第26話:なにわ一水⑥
食事を終え、心地よい満腹感とともに部屋に戻ると、そこにはフカフカの布団が二つ、並んで敷かれていた。
「ツカサは大浴場に行ってないんだし、ゆっくり浸かってきたら?」
「ああ、そうさせてもらおうかな。サトミはせっかくだから、お部屋の露天風呂に入ってみなよ。さっき入ったけど、宍道湖を眺められて最高だったよ」
ツカサが着替えを手に取り、「じゃあ、行ってくるよ」と軽やかに部屋を出ていく。
「はーい、いってらっしゃい」
サトミが彼を見送り、自分も湯浴みの準備をしようとした、その時だった。
ふと視線を落としたテーブルの上で、一本の時計が銀色の鈍い輝きを放っていた。
「……え? ろ、ろれ……ロレックス!? しかもこれ、デイトナじゃない!」
思わずサトミの声が部屋に響く。
(ルイ・ヴィトンのタンブールを持っていたかと思えば、今度はロレックスの最高峰……。ツカサ、一体何本時計を持ってるの? というか、本当にあなたは何者なの……?)
知れば知るほど深まるツカサの謎に溜息をつきながらも、サトミは「とりあえず、お風呂にしましょう」と気持ちを切り替えた。
ふわりと浴衣を脱ぎ捨て、しなやかな曲線を描く艶やかな身体が、露天風呂の湯気に包まれていく。
(わあ……。宍道湖を眺めながら入るお風呂って、最高……)
東京の煌びやかな夜景とは対照的な、吸い込まれるような闇と、かすかな波の音。その静寂が、彼女の心を芯から解きほぐしていった。
その頃、大浴場に浸かっていたツカサは、貸切状態の空間を独り占めしていた。 鼻歌混じりに、お気に入りの『怪獣の花唄』を口ずさむ。ツカサはただ、島根の柔らかな湯に身を任せ、心ゆくまで「休息」を堪能していた。
「戻ったよ」
大浴場の湿り気を纏って戻ると、サトミは椅子に腰掛け、湯上がりの艶やかな肌を浴衣に包んで待っていた。
「おかえり、ツカサ」
「大浴場、広くて最高だったよ。誰もいなかったから、完全に貸切状態だった」
晴れやかな笑顔で答える僕に、サトミが少し茶目っ気のある視線を送ってきた。
「私も、部屋のお風呂で宍道湖を独り占めしてきちゃった。……ねえ、ツカサ。あそこにある時計、すごいね」
彼女の指差す先には、僕が置いていったデイトナ。
「あっ、あぁ……(しまった、盗難が怖くて置いていったけど、しっかり見られたか)」
僕は一瞬、顔を引き攣らせた。
「これ、おじいちゃんが僕の誕生日にくれたんだよ……」
「おじいちゃんから! 優しいのね、ツカサのおじいちゃん」
サトミは深く追及せず、優しく微笑んだ。けれど、その瞳の奥にはまだ好奇心が宿っている。
「ツカサって、本当にいろんな時計を持っているのね」
「あー、前のかな? ヴィトンは、あまり持っている人がいないから好きでね。あれは自分の誕生日に、ご褒美として買ったんだよ」
今度は意識して、穏やかに笑って見せた。
「ご褒美って大事だもんね。……さて、そろそろ寝ましょうか」
並んだ二つの布団に潜り込む。枕元から届くサトミの香りが、僕の理性をかすかに揺さぶる。
「ツカサ……私って、魅力ない?」
暗闇の中で、不意にサトミが呟いた。
「えっ、そんなことないと思うよ……。素敵だよ、本当に」
答えたものの、一日中の運転と島根までの長旅が、急速に僕の意識を奪っていく。
(……なんでこの人、全然手を出してこないわけ? 真面目すぎるわ……)
サトミが心の中で溜息をついているとも知らず、僕は深い眠りに落ちていった。
隣から聞こえてくる、ツカサの規則正しい寝息。
「寝顔は……ちょっと抜けてる感じ。そこがまた、いいんだけどね」
サトミはニヤリと唇の端を上げると、観念したように目を閉じた。
――翌朝。 窓から差し込む宍道湖の柔らかな光で目が覚めた。
「あー、よく眠れた……。家はベッドだから、布団で寝るのってなんだか新鮮で面白いね」
「あ、起きた? 確かに、家とは全然感覚が違うわね」
サトミも起き上がり、伸びをしながら窓の外を見つめる。
神々の国の朝が、静かに始まった。二人は空腹を覚えながら、極上の朝食が待つダイニングへと動き出した。




