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第二十三話 ゆめじゃない



 咄嗟に発動した《獣化》の影響で、獣人は一時的に自我を失っていた。

 羽虫を払うように無意識に振った腕は少年を紙屑のように吹っ飛ばした。

 血を撒き散らしながら倒れた少年に、本能に取り込まれ文字通り獣と化した獣人はそのまま食らいつこうと飛びかかり、


「——ッ!?」


 ドバッ! と。

 突如として少年の左腕がおぞましいほどに膨張し、飛び出した紅い棘が獣人を狙う。

 直前で異変に気付いた獣人は間一髪で回避する。だが、その動きを感知したかのように棘も方向を変えた。

 剣で切り払っても傷一つ付かず、逆にバキンと刀身が折れる。


「ぐ——ォォおおッ!」


 獣人は闘争本能を抑え込んで脚力を開放。一気に加速して距離を取る。

 標的を見失った棘は、中空で粉々に砕けて消えた。


(くそ、咄嗟の《獣化》は制御が利かなかったか……だが、これは……!)


 獣人が態勢を立て直す間にも、腕はバキゴキと氷が軋むような音を立てて変形を続ける。

 飛び出した何本もの赤黒い棘がぐるぐるととぐろを巻き、少年はその中に取り込まれて姿が見えない。捻じくれ折れ曲がり、いまや血を凍らせて作った醜いオブジェと化していた。

 獣人は二人の少女をちらりと見やる。


「何だこれは、エルは大丈夫なのか!?」


「知らないわよ、けど嫌な予感しかしない。ぶっ壊すわ!」


 橙色の髪をした少女が魔法剣を振るい、爆炎が《赤い腕》に直撃する——が、結晶の表面には傷一つ付かず、数本の紅い棘が反撃に走る。

 どうやら二人ともこの異常事態は初見らしい。

 獣人は小さく舌打ちしながら少女たちの元へ急行した。


「うわっ!?」


「な、何すんのよ!」


 獣の腕に二人の体を抱え、獣の脚に再度力を込める。

 この《赤い腕》には、通常の攻撃が通用しない。棘を上回る速度で逃げるしか——


(——ッ!? 速くなってやがる!)


 ちらりと後ろを振り返った獣人は、至近距離に迫る棘を見て横っ飛びに方向転換した。

 頬を氷の先端が掠める。背筋が粟立つような感覚。

 速い。おまけに数も増えている。


「ちょっとあんた、追いつかれそうじゃない、もっと速く走りなさいよ!」


「き、急に方向変えるの止めてくれないか……気持ち悪くなる……」


「お前ら、少し黙ってろ!」


 ガガガガガガッ、と地面や樹木を抉る音が獣人の背後を追う。

 まるで獣人の動きを学習しているかのように、棘の動きはどんどん鋭く狡猾になる。先回りし、足元を崩し、なおも加速して確実に獣人を追い詰める。

 少女に急かされるまでもなく、《獣化》を解放した今なら容易く逃げ切れる。そうしないのは本気を出すと少女たちの体が保たないからだ。脆い後人族の体は急な加速や転回を繰り返すと慣性で内臓がおかしくなってしまう。

 かと言ってこのままではみんな仲良く串刺しだ。

 ジリ貧だと判断した獣人は、地面を削りながら鋭くターンし(緑髪の少女がうぷっと不吉な呻き声を漏らした)、伸び切った赤い棘を逆に足場にして疾走を再開する。

 こうなれば《赤い腕》の本体、あの少年からどうにかするしかない。

 茨の道を突っ切るように逆走する獣人に、追撃も一層苛烈になる——かと思いきや、


「……むっ?」


 突然、棘の動きがぴたりと止まった。



 ***



 まるで深い水底から返ってきたかのように、目覚めた俺の体は空気を欲していた。


「っぐ、う、ご……がふっ!」


 呼吸しようとすると胸に激痛が走り、血と一緒に拒否反応が返ってくる。

 ごぼごぼと口から粘着質の液体を垂らしながら、俺は霞む視界をめいっぱいに見開いた。


(ここは……)


 半壊した駐屯所が視界に入る。

 予想通り、まだそれほど時間は経っていないようだ。

 ただ、夢を見ている間に局地的な嵐でも巻き起こったのか、周囲の木々は薙ぎ倒され、地面が捲れている。なぜか俺の足元の地面だけ無傷だった。

 潰れた肺には、いくら息を吸い込んでも酸素が供給されない。

 それでも激痛ごと強引に空気を飲み下すと、少しだけ体に力が戻った気がした。


(まだやれる……やれるだろ。立て、前を見ろ)


 体は動く。意識も鮮明だ。

 魔力は……土弾にすべて費やしたので空っぽか。

 いや、まだだ。

 この世界に転生してたった四年、されど四年。俺は弱い自分を努力で克己してきた。魔力の少なさを工夫で補った。一日たりとも欠かすことなく全力で鍛えて全力で学んだ。その下地は薄いかもしれないが、確かな厚みがある。

 考えながら体を動かせ。状況を把握して頭を回せ。

 死ぬ気で尽くせ、戦う少女たちのために。

 奥歯を噛み砕く勢いで食い縛りながら、俺は全身から力を搔き集め——


(……、なん、だ、これ)


 その時初めて、俺は自分の左腕が異形に変わり果てていることに気付いた。

 肩の付け根から、何か……赤黒い巨大な氷の結晶のようなものが生えている。


「————エル、右だッ!」


 緑髪の少女の声が飛び、俺は地面に横たわった状態のまま右を見た。

 わずかに見えたのは、長い爪を束ねた貫手を腰だめに構える獣人の姿。

 そして次の瞬間、左腕がズキンと疼き——真っ赤な何かが視界を一直線に横切った。

 一瞬、自分の体から上がった血飛沫のように見えたが、ガキン! という硬質な音が獣人の強襲を遮っていた。

 見ると、左腕の結晶が巨大な槍のような形に変形し、切っ先を獣人に突きつけている。


(……守ってくれた、のか? いや、俺の意識に反応した?)


 左腕の感覚はない。

 だが、意識を集中すると赤い結晶がガキガキと応答するのが分かった。

 一体何がどうなってこうなったのか、魔法かどうかすら分からない——原因も正体も不明な化け物じみた変貌を遂げた左腕。

 なんとなく、このタイミングで夢の中のトゥエルが《交代》を迫ってきた理由が分かった。

 これが彼に『守り切ってみせる』と言わしめた、大好きな家族を守るための秘策だ。


「チィッ!」


 退くことなく俺の懐に張り付き強烈な一撃を見舞おうとする獣人に、赤い結晶は勝手に無数の棘を生成して反撃を行う。赤い棘は見た目以上に頑丈なようで、獣人の打撃を受けてもびくともしない。ガガガギギギギ! と爪と棘が火花を散らして激しく斬り結ぶ。

 圧倒的な性能だ。このまま力ずくで押し返せるのではないか。


「ごほ、ごほっ……」


 むしろ、問題なのは俺の体力の方か。

 呼吸ができない、酸素が足りない、体が動かない、思考がまとまらない。そんな崖っぷちでまだ踏ん張ることができているのはこの《赤い腕》のおかげだ。自動で迎撃してくれなければ初撃で片が付いていただろう。

 だが、そのギリギリで残っていたわずかな体力も今まさに底を尽く寸前である。


 そんな自分の状態を自覚しながら——なぜか俺は、


「————消え、ろ」


 あらん限りの意志を込めて、全ての赤い結晶を消滅させていた。

 俺の肩の根元から、広域に展開していた無数の棘まで、全て。

 主人の命令を受けた《赤い腕》は、ガラスが粉々に砕けるような破砕音と共にポリゴン状の赤い欠片に変わり、大気中に消えていった。


「……何のつもりだ?」


 道を阻む相手がいなくなった獣人は、それが俺の意志によるものだと気付いたらしい。

 一度俺に行動を先読みされたことを警戒してか、獣人は様子を窺うように距離を取ったまま油断なく構えていた。

 そのまま数刻が過ぎ、獣人は疑念の色を深くする。

 消耗の著しい体力と集中力をわざわざ酷使し、無意味どころか自らを逆境に立たせるような不合理甚だしい行動を取った俺の意図を図りかねているようだ。確かに如何にも罠を匂わせる演出に見えたかもしれないが、実のところ何の中身もないただの意地による行動だと知ったらこの獣人はどんな顔をするだろうか。

 その間に、ずるずると、俺は指先を少しずつ地面に這わせていた。

 たった一言呟いただけで全身から力が抜け、意識は今にも暗転しそうだった。しかし何故か体の底から湧き上がる不思議な衝動が俺を突き動かす。真っ黒に燃え尽きた炭のような心の奥に、仄かな火が灯っている。

 口から血を吹き零しながら、先のことなど考えず、俺はただ立ち上がるために全力を注ぐ。


「どうした? それで終わりか」


 気が付くと、目の前に獣人が立っていた。

 ついに意識が途絶え始めた俺は、まともな言葉さえ喋れなくなっていた。


「あ、ごふ……は、ぁ……う」


「……ふん。何を言っているのか分からんな」


 もはや自分が立っているかどうかすら定かに認識できない俺に、獣人は淡々と告げた。


「もう、楽になれ」


 そして——重力に引かれて頽れる俺の体が、不意に暖かく柔らかな何かに包まれた。

 あぁ、本当に楽になった、と俺は力なく笑った。

 特に、うなじの辺りに当たっているもふっとした感触がものすごく心地いい。

 それにこの天然の石鹸みたいな柔らかな匂いは、なんとなく覚えが——


「……え」


 片目を開けると、そこにセレナがいた。

 透き通った紅玉の瞳が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。


「だい、じょうぶ?」


「……ぇ、ぁ?」


「うん」


 音にもなっていないような掠れた声に、少女は笑顔で応えた。

 その笑みは、口角を上げて表現する分かりやすいものではない。

 いつもと変わらない無表情なのに、目だけがほわんと微笑んでいる、見惚れてしまうほどに綺麗で、不思議な笑顔だった。


「ぅ、ぇ……ごほ、がはっ!」


 首を支えてくれているのか、体がずいぶん楽だが、喉の奥に詰まっていた血の塊がいきなり上ってきて俺はしこたま咳き込んだ。

 そんな俺の背中を擦りながら、少女は小さな声で言う。


「ゆめじゃない、よ」


 ぼろぼろに傷ついた少年を安心させるように。

 ちゃんとここにいることを示すように。


「もう、あんぜん」


 その囁くような声は、今まで俺がやってきたことを見通しているかのように、疲弊し切った心身を労り、癒しの力さえ染み渡らせ——やがて優しい眠りへと誘った。



おかしいな……

もっともふもふを登場させる予定だったのに……どうしてこうなった……?

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