第29話:なにわ一水(完)
羽田空港の到着ロビー。預けた荷物を受け取ると、外気は山陰の澄んだ空気とは違う、都会特有の湿り気と熱を帯びていた。二人は空港駐車場に停めてあったジャガー『F-TYPE』へと向かう。
「今日も、送るのは品川駅でいいんだよね?」
僕がキーを解錠しようとすると、サトミが少し上目遣いで僕を見つめた。
「……ねえ、ツカサ。今日は、お家まで送ってほしいな」
「えっ!?」
予想外のリクエストに、僕は思わず声を上げた。
「大崎のマンションなんだけど……いいかな?」
「大崎のマンション!? ……あそこらへん、すごいところだよね。サトミ、そこに住んでいるの?」
「そうなの。……実はお父さんが買ってくれたところで」
さりげなく明かされたサトミの「お嬢様」な背景に、僕は少しだけ背筋が伸びる思いだった。
「わかった。じゃあ、そこまで責任を持って送り届けるよ」
ジャガーのV8エンジンが、夜の駐車場に低く猛々しい咆哮を響かせる。大崎へと向かう首都高のBGMは、いつもの『TOKYO FM』。都会の喧騒を伝えるラジオの声が、旅の終わりを冷酷に告げていた。
やがて、大崎の近代的な高層マンションの車寄せに滑り込む。
「サトミ……本当に、すごいところに住んでいるんだね」
「そんなことないよ。……ツカサ、この数日間、本当に楽しかった。本当に」
サトミがシートから身を乗り出し、真っ直ぐに僕の目を見る。
「僕もだよ、サトミ。こんなに心が動いた遠出は、久しぶりだった。……ありがとう」
僕が微笑むと、サトミはドアを開け、最後にもう一度強く念を押した。
「絶対、絶対また連れて行ってよね! 約束だよ!」
「ああ、約束だ」
サトミを降ろし、ジャガーをゆっくりと発進させる。バックミラー越しに、見えなくなるまでこちらを見送るサトミの姿があった。家路につく車内。ジャガーの鋭い加速とともに、僕の意識は再び「日常」へと飲み込まれていく。数時間後には、あの喧騒と、あの責任と、あの山のような仕事が待っている。
恐怖の月曜日。けれど、今の僕の胸には、山陰で見た美しい夕日と、美味しいお米、そして隣で笑っていた彼女の記憶が、消えないお守りのように宿っていた。




