尋常ではないほど驚いていた。
「あ……、す、すみません!」
「──いや、別に。それより大丈夫か? おまえも疲れてる?」
「いえ、すみません、ちょっとふらついただけで。……ビルさんの所為じゃないんです。その……」
体勢を整えながら気まずそうに俺を見上げる顔に、ほんの少し陰りが見えた。
「人の手を握るのって、苦手なんです」
「……手?」
「はい、その……どうしても怖くなってしまって」
手を握って安心する子どもなら見たことはあるが、怖くなるというのは初めて聞いた。 まぁ自分の顔を見られないがために鏡をぶっ壊すやつが居るのだ。 手を繋げないぐらいで驚くほどではない。
「あの、ですね。私……」
「おーい、ルリ、ビル! 早く来いよ! 日が暮れちまうよ!」
ルリエールが思い切ったように云った時、タイミング良くセオドアの声が響いた。そういうえばベンの子どもが生まれた祝いのために呼び出されたんだったっけ。云われて太陽を見れば、確かにあまり時間がなさそうだった。明るいうちに準備をした方が楽だろう。
ルリエールは慌てたように、
「準備しましょう、お祝いですよね!」
とまくし立て、踵を返してしまう。どうしようか、と一瞬悩む。でもたぶん、それは本当に一瞬だった。少し前の俺ならたぶんこのまま放っておいただろうけど、どうしても確かめておきたかった。
「ルリ」
「はい、なんでしょう?」
振り返る表情はいつもと同じ、軽やかな笑顔。でもその裏にある辛さを、俺は一応なんとなく知っている。
「おまえが話すなら、俺、聞くから」
「──ビルさん」
ずっとそうだった。カーヴレイク周辺の人は「戦争で」とよく云うが、詳しい戦争の話をしない。息子が、娘が、親父が、おふくろが、嫁が、なんて軽口を云いながらも、それに該当する人を見ていないことに気付いたのは、たぶん随分経ってからだった。彼らの話題にたまにふと自然に出て来る人々はもう居ない。彼らは戦争の話をしない、でも居なくなった人たちの話はごく自然にする。
異教徒残虐のことを平然と云えるのは、ルリエールが気丈だからでもなんでもない。ただそういう時勢に生まれ、そういう時の流れで生きて来たからそれが自然なのだ。辛かった時の話をするのは、とても辛い。でも反面、吐き出して楽になる部分もある。話すのが辛いということは結局、聞くほうも辛いのだ。最後まで聞いてあげられる自信がないのなら、聞かないほうが良い。だからここの人たちは、自分の体験を周りに吐き出すことをしない。代わりに楽しかった思い出を語る。それで自分の辛さを乗り越えて来たのだと思う。
だったら俺は誰にも云えないルリエールの辛い体験を、聴く義務があるのではないだろうか。うーん、……義務というと少し違う。この閉ざされた港町で唯一、今なら聴いてあげられる存在なのではないかと思う。
「俺のつまんない話、最後まで聞いてくれたから」
「つまんなくなんてありません」
きっぱりと返答されて、俺は言葉に詰まる。
「つまらなくなんてない。私はビルさんのご親族を知らないからなんとも云えませんけど、ただ私が云えるのは、ビルさんがとても、傷ついているということ」
「……俺が?」
俺は、違うだろう。俺はただ、逃げて来ただけだ。偽物の癖に生き残って顔を晒していることに耐え切れず、 またマイペースな両親に疲れて、あの国に居られなくて飛び出て来ただけ。
だがルリエールはかぶりを振る。
「ビルさんだって、辛いのに。どうしてそう認めないんですか」
「だって、俺は平気だから。もっと辛いやつら、知ってる」
「辛さに優劣なんてありません、私は辛いことは辛いって云います。今までたくさん辛いことに遭ったと自分で思っています。でも他にもたくさん辛い思いをしている人が居るから、それには浸りたくない。ただ辛かったことは本当のことだから、たとえもっと辛いことがあったという人が居ても、自分の辛さを絶対に否定はしません」
否定してしまったら、自分が生き残っていることすら無意味になる。だからルリエールは、辛かったときちんと伝える。俺の言葉も実際辛そうに聞こえたから、辛いのだろうとはっきり訊くことができた、と。
俺は返って途方に暮れてしまう。
俺、辛いのかな。よくわからない。
辛いと思ったことはない。
……もう5年前か。突然の病気の苦しみで死にかけてから、一時目が覚めた時、どうして俺がここに居るのかわからない理不尽さが襲った。俺はここに居てはいけない気がして、とにかく暴れた。今でもあの時のことは、よく思い出せるのだ。慌てて外に出てわかった。みんなが俺を見て恐れたあの視線で、やはり間違えたのだ、と。
「ビルさんは辛かった、私も辛かった。だから、今は少しぐらい、楽しみましょう」
そう云って笑うルリエールの顔は実にいきいきとしていて、俺はたぶん、少しぐらい笑い返せたと思う。